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2024/04/26 00:45 |
2章  中央デビュー! ⑧







 月明かりの下、小次郎はひとり、牧場の東側にある木立へ向かっていた。
 初夏とはいっても北海道である。
シャツ一枚ではやはり肌寒い。
 懐かしさのあまりしこたま酒を飲み、家を出た頃はほろ酔いぎみだったのも、ものの数分で頭がしっかりしてきた。
 あいかわらず外は虫がうるさい。
「寒ィ……」
 両手をスウェットパンツのポケットに突っ込みながら歩いていると、暗いが見覚えのある景色が小次郎を不思議な気持ちにさせた。
 放牧地を隔てる牧柵の間に設けられた道は、車のワダチ以外の場所も邪魔な草がきれいに刈り取られている。
 大きな図体のわりに昔から几帳面な霧原ゲンの顔が浮かんで、思わずその口元が歪んだ。
 暗がりになった長い木立を抜けると、急に視界が開けた。
 目の前に現れたのは、牧場の横を流れる静内川だった。
 川の水面には雲間に浮かぶ満月が映し出されていた。
 小次郎は岸辺にしゃがみこみ、ポケットに入っていたタバコを取り出してくわえると、おもむろに火を点けた。
 口から吐き出された煙が風に乗って川下へと流されていく。
 振り向くと、その視線のさき、右手の林のなかに人間の身長ほどもある大きな石碑が立っていた。
 小次郎は立ち上がり、思い起こすようにして歩み寄った。
 石碑には大きな毛筆体で『馬頭観音』と彫られており、足元の地面には石のプレートが並んで埋まっていた。
 整然と並べられているプレートには霧原ファームを支えた功労馬たちの名前が彫られている。
むかって左側から順番に、最も古いユキシロ、ハクスイ、ダイオオショウ……と続き、そして最も新しい最後の1枚に『ジャムシード』の名前が刻まれていた。

ジャムシードはおよそ12年前、この牧場で生まれた。
そして、そのたった5年後に遺骨と灰になってこの場所に帰ってきた。
短い生命ではあったが、競走を義務付けられて生まれてくるサラブレッドにとってそれはめずらしいことではない。
 小次郎は石碑にかからないように煙草の灰を落とした。
 この土地に生まれ、長じてはターフの上を駆け巡り、ふたたびこの土に還る。
 それだけでもジャムシードは幸せだったんだ、といつしかゲンは小次郎に言った。

おれは、――あれから自分を取り戻すために、ここを離れたんだ……

霧原ファームを辞めた小次郎はその後、日本を離れて異国の地に向かった。
70リッターのバックパックを担いでカリフォルニアに降り立ち、紆余曲折ありながらもヒッチハイクで陸路、小次郎は米国競馬の中心地・ケンタッキー州に辿り着く。
多くの風景や思い出が頭のなかに蘇った。
「小次郎」
 背後からかけられた声に振り返ると、甚平姿のゲンが立っていた。
「……死んじまった馬どもに帰郷の挨拶か? 宴会抜け出して便所にいったきり、帰ってこねぇと思えば」
 冗談めかしたゲンに、
「すまねぇ、久しぶりだからな。懐かしくなっちまったんだ」
 小次郎は笑って答えた。
「こいつらもきっと懐かしんでる」
 ゲンは小次郎が差し出した煙草を受取り、自分のライターで点火した。
 秀吉が生まれて家の中で吸えなくなって以来、めっきり煙草の本数も減った。
 おたがいに黙ったまま、時間が流れた。
「なあ、小次郎」
「あ? どうした」
 神妙な顔をしたゲンはへの字口をする。
 真面目な話をするときの癖だ。
「……おまえが連絡しねぇから言いづらかったんだけどよ。うちの仔っこをおまえの厩舎で預かってみねぇべか」
「ゲン……」
 小次郎はその髭面を見上げた。
「たしかにうちにゃあ、皐月賞も、ダービーのトロフィーもある。だけどよ、それで満足しちまってるわけじゃねぇんだぁ。おれはジャムシードを作った親父を超えたいし、ここんとこずっと負けっぱなしの名門・静内地区を復興させたいと思ってる。そのための努力も投資もしてきた」
 言いながらゲンは首筋を掻いた。
「いまは早来が日本の馬産の中心地だ。どんな厩舎にいれたって、やつらの馬が優先されちまう。ピカピカの異国血統をひっさげた繁殖に、これまたブランド種馬をつけてんだからしょうがねぇや。肝心の馬主はきらびやかな血統馬に目がくらんじまって、おれたち日高衆が苦心してこさえた馬には見向きもしない」
 北海道の早来地区と呼ばれる場所には本邦随一の規模を持つ巨大組織・伍代グループの大牧場がいくつも点在している。
 いまや伝説となった偉大なホースマン・生田玄哉が一代で興した大牧場で、現在は国内の生産シェアのおよそ三分の一が伍代グループがらみというある種の「異常」状態になっていた。
 昨今では不景気も相まって経営体力のない家族牧場がつぎつぎに廃業しているが、競馬における富の配分が著しく偏った、いわゆるしわ寄せが弱者に向いたためだという見方は根強くささやかれている。
「競馬なんざ勝ち組をさらに太らせるもんだからな。まともな状態になるまでにはあと20年はかかるだろ」
 たがいに現場を知る者同士、ため息がもれる。
「だが、おれたちだってこれ以上やられっぱなしではいられねぇんだ」
 力強い口調でゲンは拳を固めた。
「数年前からだが、ようやく日高にも力をもった若い人間が増えてきた。反骨精神とハングリー精神を併せ持つやつらがな。いまは早来に屈伏しているような形でも、打倒の志を胸に秘めた連中は強い。そして、そいつらをまとめ上げる連合が今、生まれようとしているんだ」
「ほう」
「もう年寄りの時代じゃない。おれもその一人として自分なりのやり方を模索している。小次郎が力になってくれるなら心強い」
「なるほど……」
 手にしていた小石を川の流れのなかに投げ込むと、ドボンという音とともに小さな飛沫があがった。
「……いずれ群れをなすような話は嫌か?」
 ゲンの押し殺した表情に小次郎は苦笑した。
「嫌じゃねぇよ。話が大きすぎてよくわかんね―けど。ただ、おまえが一方的にオレの力になってくれるような話なら断ったかもな。オレが、ゲンの力になるんなら悪くない。いや、歓迎だ。お前にはガキのころから山ほど世話になってる」
 そう言うと小次郎は立ち上がって白い歯を見せた。
「明日は早起きしろ。うちにいる馬で気に入ったやつは全部もってけ」
 ゲンも立ち上がり、男たちは連れ立って夜の道を帰って行った。








 朝もやのかかった放牧地に、厩舎から連れてこられた馬たちが引き手を外すやいなや、弾かれたような勢いで飛び出していく。
「ほえええ、元気がありあまってるなぁ」
 和那に借りたシャツとデニム姿の楓は、うれしさのあまりに飛び跳ねたり相撲をとったりしている仔馬たちを見つめた。
 ひんやりとした澄んだ空気の中に冴えたいななきがこだまする。
「あんな仔たちがこれからゲッソリするのよ」
 同じようにラチにもたれかかっていた和那が微笑しながら言った。
「月が変わってもう夏だし、今日から昼夜放牧がはじまるの。朝の検温以外はあの仔たち、ずっと外に出しっぱなし。ひと月もしたらみんなくたくたになるんだわ」
 馬は一般的に昼も夜も関係なく活動する生き物だ。
 昼間だけでなく夜間も放牧することで運動量が単純に言っても倍になる。
 青草を食べる量も必然的に増えるし、馬房に閉じ込めておくより逞しく育つのだ。
 夜の放牧地で大きな事故にでも遭えば発見するまでに長い時間を要するリスクもあるが、それを上回る恩恵は大きい。
 両手を使って1人で2頭の馬を引く牧場流の経験が初めてだったので最初、楓はかなり戸惑ったが、やれば意外と馬は素直に従ってついてくるのにも驚いた。
 そして思った通り、やはり和那は馬の扱いが上手い。
 もともとズブの素人だったこともあり、楓へのアドバイスも的確でわかりやすかった。
 バカついた若馬が後ろ脚で立ち上がっても冷静にこれをなだめ、さっと引いていく姿は堂に入ったものである。
「楓ちゃん、喉かわいたろ。休むべ」
 厩舎の寝わら上げを終え、ひととおり外に広げ終わった頃、冷蔵庫から持ってきたミカンジュースを手にしたキク婆がニッと笑った。
 作業を終えたパートの作業員たちと、厩舎そばの丸太でできたベンチで休憩をとる。
「うっま―いっ♪」
 果実をしぼっただけの素朴な味が口のなかに浸みて、思わず声になった。
 小次郎と楓が加わったおかげで普段より30分ほど早く作業が終わり、時計はまだ8時半をすこし回った程度だ。
「小次郎さんたちはじきに帰っちまうんだべか?」
 つなぎ姿の、よく日焼けした青年が尋ねる。
 青井雄作という男で、近所の牧場から毎日、手伝いに来ているという。
 自宅は繁殖が3頭しかいないので少し早起きして作業をこなしているらしい。
「今日の夕方には帰るつもりだよ」
 草のうえにあぐらを掻いた小次郎が答えると、みな残念そうに声をもらした。
「またすぐ来る。どうやらオレも少しはまともに調教師の仕事ができそうだしな」
「小次郎ちゃんが調教師の大先生だなんて、そったら話を聞いたらびっくりするさぁ」
 キクは小次郎が美浦所属の調教師になったことを知らなかったらしい(ゲンと和那は当然知っていたが)。
 目じりが垂れて小さく見える目を丸くしている。
「昔っから、こいつは何も言わないで何でも始めるからな。騎手になるって言ったときだって競馬学校、受かってからだっただろ?」
「オレは、人一倍シャイなんだよ」
 冗談めかして小次郎がそう言うと、一同はどっと笑いに包まれた。
 親友に肩を小突かれて笑っている小次郎を見ながら、楓は無意識に胸が熱くなっていた。
(こんなに楽しそうな先生、見たことない……)
 短い滞在だったが、霧原ファームの温かいもてなしは楓の心に安らぎを与えてくれた。
 ありがとう――。
 そう小さく呟いて、コップに残っていたジュースを飲み干した。





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2008/08/05 02:26 | 未選択
2章  中央デビュー! ⑦










 馬房から棒ごしに首をのばしてきたその馬は、こちらを見て鼻を鳴らした。
 茶色い鹿毛の額には『星』と呼ばれる小さな白い斑点がついている。
 黒曜石を思わせる濡れたその瞳は、穏やかな表情で人間たちを見ていた。
「かわいい!」
 思わず楓は声をだしてその額をさわる。
 さらさらとした額の毛並みが気持ちいい。
 馬はペロリと舌を出した。
「和那、こいつどこをやっちまったんだ?」
「左後脚の下腿部の骨に小さなヒビが入った程度なんだけどね。もうほとんど大丈夫だし、ここ最近はウォーキングマシンに入れてしっかりと歩かせてる。月末には乗り始める段取りにはなってるのよ」
 そう言って和那は慣れた手つきで無口頭絡と引き手をつけ、ジークという名の馬を馬房から出した。
 のんびりとした蹄音が厩舎内に響く。
 一頭の馬が馬房から出されたことで勘違いしたのか、馬房内にいる他の馬たちが我も我もと動き出し、寝わらを踏みしだく音や低いいななきが聞こえる。
 和那は長方形をした厩舎の真ん中にある、広さのある繋ぎ場で馬を停め、立たせた。
「どうかしら?」
 そう言って自身満々といった感じに停止姿勢をとらせる。
 楓は腕を組みをしてじっと馬を見ている小次郎の横顔を見た。
 小次郎は黙ったまま、馬体の隅々までつぶさに観察していた。
 骨格の伸びやかさ、筋肉の質・張り、上体から蹄に至るまでを分析していく。
 馬体重は見たところ470キロぐらいだろうか。
 それでもちゃんと調教で乗っていけばおそらく450キロ台にはなるだろう。
 横から見ると前後肢とも幅があって大きいが、正面に立って見ると意外に薄さを感じさせる。典型的な中距離~ステイヤーの体型である。
 先ほど歩いていた時に思ったのは、つなぎが柔らかく、それでいて全身に軽さを感じさせたことだ。
 柔らかい馬というのは芯に力がつくかどうかがポイントだが、それは鍛えてみないとわからない。だが、少なくとも現状では競走馬として活躍する可能性を示唆する特徴をいくつも持っているように思えた。
「おっ」
 小次郎が驚いたのはその後だった。
 耳の後ろあたりがかゆいのか、ジークが左後脚をグッと持ち上げて器用に自らの蹄で掻きだしたのである。
「どうしたんですか、先生」
 不思議に思った楓が訊ねる。
「いや……立ったまま頭を掻けるのは相当体が柔らかいからだ。見ての通り後ろ脚の関節の可動域もかなり広い。いい背中の形もしているし…」
 言いながら自然とその口元がほころんでいた。
「こいつは抜群の素材だぜ」
 小次郎がキッパリ言い切ると和那は満足げに微笑んだ。
「やったあ! それじゃ、この仔をうちに預けてもらいましょうよ!」
 楓は喜びのあまり両手を突き上げて飛び上がった。
 あらためて見つめるほどに目の前の鹿毛馬がよく見えてくる。
 いや、小次郎と和那のお墨付きがあるからそう見えるのだろうが。
 ジークのなだらかな肩の線にそっと手を触れると、しっとりとした毛並みの奥に暖かい温もりがあった。
「秀吉!」
 突然、飛んできた鋭い声に三人の会話が止まる。
 厩舎の入口に視線を注ぐと、そこには青いTシャツにデニム姿の大男が立っていた。
 おびえた様子の秀吉は母親の足にしがみついて、ズンズン歩いてくる父・霧原弦人の姿を見つめた。
 霧原は身長が180cm以上はありそうで、体の大きい男だ。
 むき出しの太い腕は血管が浮き上がっているほど鍛えられている。が、小次郎や犬介のようなたくましさとは違って、空手家や柔道家のそれを連想させる。
 色黒の肌に短く刈り込まれた黒い髪、彫りの深い顔立ちに口元と顎にひげを蓄えていた。
「あなた……」
 馬をもっていた和那は不安そうにつぶやいた。
 小さな息子の前に立った霧原は紅潮させた顔で大きな息を吐いた。
 どうなるのかと思いながら見守っていると、母親の陰に隠れていた秀吉はおずおずと歩み出て、頭を下げた。
「父ちゃん、ごめんね」
 しばしの無言の時間が流れ、馬房のなかにいる馬たちの鼻音や寝わらを踏む音が聞こえた。
「……母ちゃんと婆ちゃんには謝ったのか?」
「うん」
 やや落ち着いた様子の問いかけに秀吉はうなずいた。
「わかった。今度から皆を心配させるようなことはするなよ」
 ウンと答えた息子から、霧原は小次郎に目を移した。
「秀吉を助けてくれた話は和那から聞いた。ありがとう。そして久しぶりだな、小次郎」
 語尾があがる北海道訛りでそう言うと霧原は小次郎に頭をさげた。
「おまえら家族も元気そうだな、ゲン」
 懐かしい再会に2人は握手を交わした。
 隣で話を聞いていると、小次郎は調教師になってから霧原ファームに来ることはなかったらしい。
 ツテも何もない状態での厩舎の船出は何かと苦労が多かったようだが、いきなり親友を頼るわけにもいかなかったようだ。
 いかにも小次郎らしいと楓は思った。
「それがまたひょんなコトから、急に顔を出したっていうわけか」
 そう言うと霧原は、妻の和那が持っている鹿毛馬を見てピンときた表情を浮かべた。
「ジーク……」
「ああ。せっかくだから見させてもらったんだが、いい馬だな」
 小次郎がそう言うと霧原は「そうだろう」と言った。
「ジークの母親のクトネシリカは未勝利で引退したが、おまえには縁の深い馬だ」
「?」
「シリカは、ジャムシードの妹だぁ」
「!!!」
 驚愕の顔をした小次郎はジークの顔と馬体を見つめた。
「ジャムシードの母フロストフェザーの忘れ形見だからな、ここぞとばかりに良い種馬を配合したさ。現役時代のスピアヘッドは勝ちきれないことが多かったが、おそらく精神的な部分で負けていると見ていたから体質的には問題ないと思ってた。生まれたコイツは想像を超えるデキになったなぁ」
 感慨深げにそう言うと霧原はジークの首筋をポンポンと叩いた。
「俺自身も、コイツを小次郎に預けられたらいいとは思うが…」
 言葉を濁して、霧原は落胆のため息をついた。
「何か、問題でも?」
 楓の問いに大男は首を振って両腕を広げる。
「……売れちまったんだぁ。つい今日の夕方のことだ」
 和那を含めた大人たちは、意外な言葉に声を失った。









 黒いジャージとシャツ姿になった楓は用意された柔らかい布団のうえで女の子坐りをしながら携帯を見ていた。
 あれから家に戻り街に帰ろうとしたのだが、祖母キクの強い引き留めもあって今夜は霧原の家に一泊することになったのだった。
『 メール 1件 』
と表示された所で決定ボタンを押すと、ママより、という題名のメールが届いていた。
 楓は母親とのメールのやりとりを大体、二日にいっぺんくらいの間隔でしている。
 とくにこれといった内容でもないのだが母はそれとなく娘の仕事や生活に気にしているようで、最近はこれまでまったく興味もなかった競馬新聞を買って読んだりしているらしい。
 高校三年の夏にJRA厩務員課程の資料が家に届いたときは、猛反対されて大喧嘩になった。
 競馬がどうとかよりも楓が大学に進むと言っていたことを突然ひるがえしたことが母には納得がいかなかったらしく、さんざん罵り合ってお互いボロボロに泣いた。
 楓の家は父親が公立中学校の教師、母もまた高校の音楽教師という公務員家庭である。
 それという特技はないものの、活発で健康的な一人娘に対して両親はやはり安定した進路を望んでいた。
 そのことを楓はよく知っていたし、べつに反抗心があったわけでもない。
 それでも強く主張を押し通して、結局は競馬学校の厩務員課程に入学した。
『最近の競馬は夕方から夜遅くまでやっているのですね。C2、B1とは何ですか?』
 母よ……読むところが間違っているぞ。
 しかしその間違いにもまた簡潔な文章で応えられない。
 楓はふたたび自分の未熟さを感じた。
「はああぁぁぁ」
 なんとかメールを返して布団に仰向けになると、いかにもログハウスらしく透明な塗装がされた木目の天井にある裸の電球がすこし眩しかった。
「あたしってホント…」
 役立たずだな、と心の中でつぶやく。
 忙しかった今日一日のことが思い出される。
 普段はなんとか厩舎作業をこなしているが、失敗は多いし、小次郎にもしょっちゅう怒られている。
 熊五郎のような知識や経験もないし、翔太のような馬の扱いの上手さもない。
 自分はただひたすら頑張ってはいるつもりだが、それだけだ。
 今回もただ車を運転しているだけでそれ以外は何の力にもなっていない気がする……。
 そう思うと無性に胸がしめつけられた。
「楓ちゃん、いい?」
 コンコン、とノックがして扉が小さく開いた。
「和那さん」
 バスタオルを持ってきた和那は楓の充血した目を見て、
「ど、どーしたのさぁ!」
 と血相を変えて部屋に入ってきた。
 気がつかないうちに涙がこぼれていたらしい。本人にとっても意外だった。
「……ナルホドねぇ」
 布団のうえで正座したまま腕を組んだ和那は楓の話を聞いてフムーと唸った。
「楓ちゃんは厩務員はじめて何年目なの」
「二年目です」
「それじゃ仕方ないわよ。もともと競馬の外の世界にいたわけだし」
「和那さんはもともと北海道の出身なんですか?」
 そう聞かれると和那は笑って横に手を振った。
「ぜーんぜん。東京でOLやってた」
「へえー! やっぱり都会の人だったんですね」
「父親が競馬好きでね、家族旅行で日高にきたのが…もう何年前かな。その頃、会社がつまらなくなっていたからそのままこの近所の牧場で住み込みバイトしたの。それがきっかけで気がついたらこんなんなっちゃった!」
 そう言って目を細めてチロッと舌を出す。
「ここんチを手伝うようになってからは大変だったよぉ。ちょうど先代が亡くなって少ししか経ってなくてさ。うちの旦那もお婆さんもああ見えて怒りっぽいし、ちょー大変だった!! なんか思い出してみるとあの時はしょっちゅう泣いてたな…」
「……」
「でね、半年くらい経ってから小次郎っちがうちに来たの。今じゃ考えられないけど、最初の頃は病人かってくらい死にそうだったんだよ」
 そうだ―――と楓は思った。
 霧原もキクおばぁもそうだが、和那はその頃の小次郎を知っているのだ。
「馬のことやら本人のことやらで毎日、ケンカ(笑)。はっきり言って大嫌いだったのね。天下のダービージョッキー様だか知らないけどこっちだって仕事なのよ! みたいな。あはは、わたしも必死だったからなぁ」
「そんな激しいやりとりがあったなんて……ちょっと想像できないですけど」
「うん、まぁ、若さゆえかな?」
 そう言って和那は髪の毛を耳の後ろにやった。
 不意に、両手で口元をおさえる。
 続いて漏れ出たのは揺れ動く心の声だった。
「でもさ、小次郎っちがうちの馬に乗っててあんな大きな事故に遭ったとか、誰も言ってくれなかったんだもん……。牧場の隅っこにある馬頭観音の前でいつも頭を抱えてさ、ずっと泣いていた小次郎っちがあんなに元気になってくれてホント、よかった……」
 そう言って音もなく流れ落ちた涙に、楓はハッとした。
「和那さん」
 心配してその手を握ると、「ごめんね」と和那は無理に笑ってみせた。
「楓ちゃんの話を聞くつもりがどんどん脱線しちゃって昔話になっちゃったね。小次郎っちが急にアポなしで来たりするから思い出しちゃって……ていうか、うちの息子を川で拾ったのか」
 そう言うと涙の跡だけ残してもう笑顔に戻っている。
 ひまわりのような女性だな、と楓は思った。
 その素朴な明るさがきっとこの牧場には必要なのだ。
 和那は咳払いをひとつして、
「楓ちゃんの事、正直まだ分らないけどさ。真剣に悩んだりするのはきっと、そこが楓ちゃんの持ち味なんだよ。力不足だと思うなら少しずつ学んでいけばいいの。気がついたところから直せばいいのよ、最初からできる人間なんていやしないんだから。要はどれだけたくさん気づくかということ」
 と言った。
 そのきりりとした姿に、楓はまじめに頷く。
「はい! ありがとうございます!」






2008/04/08 03:40 | 未選択
2章  中央デビュー! ⑥







 40インチはありそうな大型プラズマテレビのある応接間兼リビングに通された楓の前に、淹れられたばかりの熱い紅茶が出される。
 革製のソファの坐り心地はふだん厩舎で使っているものとは比べ物にならないほど良かった。
 小次郎と秀吉は一緒に風呂に入っていき、霧原キクと名乗った先ほどの老婆は仕事がまだあるからと厩舎の方へと戻っていった。
 楓に紅茶を運んできてくれたのは小次郎の親友、霧原弦人の妻・和那である。
 若くて清潔感があり、長い黒髪の美女だ。
 キクとは違ってあまり北海道訛りがなく、話し言葉は標準語そのままに近い。
 玄関先では小次郎の訪問に和那もまたかなり驚いた様子だったが、おおよその話を聞いてからバタバタした様子で2人分の着替えを用意し、リビングに戻ってきて楓にお茶を淹れてくれた。
「ごめんなさいね。突然のことだったからほったらかしにして」
「いえ、そんなことないです。紅茶、いただきます」
 上品なカップに注がれた紅茶はよい香りのするダージリンティーで、添えられていた陶器のミルクポットに入っていた牛乳は丁寧に温められていた。
「おいしい」
 体の内側に染みわたる感じに癒され、自然に言葉がこぼれた。
「あたし、木下楓と申します。小次郎先生の下で厩務員をやっています」
「楓ちゃんね。わたしは和那、ここの牧場主の妻です。よろしく」
 そう言って微笑む顔に思わず見とれてしまいそうになりながら楓も笑みを返した。
「それにしても、すごい数ですね……トロフィーに盾に賞状とか」
 リビングの奥側のガラス棚に整然と置かれた、競馬関係の優勝賞品と思われる品々を見て、楓は言った。
 軽く見積もって二十はあるだろうか。
 そのうちのひときわ強い輝きを放っているトロフィーに目を奪われる。
「これって東京優駿……だ、ダービー!!」
 黄金のプレートに刻まれた文字を読み上げて楓は絶句した。
 自分の紅茶を淹れて戻ってきた和那が口角を歪める。
「わたしがここに来る二年前くらいなんだけどね。強い馬がいたのよ。でも最近はそれほど成績があがらないから旦那によく『おまえのせいだ』って言われるわ」
「いや、すごいですよ。ダービーを勝ってるなんて…」
 はじめて見る本物の優勝トロフィーを前に楓はまじまじと見つめた。そして、ふとそばに置かれている大きな口取り写真に気がつく。「あれ?」
「小次郎、先生……」
 真っ赤な優勝レイを掛けられた栗毛に跨って満面の笑みを浮かべていた騎手は、見間違えるはずもない、若月小次郎だった。
 写真の中の小次郎はまだ幼い面影を残しており、楓の知らない多くの人々に囲まれていた。
 吸い込まれるように見つめていると背後のドアが開いて、あわてて楓はソファに戻った。
「おかあさん」
 パジャマ姿の秀吉が母親のもとに駆けより、そのあとを白いシャツとグレイのスウェットを着た湯上りの小次郎が入ってくる。
「小次郎っちはコレっしょ?」
 気を利かせた和那がよく冷えた缶ビールを持ってくると、ニッと小次郎は笑った。
「ゲンはまだ帰ってこないのか」
 うちわを片手にビールを一口飲んだ小次郎が言う。
「さっき連絡ついたからそろそろ帰ってくると思うけど…」
 まるで我が家にいるようにリラックスしている小次郎を、楓は不思議そうに見た。
 テレビをつけて道内ニュースを見ているその姿は自分の家でくつろいでいるようにしか思えない。和那とは当たり障りのない会話をしているようだったが、おたがい面識があるらしく肩の力が抜けている。
 小次郎の肩越しについさっき見た日本ダービーの記念写真が見えて、楓は無意識に唾を飲み込んでいた。
「二歳馬を探しにねぇ……。いまの時期だとたいがい問題のある仔しか残っていないから、難しいっしょ。うちもとねっこ(当歳)と一歳はまだ行き手が決まっていないのが結構いるから、明日にでも見ていったら?」
 そう言いながら和那は、
「あ、そういえば売れてない二歳、いたわ」といった。
「脚がちゃんと四本ついてるなら預かるぜぇ」
 冗談めかして小次郎はビールを流し込んだ。
 いつも酒を飲んでいる姿を見ないため、それも不思議な感じがする。
 和那はかぶりを振った。
「ううん、その仔は育成までいったんだけど、骨折して帰ってきたの。そしたら馬主さんがいらないって突然言い出して、大変だったのよ。馬体も血統もよくて、うちのエース候補だったんだから」
「ほう」
 興味があるんだか、ないのだか、小次郎はうちわで顔を煽ぎながら目を閉じた。
「どんな馬なんですか?」
 話に割り込むつもりはなかったのだが、ようやく少しだけ見えた光明に楓は目を輝かせていた。
「えーと、たしか初仔でね。お父さんが香港で国際G1を勝ったスピアヘッド(父サンデーサイレンス)、母親はクトネシリカって言ってうちでは期待している繁殖牝馬なの。シリカの父親ダンシングブレーヴは母の父としても優秀だわ」
「ダンシングブレーヴ……」
 はっきり言って血統に疎い楓にとっても、どこかで聞いた響きのある名前だった。
「80年代のヨーロッパ最強馬と言われている名馬だ。母父としては宝塚記念のマリスクレイドルや二冠ダービー馬ヒダノスティールあたりが有名だな。スピアもG1こそ香港の1勝だけだがサンデーの後継としてはなかなかって話だ」
「そ、そんな馬が売れ残っているんですか」
「まあ、ちょっとしたクセがあるんだけど…」
 そう言って和那は言葉を濁しぎみに笑った。
「何だったら今、厩舎にいるから見てみる?」
「うわぁ、ホントですか!?」
 興奮した楓は思わず立ち上がって言った。







 外はすっかり日が暮れて、空には鮮やかな月と一緒に数えきれないほどの星が輝いていた。
 都会育ちの楓は思わず足を止めて星空に見入ってしまう。
「すごい……綺麗」
 街灯のない牧場内は文字通り真っ暗だった。ただし今夜は月が明るいのでさほど視界は悪くなかった。
 初夏の夜らしく小さな虫の鳴き声がそこかしこの草むらから聞こえてくる。
「うちの夜空は自慢なの。何もない静内の端っこだからこんなにくっきり星が見えるんだけど」
 懐中電灯を手にした和那はそう言うと秀吉の手を引きながら、先導するように牧場の入口に近い真新しい感じのする厩舎に向かって歩き出した。
 重い厩舎の鉄扉が開けられ、暗い内部から馬の気配が伝わってくる。
厩舎で嗅ぎなれた馬の糞尿の匂いが鼻をつくが、ここにいる誰もそのことは気にもとめなかった。
 入口のそばにあったスイッチをつける。
 厩舎内には左右にズラリと馬房が20弱ほどあるだろうか。
 そのひとつひとつに美浦の若月厩舎と同じように馬名と血統や毛色などが丁寧に書かれたホワイトボードが架かっている。
「小次郎っちがうちにいた頃はまだこの新厩舎は建っていなかったはずよね?」
「そうだな。あの頃はゲンとおばぁと和那とおれで切り盛りしてたんだよなぁ」
「うふふ、懐かしいね。今はこっちが一歳専用で、向こうは肌馬と当歳が使ってる感じなのよ。通いの社員2人とパートさん2人で合わせて7人態勢でやってる。当時に比べたら規模は倍くらいにはなったわ」
「ああ。和那も社長夫人らしくなるわけだ」
 胸を張ってみせる和那にそう言いながら、小次郎はホワイトボードの詳細を興味津々に見て回った。
            「あのぉ…」
 先ほどからさっぱり話が読めない楓は小次郎の肩をチョイチョイと軽くつついた。
(先生、ここで働いてたことあるんですか?)
 何故か小声で聞いてしまう。
「調教師を開業する前にな。2年ばかし」
 何と言うこともない口調でそう言い返す。
(ええぇぇ~)
「扱う血統もだいぶ変わったな。昔は肌馬にもホリスキーだとかメジロティターンだとかいたけど、これは将来を見据えての企業努力が見えるラインナップだ」
と言った。
 たしかに肌馬の父として名を連ねるのは、ダンスインザダーク、コマンダーインチーフ、ブライアンズタイムなどを筆頭に、エリシオ、メジロライアン、リアルシャダイ、ラストタイクーンといったなかなかの顔ぶれである。外国から仕入れたらしい馬の名前もあった。
 繋養している一歳馬の血統も芝の中長距離をイメージさせるものが多く、クラシック戦を意識した馬づくりの方針がはっきりと伝わってくる。
「霧原の血統はどれも元をたどれば日本古来の血である基礎牝馬ユキシロの血が流れているから、外国の血統とケンカしないのよね。全体的な傾向として健康に生まれて、スタミナが豊富で、枝(四肢)の長い綺麗な立ち姿をした仔が多いわ」
「じゃあ、この仔たちはほとんど親戚関係なんですか」
 馬房の中を見ながら歩いていた楓が言う。
「大雑把に言っちゃうとね。でも輸入馬が全盛だった時代もたくさんあった中でなかなかこういう代を重ねたブリーディングをしてる牧場は珍しいのよ」
「たしかにセリに出てくるような最近の馬は流行に合わせてるだけだからな。生産のポリシーだとか言ってられないくらい売れないのはわかるが……グチャグチャのつぎはぎ血統馬ほどつまらんものはないぜ。馬が売れないのは馬主が悪いんでも時代が悪いんでもない。作り手が信用されてないってことだ」
 やや不機嫌そうに小次郎は言った。
「牝が生まれたらロクに種付け料も回収できないような世の中だからね……。それはうちにとっても耳が痛い話だけど。いち生産者の妻として言うなら、メス馬が生まれることによるリスクがあまりにも高すぎるのよ。オトコ馬ほど稼げないのは目に見えているんだからその分、牝馬をもつ馬主には金銭的に優遇してあげないといけないでしょ。預託料の補助金を出すとか、限定レースを増やすとかJRAにできることはたくさんあるはずよ」
 専門的な話になり、楓はだんだんわからなくなってきた。
 一応、競馬の世界にはいるものの、自分の知見の狭さは本人もよく分かっている所だ。
 ただの厩務員といえども物を知って何かしら意見を言える人間にならなくてはならない。
 楓はがむしゃらに馬の世話ばかりしていた自分にちょっと反省した。
「この仔よ」
 一番奥の馬房のまえで立ち止まった和那が指をさして言った。
 馬栓棒と呼ばれる馬房の入口に掛けられたとうせんぼの奥でその馬は、しきりに馬房内を旋回している。
 鹿毛の馬だ。
「シリカの06。育成でつけられていた仮の馬名は『ジーク』」
 己の名前を呼ばれた鹿毛は旋回をやめてゆっくりとこちらに顔を向けた。






2008/04/03 03:43 | 未選択
2章  中央デビュー! ⑤





 清涼な空気を肺いっぱいに満たし、北国の空にむかって楓は両腕を突き上げた。
「北海道に…来ぃちゃったど――っ!!」
 新千歳空港のターミナル出口を抜けると、生まれてこのかた修学旅行以外ではろくに関東も出たことのない楓にとって、そこは未知の土地が広がっていた。
 美浦を早朝に出てきた甲斐あってまだ時刻は昼過ぎである。
 羽田を出発するときは曇っていた空は、透き通るような青い色をしている。
 飛行機の機内からいまだ興奮冷めやらない楓は、子供のようにウズウズしながらとりあえず空港の建物をバックに携帯電話のカメラで満面の笑みのセルフショットを1枚撮った。
 ひらひらした自称カワイイ系のベージュ色のトップスと、スキニーの黒デニム、あまりヒールの高さのないサンダルをはいている。最近伸ばしている髪はお出かけ用に上げてまとめて、頭の上で髪留めでとめている。
さらに楓にしてはめずらしくやや濃いめのはっきりとした化粧をしていた。
「……旅行かっ」
 黒い革のバッグを手にした小次郎が青白い顔で言い放つ。
 こちらは銀糸の刺繍が入った白い半袖のTシャツにLeeのブルージーンズ、ティンバーランドのロングブーツという軽い身なりだ。
 黒縁の眼鏡のレンズには茶色いスモークがかかっていたが、その眼には力がない。
「だって、北海道に来るのなんて初めてなんだからしょうがないじゃないですか。しかも経費で♡」
 話し合いの結果、というよりも厩務員頭の熊五郎が小次郎についてくるわけにもいかず、車の免許を持っている楓が今回はお供をすることになったのである。
 美浦にいるうちに厩舎のトラックで何回か練習を重ねた成果もあり、それなりに周りも納得する程度の腕前になった楓だが、そのあまりのハシャギっぷりに小次郎は不安なため息をついた。
「よし……そんじゃあ、レンタカー借りて早速、日高に向かうぞ」
「はぁ―――い!!!」
 千歳の市街地を抜けて、楓が運転する紺色のマーチはウトナイ湖を左折して一路、日高を目指した。
 海沿いにあたる苫小牧の工業エリアを過ぎると、あたりの景色は一変して広大な緑の丘陵地に変わった。
「うわぁ」
 ようやく現れた北海道らしい風景に、すっご~い、と楓は声をもらした。
 助手席でナビをしていた小次郎は相変わらず調子が悪いらしく、
「こっからはずっと一本道だからな」といった。
「え、そうなんですか!? あっ、ていうか寝るとかアリ? ひどい、ひどい、ちょ―わがままだし、この人!!!!」
「新冠につくまでファラオは眠りにつく……」
 数秒と経たずに寝息を立て始めた小次郎はそう言い残して寝入った。
「ウェ~ン、ありえない。てか『ししゃもの町、鵡川へようこそ』ってなんなのよぉ」
 道路を挟んで右手に太平洋、左手になだらかな丘がつづく風光明媚な海岸沿いの道を、車は60キロそこそこの安全運転で進んだ。
 陽の光が海上のさざ波に反射して白い光を放ち、目を奪われる。
「おおおっ!」
 じきに左手に徐々に牧柵に囲まれた放牧地がちらほら見られるようになってきて、そこで放されているサラブレッドたちが長い首をのばして草を食む姿が見えた。
 楓が車を走らせている国道235号は別名『黄金道路』と呼ばれている。
 それは文字通り、競馬に人生を捧げた無数の人々が通った道である。
 黄金を求め、黄金を手に入れ、そして黄金を失う者たちが一様に集まる道。
 人々の野望や希望、絶望といったものがアスファルトに染み込んでいるからなのかはわからないが、道路はところどころに歪みが目立った。
「先生、そろそろ新冠につきますよー」
 小一時間ばかり走ってようやく静内の手前にある新冠が近付いてきたことを表す看板を通過した頃、楓は助手席で指をからめて眠っている小次郎に言った。
「むお……っく、ブハァ~」
 大きく伸びをした小次郎は眠そうな目を何度かまばたきした。
「14時か。悪くない時間だな」
 腕時計で時間を確認しながら独り言をいうと、
「ほんじゃまぁ、新冠の内海牧場あたりから攻めますかね」と続けた。
 2人を乗せた車は緩やかな丘を登り、『サラブレッド銀座』という看板がある展望台の手前の道を左折した。





 夕暮れが近くなった頃、楓と小次郎は静内の中心街を『二十間道路』方面に入ってしばらく走った場所にある静内川のほとりの公園で休憩していた。
 公園といってもこれといった遊具もないサラ地のような場所に自動販売機が一台あるだけで、あとは草むらである。
「先生ぇ……」
 冷たい缶のロイヤルミルクティーをしゃがみながら飲んでいた楓は、隣で両足を投げ出している師匠に向かって言った。
「ぜんぜん駄目じゃないですか……」
 新冠で5軒、ふたたび国道に戻ってから静内に着いて2軒。
 牧場へは行けども行けども、色よい返事が返ってくることはなかった。
 冷静に考えて初夏を迎える今時分、牧場にいる2歳馬などただの売れ残りに過ぎないし、その数も知れている。
 さすがにそれを知らない小次郎ではなかったが、どう考えても走りそうにない馬を付き合いのある数少ない馬主に買わせるわけにもいかないし、これといった馬は当然のごとく買い手がついていて、預けられる厩舎も決まっているしで、おのれの見通しの甘さを痛感させられた。
「ほらあの、何でしたっけ、3番目に行った牧場にいたチーフベアハートの牡馬。あれならそんなに悪くないんじゃないですか」
「おまえはキリンの世話がしたいのか……おれはご免だぞ」
「だって、そんなこと言ったって」
 泣きそうな気持ちになりながら空を見上げる。
 山から海にむかってのびた羊毛のような巨大な雲が、空と共に赤く染まっていた。
 ため息をついて目線を落とす。
 公園の100mほど先には清流・静内川が豊富な水量を湛えながらゆったりと流れていた。
「しゃーねぇ。明日1日は時間があるんだから諦めずに探すっきゃねぇだろ」
 そう言って缶コーヒーを飲み干す。
「さて、もうそろそろ宿でも取らねぇとだな。って、おい、どうしたんだ」
 立ち上がった小次郎は、何かを視線の先にとらえたまま固まっている楓に気づいた。
「あ、あわわわわ……」
「ん? どうした?」
「川! 川ぁ!」
「川が何だってんだよ?」
 混乱して言葉にならないのか、楓は川の上流を震えながら指さした。
 小次郎は眼鏡を外して眉根を寄せた。
「子供が流されてる!!!!」
 2人ほぼ同時に叫ぶと、次の瞬間に小次郎は脱兎のごとき勢いで川岸に走っていた。
 川幅20mはあるだろうかという川の、流れの速い中ほどを4、5才と見られる男の子が顔を出したまま流されている。
 助けて――、という声。
 川岸にやってきた小次郎は迷うことなく川に飛び込んだ。
「先生!!」
 あとを追いかけてきた楓の声が響く。
 小次郎は子供が流されてくる場所をあらかじめ予想して、川下で捕まえられるように泳いで行った。
 ゆるやかに流れているようでも押し流される水の勢いは強く、なかなか思い通りにはいかない。
 うっかり水を飲んだりすれば息ができなくなる。
 慎重に移動しながら小次郎は子供と自分の距離を計算した。
 狙いをすましてのばした右手が少年の肩をつかむ。
「!?」
 その瞬間、不意に足もとの水の流れが引っ張られるように強くなり、体ごと水面下に引きずり込まれた。
 思わず焦って我慢していた口から空気が泡となって逃げていく。
 やばい―――
 耳が水中の音しか聞こえなくなり、暗い川底が果てしなく見え、小次郎は全身におぞけが走った。
 小次郎は必死に腕をかき、もがいた。
 しばらくの格闘の末、男の子をしっかりと片腕に抱きかかえながら水面の上に顔を出すと、川岸を楓が並走していた。
 おそらく、先生、と呼んでいるのだろうが、顔をくしゃくしゃにして言葉にならない叫びを放っている。
「うお……」
 やっとの思いで砂地に辿り着くと小次郎はそのまま草むらに崩れ落ちた。
 子供も無事だった。
「ふぇぇぇぇ……無事でよかったぁ」
 へたりこんで大粒の涙を流している楓に、
「おい、おれはいいからガキんちょに怪我はないか見てやってくれ」
 と言って小次郎はポケットからびしょ濡れになったタバコを取り出して、大きく息をついた。
 丸刈りの少年はTシャツに短パン、履きつぶした灰色の運動靴といった格好で、ぐったりとしていたが、支えて上体を起こし少し経つと意識がしっかりとしてきたようだった。
 大きなくしゃみをすると鼻から青っ洟が飛び出た。
 楓はこのままでは風邪をひいてしまうと思って、着ているものをいったん全部脱がせ、それを雑巾しぼりの要領で水を切った。
 有り合わせようにもタオル1枚持っていなかったのでとりあえず服を着せて3人は車の場所に戻った。
「ボーズ、名前は? あと、送ってやるから家を教えろよ」
 車の陰で濡れた服を着替えている間に、小次郎は少年に訊ねた。
 楓は離れた場所で背中を向けている。
「……ヒデヨシ」
 黙っていた少年の口から小さく発せられた声に、
「ん、めずらしい名前だな……はて? 何か聞き覚えがあるぞ」
 小次郎は首をかしげた。
「む~う」
 こぶしを顎にあてて考える。
 しばらくして思いあたる人物を思い出した小次郎は子供の顔をまじまじと見つめた。
「お、おまえ……霧原ゲンの息子の、秀吉か!?」
「うん」
 なるほど、とばかりに手をポンと叩く。
「先生、もういいですかぁー?」
「ああ、いいぞ」
 歩み寄ってきた楓は足もとに脱ぎ捨てられていたシャツを拾い、水を切った。
「この子どこの子か、わかったんですか?」
 小次郎は笑いながらその質問に答える。
「ああ。つーか、コイツ、おれの幼馴染のせがれだ」
「へ?」
 楓の目がテンになる。
「おじさん、誰なの? 父ちゃんの友達?」
「そういうことだ」
 安堵した様子で、小次郎は携帯をかけようと取り出した。
「どうしたんですか」
「……壊れてる。ま、とりあえずコイツを家に届けるか。ここから車で15分くらいだ」
「先生ってこの辺の人だったんですね」
 車を運転しながら楓が言った。
 太陽はもう新冠の丘陵の向こうに沈み、外はだいぶ暗くなっている。
 車道には車の姿はほとんどない。
「生まれは静内よりもっと奥の浦河ってとこなんだけどな。おれが小さい頃に静内に移ってきたんだ」
「ご両親の仕事の関係でですか」
「そうだな。親父が厩務員やってて。中学卒業して家を出るまではずっと静内」
「へえぇぇぇぇ」
 楓は不思議とうれしい気持ちになった。
 昼間に見た美しい牧場の風景のなかで、数人の友達と遊び戯れている幼い小次郎の姿が目に浮かんだような気がした。
「あ、それじゃご両親は今この辺にいるんですか?」
 続いて投げかけられたその質問には、答えるまでに少しの間があった。
「両親はおれが小さかった時に離婚したんだ。おれは親父に引き取られて、お袋とはずっと会ってない。噂じゃ札幌の方で再婚したらしいけどな。親父とは競馬学校に入る時に大喧嘩して家を出てそれ以来。音信不通ってやつだな」
 内心でマズイと思った楓に対して、めずらしく小次郎は自嘲的だった。
「そ、そうなんですかぁ」
 沈黙の空気が流れるのが不安になって、
「ならお父さんはまだ静内に?」と訊ねてから楓は後悔した。
「親父は、当時働いていた牧場が潰れてからどうなったんだか……。いいかげんな奴だったから、どっかでのたれ死んでてもおかしくねぇよ」
 そういう親子関係ってどうだろう、と楓は思った。
 自分はふつうのサラリーマンの家に生まれ育ったのでよくわからないが、聞いているだけで無性に悲しくなる話だ。それと同時に何てこの男は強いのだろうと思った。
 小次郎は軽い感じに喋っているが、同じ立場だったら果たして自分は耐えられるだろうか。
 いや、たぶん無理だ。
 それはきっと血のつながった家族の、愛情とか、思い出とか、数え切れないほどのそれらが自分という人間の多くの部分を構成する要素だからだろう。
「おっ、そろそろ着くぞ」
「は、はい」
 薄暮の中に佇む、空にむかって大きく幹を伸ばした巨大ケヤキの手前で楓は現実世界に引き戻された。
 霧原ファーム、と太い毛筆体で書かれた看板が牧柵の前に立っており、そこからさらに車を走らせてじきに現れた牧場の入口を入っていく。
「おい起きろ、秀吉。着いたぞ」
 短い間に眠りに落ちていた後部座席に座った少年に声をかける。
 個人牧場にはめずらしく洒落た外国を思わせる厩舎脇を通り抜けると、背の高いスギに囲まれるようにして建てられたログハウス風の家が見えた。
 車を停めて小次郎たちが外に出ると、すぐそばに繋がれていた柴犬が大きく吠え立てた。
「コジロー」
 秀吉という少年の声に反応して犬は興奮して飛びかかる。
 ぎょっとして小次郎は、
「あれ、こいつ、ムサシじゃねぇの?」といった。
「ムサシはコジローのお父さんだよ。去年、死んじゃったんだ」
 二本足で立ち上がってじゃれている犬をよく眺めて小次郎は唸った。
「ゲンの野郎、よりによっておれと同じ名前を犬につけやがって……」
 気がつくと楓は吹き出していた。
 さっきは少し暗い気持ちになってしまっていたが、どうやらこの牧場の主人は冗談を好むようだ。
「ヒデ坊!!」
 厩舎の中から出てきた、つなぎの作業着を着た小柄な老婆が声をあげてこちらに走ってきた。
「あんた、裏の川で遊んでてその後どこ行ってたんだべ!? 父ちゃんが心配して探しに行ったよ!」
 秀吉は祖母に抱きかかえられて、「ごめん」と言った。
「んで、あんたたちは…こ、小次郎ちゃんかい!?」
 驚いた顔をしている老婆に、
「久し振りだな、おばぁ」と小次郎は笑顔をみせた。
「あれぇぇ、今日は心配したりビックリしたり忙しい日だよ……。秀吉がいなくなったと思ったら今度は小次郎ちゃんが現われて、あれあれ! こっちのお嬢さんはあんたのお嫁さん!? いいやぁ、どうして連絡してから来なかったのさぁ。びっくりするべ!」
 よく喋る老婆はしわだらけの顔についた大きな瞳をさらに大きくして言った。
 あまりの驚きっぷりに小次郎も楓も返す言葉が見つからず、
「話はとにかく、家にあがんなさい! さあさあ! あ、何だ秀吉、びしょ濡れじゃないかい、あんた一体なーにやってんのさぁ…」
 そのまま2人とも手首をつかまれて引きずられるように家に引かれていった。






2008/03/31 12:54 | 未選択
2章  中央デビュー! ④






【    阪神      新馬    1200m  芝   良     】






 宝塚記念(G1)当日。
 正午すぎて阪神競馬場の観客人数は8万人と発表された。
 上半期の締めくくりとなるオールスター戦を目当てに、好天にも恵まれて多くの人々が競馬場に足を運んでいる。
メインレースが始まる午後3時にはスタンドも立ち見も埋まっているだろう。競馬人気が衰えたとも言われているが、今日はひさびさに大入りが見込めそうだ。
 午後一番のレース開始時刻にあわせて検量室周辺はあわただしくなっている。
 ひととおり馬具の確認をして、神薙舜はパドックの横にあるジョッキー控室に移動した。
 パドックでは新馬戦に挑む8頭の若駒たちが周回をはじめている。
 すり鉢状になったパドックにはファンがどっと押し寄せていた。立錐の余地もないほどで、G1直前のそれと遜色ない。
 数頭の馬の後に続いて、5枠5番シャイングロリアが厩務員2人引きで登場すると観衆は大きくどよめいた。
灰色の堕天使の名前と噂は各メディアを介し、もはや日本中に知れ渡っている。
 どうやって仕入れたのか不明だが、ネットでは先ごろ行われたシャインクウガとの公開調教の様子が動画で配信され、もっか来年のクラシック本命として話題をさらっている。
 本格的な一眼レフカメラや携帯電話での撮影の光にさらされながら、シャイングロリアは首を下げた状態で周回する。
542キロと発表された巨漢は新馬のなかでは群を抜いて大柄である。まわりの馬がまるで子供のように映った。鋼のごとき筋肉に何層も覆われた馬体は類をみない完成度を誇り、大きな後脚が踏み込むたびに気合いが伝わってきた。
馬券投票締め切り20分前にして単勝オッズ1.1倍。
元返しがなくなって以来、もっとも低い配当だ。
 パドックに周回停止命令の声が響く。
 整列を終えたジョッキーたちが小走りに馬に駆け寄り、騎乗していく。
 シャイングロリアの背中に神薙舜がまたがると、競馬場には場違いな黄色い声援があがる。よくみると一般の競馬ファンに紛れて多くの若い女性の姿があった。
 少数ながら、神薙バカヤロー、という声援(?)も聞こえる。
 赤い下地にたすき状に黒い模様のはいった勝負服姿の舜はあぶみの具合を確かめつつ、愛馬の背中から好調を感じ取っていた。
 ダービー馬たちとの追い切りで、現状での目一杯の時計が出せたことで欲求不満が解消されたのか、いつになく馬が落ち着いている。
 ふとパドックの電光掲示板に、控え室の外に立っていた美しい和服姿の女性のアップが映し出された。
 オーナーの娘、二条院しづかの若々しく優美な姿に今度は男性諸氏の間にいくつも声がもれる。「誰だ?」
「女優だろ、たしかあの…」
「馬主なのか?」
 憶測の声が飛び交う。
掲示板に自分の姿が映っていることに気づいたしづかは柔らかな微笑みを浮かべた。
 本馬場に移動するために各馬が地下馬道を歩いていくと、パドックに押し掛けていたファンたちも一斉に本馬場にむかって走り出した。


 眩しい日差しを浴びてコースに現れたシャイングロリアは、灰色の身体を蹄の先からゆっくりとのばして準備運動、返し馬に入っていく。
 昨夜ふたたび小雨が降ったために芝は湿っていたが、適度なクッションが効いていて問題なさそうだ。前面がびっしりと観客で埋まったスタンド前を抜けて、スタンドから見て反対側、向こう正面にある1200mのスタート地点に向かって流していく。
「花山さーん、お弁当買ってきましたよぉ」
 身長160センチに80キロの体をもてあました野口という後輩の競馬記者が汗をかきかきしながらビニール袋片手に記者席にやってくる。
「おう、すまねぇ。釣りはとっとけよ」
 日刊紙・関西スポーツのベテラン競馬記者、花山一はそう言ってタバコの煙を吐き出しながら両目に当てていた双眼鏡に下ろした。
「どうです、噂の怪物くんと王子は」
「実際にこの目で見るのは今日が初めてだが、とんでもねぇ馬だってことは間違いないな。この仕事も30年続けてるが、皇帝と呼ばれたシンボリルドルフの新馬戦でさえあんな雰囲気ではなかったぜ。ただひとつ、解せないのは」
 野口は噴き出した汗を拭こうともせずにどっかりと席につくと競馬新聞を広げた。
 シャイングロリアの予想馬柱にはすべて◎が並んでいる。
「……あれほどの馬になぜ、新馬戦で1200mの短距離を選んできたのか、ということですね?」
「そうだ」
 短く答えると花山は低く唸った。
「あの馬の両親はどちらもクラシックの距離(2000~2400m)で活躍してきた馬だ。あいつ自身もバランスの整った馬体をしている。とてもじゃないが短距離がいい馬ではないだろうよ」
「じゃあ、あえて無理な条件に挑戦させる、っていうことですか」
「どうだかな」
「ほらこういう時によく言う、タケシバオーって馬が昔いて、強い馬は距離を問わないって話があるじゃないですか」
「おい、そりゃ俺がまだ駆け出しの頃の話だぞ。距離別に特化が進んでいる現代の競馬ではまず無理な話だし、そもそも新馬戦くらいでハクがつくようなもんじゃないだろ」
 じゃあ何で、と言う問いには答えられず、
「とりあえず弁当でも食うか」
 と花山は買ってこさせた幕の内弁当を開いた。





 新馬戦のファンファーレが鳴り、場内の視線がスタート地点に注がれた。
 先入れとなった5番枠のなかで舜は他馬の進入を待っていた。
 レースのイメージは鮮明に描かれている。
 股の下にいる相棒はフーッという鼻息を吐いていたが、今日はいたって落ち着いているようだった。
 全馬が枠におさまり、スタートが切って落とされた。
 出遅れもない綺麗な発馬でレースは始まった。
抑えのきかない1頭の馬が内側から飛び出して先頭に立つ。
どうやらこの馬がレースを引っ張るらしい。
数頭が気合いをつけられて先頭を追いかけ、馬群が形成されていく。
シャイングロリアはゲートを出たままに、中団を追走しながら4馬身ほど追いかける形になった。
レースは短距離のスプリント戦らしくハイペースでラップを刻み、前半の3ハロン(600m)で時計は34.2。開催終了となる馬場では早いほうだ。
そして、レース中盤すぎ。
5番手を追走していたシャイングロリアは鞍上の気合いに応えて、残り600mで大外をマクリながら苛烈な勢いで二番手に立ち、そのまま並ぶ暇もなく先頭に立った。
大勢が決したことが明らかになり、スタンドが大きな歓声に包まれる。
 しかし。
ほぼ勝利を手中にした芦毛馬の馬上で、体を折っていた神薙舜は右手に持っていた鞭を後方にふりかざした。
 ―――常識を超える。
 そんな決意の込められたステッキが大きな後肢をしたたかに打ちつけると、すでにスピードに乗っていたはずのサラブレッドがその瞬間、ここまで『溜めていた』末脚を一気に開放した。
 ドン、という炸裂音を残して馬場の中央を銀色の蜃気楼がのびていく。
 空気という壁を突き抜け、シャイングロリアはさらに己の能力を解き放っていった。
 場内の歓声は水を打ったように静まり、誰もが茫然としながらその光景に見入っていた。
 緑のターフの上を、ただ一頭の馬が駆け抜けていく。
 何物もそこに入り込む余地のない無音の世界がそこにあった。
 そしてレースという概念を否定するほどの差をつけて、それはゴールを過ぎて行った。
『シャイングロリア、ゴールイン! せ…戦慄とともに降臨! シャイングロリア!!!』
 静寂に包まれた競馬場に、遅れて場内実況の声が届くと、さらに遅れて熱狂の嵐が沸き起こった。
 まるでG1の直後のような馬鹿騒ぎのなかで花山は立ち尽くしていた自分に気がついた。
「すごい! すごいっす! こんなの見たことないっっっ!」
 同じように立ち上がり、興奮した野口は小躍りしていた。
花山は高まる胸の鼓動を抑えるのが精いっぱいだった。
 しばらくの間、二の句が出ず、くわえていたタバコのフィルターだけが前歯に挟まれてキリキリと音を立てていた。
 ゴールのはるか先で馬を返した舜は、ファンの声援に応えるようにスタンド前までシャイングロリアを導いた。
 祝福と喝采を受けながら、馬上で右手を突き上げて人差し指を立ててみせると場内はさらに盛り上がる。
自然と舜の口元には笑みがこぼれていた。
 シャイングロリアが地下馬道に下り姿を消しても場内の興奮は収まらない。
 コースに設置された大型電光掲示板、ターフビジョンに映し出された着順とタイムに再びどよめきが起こった。
 赤い文字で『レコード』という表示が点灯している。
「上がり3ハロン(600m)、32.6!!?」
 勝ち時計1分6秒8は、日本記録を更新していた。
「ただの記録じゃねぇ……後半600mだけでこれだけの記録をつくりやがったんだ」
「ていうか、直線コースの競馬でもないのに32秒台の上がりだなんて、なんかもう感覚狂っちゃいますね」
 そう言いながら野口は呆れ笑いを漏らした。
「こりゃ、とんでもないことになったな…」
 ハンチング帽の下の坊主頭を掻きながら、花山は一人つぶやいた。





2008/03/24 13:50 | 未選択
2章  中央デビュー! ③











「『ついにヴェールを脱いだネオ・ブラッド』かぁ。扱いも大きいですねぇ」
 月曜のスポーツ新聞を両手で広げた翔太が、競馬記事の真ん中に大きく書かれた見出しを読み上げる。
 窓外では雨が降り注いでいた。
 もう梅雨である。今年はカラ梅雨ではなさそうだ。
「『今後はステップレースを一戦して暮れの朝日杯に向かう予定。早くも2歳の頂点はこの馬で決まりではないか』だそうですよ。一度くらい自分の管理してる馬をこんなふうに書かれてみたいですよねぇ」
 それを聞いて、向き合ったソファに腰を下ろしていた熊五郎が笑った。
 ペティナイフを片手に林檎をむきながら、
「そういうことは厩務員人生に一回あるかどうかの話じゃて」と言う。
「しょせん競馬は血統なんですかねぇ。ダービーを勝つって言ったって、これじゃいつになるか分かりませんよ」
「果報は寝て待てというか、焦らないことじゃ」
「は~い……」
 翔太は背もたれにもたれかかって目をつぶった。
 ガラリと、入口のドアがスライドして小次郎が休憩所に入ってきた。
 そのままソファに座るなり手に持っていた煙草に火をつけて、
「翔太おまえ、免許持っているか」
 と聞いてきた。
「え、原付しかないですけど」
 そうか、と言って小次郎は両足を投げ出し、頭の後ろで腕を組む。
「クルマの免許なら、あたし持ってますよ」
丸めた引き手をもった楓が開けっぱなしのドアの向こうから顔を出す。
馬のブラッシングをしていたらしく、白いシャツには抜け落ちた馬毛がいくつも付いていた。
 細っそい目で、小次郎は娘の顔を見る。
「ちゃ、ちゃんと運転できますから! ……卒険5回、落ちましたけど」
「電車でいくかぁ……」
 ぼそっと言って卓上に置かれていた競馬ブックをおもむろに読み始めた。
「ていうか、どうしたんです? いきなり」
 怪訝な顔で翔太が訊ねると、小次郎の口から輪っか状の煙が吐き出される。
 休憩所に入ってきた楓は自分のマグカップにコーヒーを入れて向かい合わせのソファに腰を下ろした。
「北海道に馬を仕入れにいくんだよ。足が必要だろう。ん? なんか顔についてるか?」
 一同の視線を一身に集めていたことに気がつく。
「驚いたぞい……」
「先生が自分から馬を探しに行くなんて……」
「いや、普通に考えればかなり当たり前のことですけど……」
「オイ、そんなにおかしいか」
 休憩所の窓の外を、他厩舎の厩務員たちが馬を引いていく。
「いつ、行くんです?」
「とりあえず来週だな。知り合いの牧場をしらみつぶしに当たってみる」
「はい、はーい。前もって連絡とかってしないんですか」
 楓が手をあげて質問した。
「そんなもん、いるか。相手は馬屋だぞ」
 適当にパラパラめくっていたブックの、巻頭のグラビアにふと、その手が止まる。
そこには記念写真とともに『神薙舜騎手 史上最速200勝』という文字が踊っていた。
 一瞬、楓は緊張したが、小次郎は別段、興味なさそうにふたたび紙面をめくっていった。
 ほっとしながらも、ふと、この男は何も想いながら現在を過ごしているのだろうかとその顔を見つめる。
 小次郎は変わらない表情で記事に目を落したまま、ときおり煙草の煙を細長く吐き出していた。








 滋賀県・栗東トレーニングセンター内、坂路コース。
 朝露のついた路傍の木々が、日の光を浴びて輝いている。
 週末の競馬開催に向け、レース前の総仕上げともいえる追い切り時計を出す各馬が蹄音を立てながら次々と駆け上がっていく。
「そろそろ、かなぁ」
 お目当ての馬の追い切りを心待ちにしていた関西スポーツ競馬担当の若手記者・亀岡進はストップウォッチを片手にコースを見つめていた。
瘦せぎすの男で、安そうなグレーの背広に折れ目のついた赤いネクタイをしている。
 少し垂れ気味の両眼の下には深いクマが刻まれており、髪の毛はぼさぼさ、清潔感のない不精ひげは青く茂っている。
 今年26歳になった青年とは思えないほど異様な外見をしているが、とにもかくにも栗東の坂路時計取りは彼の仕事である。
 三流大学で、のべ2年留年して、男ばかり8人ほど集まった競馬サークルでは通算4年間、代表をつとめた。
 断じてミーハーではないと自認しつつも、好きな馬はディープインパクトと真顔で言いきる男は今、恋する乙女のように心が躍っていた。
 坂路時計班の一員として正式に配属されてからまだ3か月だが、その予想家人生のクライマックスは早々に訪れていた。
 双眼鏡のレンズのはるか向こう、遠くから、その馬の姿が見えてくる。
 亀岡は瞬間、言葉を失った。
 複数併せになるとは聞いていたが、5頭併せとは聞いていなかった。
 デビュー戦に臨む、噂の怪物・シャイングロリアの調教は圧巻だった。
 調教馬群の先頭を走っていたのは、今週の宝塚記念にファン投票で堂々の一位に輝いたエルムスウィーパー。
その青鹿毛の左後一白は、まさしく昨年のダービー馬である。
 続いて1馬身離れて追走するのが、春のドバイに遠征し、見事にシーマクラシック(G1・芝2400m)を制したフェニックスロード。ファン投票二位。
 父は米国から輸入され、初年度産駒から女傑マリスクレイドルを輩出したレッドフェニックス。
昨夏に早世した父の貴重な後継種牡馬としてすでに今年限りでの引退が決まっている。
 坂路コースの中盤を過ぎ、それらと併走するように内側から昨年の菊花賞馬アクアシェイドが力強く完歩を伸ばせば、負けじと大外から去年の牝馬二冠女王アマテラスが鋭く伸びた。
 超という言葉をいくつつけても足りない豪華メンバーをまとめて相手にしながら一歩もヒケを取らない手応えで、最後方から神薙舜を背にしたシャイングロリアが灰色の馬体を躍動させる。
「おいおい……宝塚記念のド本命たちを相手に追い切る2歳馬があるか」
 亀岡の近くにいた、よその予想紙の記者があきれたように言った。
「新馬戦なんか走らせないで今すぐクラシックを走らせりゃいいんだよ」
 ストップウォッチを持つ手が震え、計時どころではない。
 亀岡の心はただただ歓喜していた。
 菊花賞馬と海外G1馬の間をこじあけ、2歳年上のダービー馬をクビ差まで追いつめた所でゴール板を通過する。
 トレードマークになったホライゾネット付きの黒い覆面の下にある口は固くハミを噛んで白く泡立っていた。
 オーバーワークにならない程度にまとめたとはいえ、年長馬たちも一様に玉の汗をしたたらせていた。
 各馬キャンターから常足にスピードを落とし、坂路を下りていった。
 いや、ただ一頭残っている。
舜を待っていた牧昇二が、柔和な笑みを浮かべながら鹿毛馬フェニックスロードの鞍上で右手をあげた。
「さすがやなぁ、ホンマにその馬はバケモンやで」
「昇二さん、あまり馬を寄せるとグロリアが興奮するので……」
「アハハ、悪い悪い。ほな、ちょっと離れた場所から失礼しまっせ」
 グロリアを刺激しない程度に離れた場所を並行しながら二頭は木々に囲まれた逍遥馬道を下っていく。
 舜にとって牧の存在は単なる先輩騎手の一人に過ぎない。
日本競馬史に残る名ジョッキーといっても特別に意識している部分はない。
 そのことは牧もよく知っていた。
 競馬の世界に入ってくる新人騎手にとって牧昇二とは雲上人である。
中央競馬では現役最多の2000勝を誇り、競馬に興味をもたない一般の人々にもその名は知られているほどだ。
 多くの新人騎手は、生き神様を見るような目で挨拶にやってきて、感激して帰っていった。そして実際のレースでこれでもかというほど格の違いを思い知らされる。
 しかし、彼らはそれでも「やられ役」として騎手であり続けるのだ。
そんなものだ。
 生活さえできればイイというくらいの中途半端な覚悟しかない人間を、心の底ではひどく軽蔑しながら牧昇二は表向き寛容な人間を装っていた。
 神薙舜がJRA新人ジョッキーとしてデビューしたのは二年前のことだ。
 もともと、さほど親交のなかった厩舎の長男坊、古くは自分のライバルと呼ばれていた男の義理の弟といった程度の間柄に過ぎなかったが、数年ぶりに会った舜は牧も驚くほど別人になっていた。
 生来の明るさが消え失せ、他人を遠ざける空気をまとい、瞳の奥には冷たい刃物のようなものを宿していた。
 そして新人とは思えないほど、恐ろしく腕が立った。
 競馬学校を卒業した程度の小僧にはまるで似つかわしくない度胸と卓越した技術。
 男は3年目にしてすでに国内のトップを争うまでに頭角を現している。
 だが傍目にもそのことが舜にとって達成感や満足感を与えているふうには思えないのである。
 出世欲や金欲、支配欲といったものに素直な牧にはよくわかる。
 明らかに自分と違うからだ。
 尊敬も畏怖もない、冷めた瞳に映し出される牧はふとそんなことを考えて苦笑いを浮かべた。
「なあ、舜坊」
 うまくスポンサーを垂らしこんだな、とは言わない。
 そういう事をするのはむしろ自分である。
 気を取り直して言葉をつむいだ。
「おれにとって競馬っちゅうのは、強い馬に乗って勝つ。それだけや。仕事やし。そんなら自分は競馬でいったい何がしたいねん?」
 予想していなかった突然の問いに、舜は少なからず面食らったようだった。
「それは……今、答えろと言われても難しいですね」
「ンまぁ、そうやろな。我ながら不思議な質問してるわ」
 ムチの先端をおのれの鼻先にピタピタとつけながら牧はウームと唸った。
 少し考え込んでから、いやな、と口を開く。
「ダービーを勝ちたいとか、海外で勝ちたいとかそういう気持ちを強く持っている奴らはな、なんというか、目がキラキラしてんねん。夢見てる顔しとる。かといって、競馬をビジネスと割り切っている奴もそうおらん。生き物が相手やし、そういうのには会ったためしがない。察するに舜坊からはカネとか名誉とか、そういうもんを求めているようには感じられへんねや」
 舜は黙ったが、本人にもわかりづらいらしく、馬上にしばらく沈黙が流れた。
「強いて言うなら…」
 木々の隙間から陽光が差し下している場所を抜けると、舜は口を開いた。
「な、なんやって!?」
 急に強い風が吹いて、よく聞こえなかったが、牧の耳にはこう届いたように思えた。
 この悪夢を終わらせたいから、と。







2008/03/17 11:46 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
2章  中央デビュー! ②




 人間の基準でいうなら六畳一間くらいしかない馬房のなかでその馬はじっとしていた。
 4本足とも靴下をはいたような白い毛と顔の真ん中をタテに走る大流星の、小さな栗毛。
 競走馬名アカネツバサオー。
 何も乗せていないその背中にどこから飛んできたのか、テントウ虫が羽根を休めていた。
 馬房では暇らしく、うとうとしたりたまに馬栓棒のうえから首を出して外や厩舎のなかを見たり。
 競走馬は毎朝の運動後、そのほとんどが狭い馬房にいる。
『あの子、こないかなぁ……』
 ツバサオーは眠そうな眼をしながらつぶやいた。












【    1000万下   福島  1700m   ダート  良    】







 大地を唸らせる地響きをあげ、若月厩舎のリーサルウエポン(父タヤスツヨシ)が秀峰・会津磐梯山を背に福島競馬場のダートコースを駆け抜けていく。
 鞍上の依田犬介は手綱を通して伝わってくる抜群の気配に内心喜びつつ、足慣らしがオーバーワークにならないよう馬をなだめた。
 歴戦の古馬ということもあり、リーサルウエポンは落ち着いたものだった。
 すでに9歳という年齢ながら馬には傷んでいる様子はまるでない。むしろ今が全盛期といえるような好調さだった。
 鉄製のゲートに13頭の馬が収まり、前扉が開くと一斉に各馬が飛び出した。
 やや出負け気味になったリーサルウエポンは慌てずに内への進路をとっていく。発走直前の単勝は3番人気(単勝オッズは6.5倍)。
 転入緒戦としてはかなり期待を背負ってしまった感があるが、犬介は気楽に考えていた。
 今回のレースで強力なライバルとなるのは関東のベテラン大道茂雄が手綱をとっているラクエンエース(父フジキセキ)である。
 前走は中山の1000万特別戦で2着に好走、今回は万難を排して『ローカルの鬼』の異名をもつ大道を鞍上に配してきた(単勝オッズ2.8倍)。
 大道はローカルに強く大レースでは用なしという、いわゆる一流と呼ぶには至らない騎手だが、乗った馬の持ち味を引き出す技術には定評がある。
 ベテランならではの政治力があり、実力馬の騎乗を集めるのが得意で、彼が乗る人気馬はたいてい順当に首位を争う。
 若手もその威光を恐れて無理にレースをかき回すことはしないため、ここ数年来、福島や新潟という東のローカル開催は彼にとって格好の稼ぎ場所になっていた。
「おい、依田ぁ!」
 隣を併走する鹿毛の馬上で騎手が言った。
「人気馬に乗ってるからって余計なことはするなよ。ここもきっちり大道さんを勝たせろ!」
 あまり人気のない馬に乗っている、犬介よりやや年上の若手騎手が大声で言う。
 デビュー5年目の脇田寛という男だ。これといった成績もない地味な騎手である。眼が細く、いつもつまらなそうな顔をしている。
 そんな男を犬介はゴーグルの下の眼で一瞥した。
「うるせーな。そんなに先輩様が好きなら、汚ねぇケツでもなめまわしとけ、バカヤロウ」
「なんだと―っ!」
 脇田は怒り狂ったが、なにしろレース中だ。
 犬介はさっさと頭を切り替えて先頭から二番手を追走しているラクエンエースを見やった。さほど離されてはいないし、十分に射程圏内である。
 犬介には秘策があった。
 たまたま以前から噂話に聞いていたのだが、それを試してやろうと3コーナーを過ぎたあたりでリーサルウエポンに進出を促した。
 リーサルはやはり道営の猛者である。小回りの器用さは折り紙つきだった。スルスルと内側を加速して第4コーナーが終わる直線の入口で、1番人気、大道のラクエンエースに追いついた。
 大道はぎょっとして後ろを確認する。超大型のリーサルが内側をあがってくるとは思っていなかったようだ。
「コラ、とっつぁん!」
 ぶしつけな言葉が犬介の口から発せられた。
「腰痛が悪化してるらしいなぁ、おれと追い比べしようぜ」
 2頭は併せ馬の形になって、騎手同士の追い比べがはじまった。
 余力を残した馬がしのぎを削って前へ前へと突き進む。
 後方からも末脚を温存していた馬たちが続々と押し寄せてくるものの、ゴールまでに飲み込まれる勢いではなかった。
 そもそも1番人気を勝たせるお膳立てだったのだから、犬介にとってはベテラン1人の鼻をへし折るだけで充分だった。
 残り50m地点でラクエンの脚色が怪しくなり、鞍上は力ない尻鞭をぺしぺしと叩いた。
 余裕綽々の表情でリーサルウエポンは中央緒戦を飾った。
「チキショ―ッ!」
 検量室の前で大道が地面にむかって投げつけたヘルメットを、慌ててバレットが拾いにいった。
 あの人どうしたの、と楓は犬介に尋ねる。
「知らね……」
 物凄い表情でこちらを睨み付けるその視線を浴びながら、涼しげな顔に玉の汗をかいた犬介は後検量のために検量室へと入っていった。
 リーサルウエポンもまた全身に大汗をかきながら鼻の穴を大きくしている。
「おつかれさん」
 広く大きな鼻筋をナデナデしてやると、こちらのベテランは首を上下させ、誇らしげに鼻を鳴らした。










【     新馬      函館  1200m  芝  良     】





 翌日、函館競馬場。
 快晴の良馬場発表となった開催に多くの競馬ファン、家族連れが訪れていた。
「パパァーッ!」
 広々とした馬主席の端から手を振る幼い息子に苦笑しながら、ネオブラッド・ジャパン東洋エリアマネージャー・鷹司忍は本馬場の大型ビジョンに目を移した。
 そこには1頭の青鹿毛が、青地に黒い縦じまの勝負服をまとったジョッキーを背に佇んでいる姿が映し出されていた。
 父は欧州の短距離王バーンズアロウ、母はフランスのディアヌ賞(G1)馬クレオパトラ。
 超良血馬である。
 調教と前評判からすでに単勝オッズは1.4倍となっている。
 しかしスレイプニルと名付けられた馬は黒くつややかに見える馬体以外とくにこれといった特徴をもたない馬だった。鍛え上げられた強靭な筋肉もなく、雄大な馬格もない。
「函館競馬場の雰囲気はいかがですかな、鷹司さん」
 離れた席で数人の同じような馬主たちと話していた四谷和夫という老紳士が、仲間たちの輪を抜けて、競馬新聞を片手にやってきた。
 四谷は大阪で菓子商を営む古株の馬主である。そして次の新馬戦には彼の持ち馬であるレザンウォーカーという馬も出走する。
 レザンウォーカーは父サクラバクシンオーの快速血統馬である。調教の動きがよく、2番人気に評価されている(3.3倍)。
 筋肉豊富な鹿毛の馬体は重量感があっていかにも走りそうだ。
「ええ。とても見晴らしがよくて爽やかなところですね」
「そうでしょう。札幌もいい所だが、あちらは都会ですからな。毎年、最初に新馬をおろすのは函館と決めているんですよ」
 丁寧な言葉とは裏腹にその眼の奥は冷ややかに座っていた。
 アラブの犬め、とでも思っているのだろうか。
 産油国という巨額の資本を背景とした競馬組織『エクリプス』は各国にその名をはせている反面で多くの軋轢を抱えている。
 競馬とは所詮、資本力の優れた者が勝つスポーツである。アラブの王侯貴族が圧倒的な資金にモノをいわせて他を屈伏させているように映るのは仕方ないことだ。
 個人の財産で馬を走らせている者からすればさぞ鬱陶しく思えるのだろう。
「ま、お互い楽しみましょう。もしかするとこのレースあたりは私の馬もがんばってくれるかもしれないからね」
「ええ。好レースを期待しましょう」
 嫌な顔のひとつせず、鷹司は答えた。
「ところでね、あの馬はスレイ…なんとかっていうのはそちらの軍団では何番手くらいなのかね? こう言ってはなんだが、あまり見栄えしない風に見えるんだが」
 四谷は少し変わった質問をした。
「おっしゃる通り、まだまだ仕上がり途上ですよ。だいぶ人気に祭りあげられてしまいましたが……しかし彼はクラシック路線のカテゴリーで言えば5本の指に入る実力者です。ああ見えてなかなかやります」
「ほ、ほお……ではダービーが楽しみな存在ですな」
 老馬主の言葉に鷹司は、いえ、と首を振った。
「彼には年末の朝日杯とNHKマイルカップを獲らせる予定です。ダービーはまた別の馬が獲る予定ですので」
 ゲートが開いた。
「むう。ご存じかとは思うが、ならばあなたの元にはあの神薙厩舎のバケモノ馬を倒す実力をもった馬がいるということですな」
 鷹司はさも当然という表情で「ええ」と答えた。
 馬場ではスタートから熾烈なスピード比べが行われていた。
 先頭を走ろうと懸命にレザンウォーカーが疾走する。しかし、そのすぐ外から黒い影が楽な手ごたえで易々とレザンのハナを叩いて先頭に立った。
「現状で戦わせても勝てる馬は……おそらく2頭。ただし私のボスは気まぐれなので、気に入った馬なら海外で使うことも考えられますがね」
 口元にこぶしを当てて鷹司は唸った。
 その間にもスレイプニルは2番手以下を引き離していく。
「しかし、あのシャイングロリアという馬もダービーまでに今より成長しているでしょうから、こちらもまたベストを尽くす必要があるでしょうね」
 短距離戦だというのに快速が自慢の愛馬がすでに何馬身も千切られ、四谷は指を震わせていた。
「な、なんだね、あれは」
 場内のテレビ放送には1頭の馬しか映し出されていない。
 馬主席がオオオという声に包まれる。
 カメラがいっぱいに引いて撮影しても間に合わないほどの大差でスレイプニルは静かにゴールを駆け抜けていった。
 出走制限がかかるタイムオーバーまでたっぷり3秒以上たって後方の馬群がゴールに到達する。その頃にはレザンウォーカーは最下位についていくのがやっとだった。序盤でスピードを出しすぎたのが禍したようだった。
 四谷は癇癪ぎみにまくし立てた。
「あれが、あれが5番手だと!? 大言壮語にしか聞こえんわ」
「いえ、2400では間違いなくそんなものですよ。2000の中距離なら3番。そしてマイル以下ならば無敵です」
 馬場にある電光掲示板に、赤いランプで『レコード』という表示がされていた。
 無意識なのか、四谷の口から糞、という言葉が漏れた。そして、
「皆が思っているぞ。おまえたちは、恥を知らない、し、侵略者だとっ!」
 しわ顔を紅潮させて言い放った。
「ご批判の気持ちは重々。たしかにこれではフェアな勝負とは呼べない」
 馬とスタッフをねぎらいに行くために立ち上がった鷹司は小さな老人を見下ろした。
 その瞳は冷たい井戸の底のような色をしていた。
「だがね、踏みつぶされる者の気持ちをいたわって、こちらもいちいち勝負などできないでしょう?」
「あ、あ……ぁ」
 有無を言わせぬ迫力に気圧された四谷は、ただ恐怖に言葉を失った。








2008/01/17 11:58 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
2章  中央デビュー! ①






 一月が過ぎ、美浦トレセンに初夏の日差しが訪れる。
 砂塵を舞い上げて、犬介を背にしたリーサルウエポンがダートコースを豪快に駆け抜けていく。
その後ろを懸命に鏡子が騎乗したツバサオーが追走するも、その差は開く一方だ。
「うーん、リーサルはそろそろ使えっかなぁ……」
 コース脇のラチで双眼鏡をのぞいていた若月小次郎がつぶやいた。
 競馬界では夏のグランプリ・『宝塚記念』を前にして北海道の函館から2歳馬たちによる新馬戦がスタートしていた。
 道営の2歳戦を使われたことがあるツバサオーは未勝利戦からの再出発となるため未出走馬たちの出る新馬戦にはエントリーできない。
 まだ馬体も緩く、必要な筋肉もついてないので問題はないのだが、小次郎の思惑としては良血馬たちがデビューを控えている秋開催の中山・東京よりもレベルの低いローカル戦を使いたいということがあった。
 ツバサオーの父ミホノブルボンは中央競馬のクラシックレースである『皐月賞(G1)』と『ダービー(G1)』を勝った名馬である。
 当時としてはまだマイナーだった坂路調教で、俗に『戸山流』と呼ばれたスパルタ調教で苛烈に鍛えあげられたことでも有名だ。
 その武器は強烈な先行力。
 デビュー以来、連勝街道をひた走り、無敗でダービーを制した。
後続の末脚を完全に封じ込めるブルボンの、鉄馬のごとき『逃げ』に観衆は酔いしれ、彼を称えた。
 血統的背景から長い距離が不安視された三冠の最終関門・菊花賞で本格派ステイヤーのライスシャワーの前に生涯たった一度の敗北を喫し、それ以後は故障とリハビリの繰り返しでふたたびターフに戻ってくることは無かった。
 種牡馬としては残念ながらこれといった産駒は出していないが、小粒ながらその仔どもたちは総じて頑健で息の長い競走馬生活を送るといった特徴があり、地方リーディングでは安定した成績を残した良質のサイアー(種牡馬)である。
 人間たちの気持ちを知ってか知らずか、ツバサオーは大きな欠伸を漏らした。
「狙い目は札幌か……福島ってとこか」
 小次郎の言葉にピンときた様子の翔太が、続けて口を開く。
「いいなあ、北海道に帯同(遠征馬に同行すること)したら、ちょっとした旅行じゃないですかぁ。ああ、ススキノ……わが魂のふるさとよ」
おまえの頭には遊ぶことしかないのかという目線を送りながら楓はツバサオーの小さな四白栗毛の馬体をタオルで拭いていた。
「迷ってても仕方ないしな。よし、決めた! ハルオは八月の札幌開催に使うぞ。来週からは坂路に入れて時計も出していく。ビッシビシ鍛えて、きっちり稼いでもらわないとな」
 小次郎の方をチラッと見て、ツバサオーは眉をひそめるような顔をした。
 入厩早々にゲンコツを食らったことを根にもっているのかも知れない。
「ちょっとコジコジ、ハルオってネーミングは何なの?」
 腕組みした鏡子が言う。
「あはは、この仔の母親がアサノハルカゼっていうんですよ。だからハルちゃん。どっかの映画評論家みたいでいいでしょ」
「アハハハハハハ」
 鏡子は棒読み調に笑った。
「でもこう見えて母系は優秀なんです。あの天馬トウショウボーイを産んだ名門ソシアルバターフライ系の出ですから。母父はアメリカ血統のバスタードモア。ちなみに母親は今はなき高崎競馬で2戦して繁殖入りという逆エリートコース出身です」
 楓にはチンプンカンプンな薀蓄を、翔太は得意げに披露した。
 平たくいえば実績のある血統から枝分かれした、傍流血統の出身ということである。
 母の父バスタードモアは自身は米国の中距離G2を1勝しただけ馬だが、米国最大のレース、ブリーダーズカップ・クラシック(G1)を勝ったヴェイルドアンチェインの半弟という血統を評価されて日本に輸入された種牡馬だった。
 ただし日本での種牡馬成績はさっぱり。
 産駒には総じてスタミナ型の傾向があり、軽快なスピードが要求される現代競馬にはまるでふるわなかった。
 種牡馬として一線を退いてからも新冠の獣畜センターで数年間にわたって供用されたが、今となっては行方もわからなくなり、一説には肉屋に売り飛ばされたとか十勝の米農家に買い取られて農耕馬になったとか判断のつかない噂がある。
 そんな母系にこれも失敗の印象が色濃いミホノブルボンという血統の馬は、日高の小規模牧場あたりにゴロゴロいて買い手がつかず、牧場主が途方に暮れているようなイメージがある。
 そういった意味では地方競馬出身とはいえ、粒ぞろいの良血馬たちが集う中央競馬にツバサオーが所属していること自体、すでに奇跡なのかもしれなかった。
「血統どうこうよりもコイツはもう少しデカくなってもらわないとな。幸い脚元は丈夫そうだから鍛え甲斐あるぜ」
 そういって小次郎が首筋を叩くと、馬はまたやる気なさそうにあくびをした。
「食らいついてくような根性がないからねぇ、この仔は。のんびりやるよりもガッツリと教育したほうがいいのかも」
 ツバサオーの『女好き』はあいかわらずで、隙を見せると埼京線の親父リーマンも真っ青のおさわりである。
 その度に鉄拳制裁をしているものの、一向に懲りないのが楓の悩みの種だった。
 牝馬を見たらすれ違うだけでも色目を使うし、かなりの変人ならぬ変馬だ。
 この時点では周囲の誰もが、この馬のもつ並々ならぬ潜在能力に気が付きもしていなかったのは仕方ないのだが、それはまだ後の話である。
              「あのぅ……」
「今週はプリ(シア)が福島の500万条件に出走しますけど、熊さんにお願いしちゃっていいんですか」
「おう、ジィさんのシーサンダーも一緒の福島だからな」
「あ~あ、あたしは阪神まで出張だよ。新幹線は苦手なんだよなぁ」
「マーメイドSの有力馬に挙げられているフブキディザイアに乗るんですよね? オークスで4着したって言っても3歳で古馬に挑戦なんて強気ですね」
      「すぃません……ぁの…」
「陣営としてはずばり、美浦の豪腕・遠野ジョッキーの手綱に期待ってところだな」
「誰が豪腕だ」
 腕組みした小次郎に肩パンチを入れる。もちろん鏡子の腕は筋肉質だが細い。
「……んっ? あれ、浅野さん、いつからそこに?」
 スーツ姿の小男にようやく気がついた小次郎がそう言うと、みなの視線が集まった。
「ぁの……その、……さっきから、いたんですけど」
 楓よりもさらに頭半分ほど小柄な、50代半ばくらいの男性は蚊の鳴くような声で言った。
 一見して冴えない、バーコード頭にべっこう縁の眼鏡をしたオッサンである。
(……誰なんですか?)
 楓がそっと聞くと、
「リーサルとハルオの馬主、浅野さん」
「えええ~っっっ!!!」
 一同は声をあげた。
                         「……すぃません…」






 厩舎の休憩室に通された浅野は楓に出したお茶に、「熱っ…」と小さなリアクションをした。
 向かい掛けのソファにどっかりと腰をおろした小次郎の背後から、楓はその姿を見ていた。
 湯気で眼鏡がくもっていた。
「きょうは2頭の様子を見にいらっしゃったんですか」
 無言を回避するように小次郎が口を開いた。
「は、はぃ……仕事で近くまで来たものですから……」
「札幌からだと美浦はだいぶ遠かったでしょう」
「は、はぃ……」
「……きょうは暑いですね」
「はぃ…」
「………」
「……………」
 ときたま胸ポケットからハンカチをだして汗をぬぐったりして、浅野は視線を床におとした。
 黙っていても威圧感のある小次郎がその相手をしていると、まるで『実録・闇金の取り立て現場』だ。
 浅野は札幌で不動産業を営む事業主で、ホッカイドウ競馬の馬主資格は以前から持っていたのだが、この度、中央競馬の馬主資格も取得したので持ち馬を走らせることになったのだ。
 といっても中央の調教師にコネがあるわけでもなかったので、道営競馬の盟主・伊達辰人調教師の紹介で小次郎が馬を預かることになったのである。
「リーサルウエポンはいいですよ、徐々に調子をあげていますし、あと二週くらい追い切って中央デビューさせる予定です」
「そぅですか、よかった。ぁの……ツバサオーの方はいかがですか」
「ハル…ツバサオーの状態はこれからといった段階ですが、丈夫そうなのでレースを使いながら仕上げていくことにしました。札幌の未勝利戦を使う予定なので少しずつ調教量を増やしていきます」
「札幌ですか…。でしたら家族で観戦にぃきたいですね」
 そう言って浅野はにっこりと笑った。
「ちょっと厩舎を見せていただぃてよろしいでしょうか…?」
 ぎこちない笑顔を返しながら、小次郎はうなずいた。















【   マーメイドS (GⅢ)  阪神  2000m  芝  良   】













 ……正直いって、遠野鏡子は迷っていた。
 リニューアルされた阪神競馬場の直線は長い。
 ポンと好スタートをきったフブキディザイア(父ダンスインザダーク)は行き脚もついてそのままハナに立ち、向こう正面を依然として二番手以下に三馬身ほどの差をつけていた。
 見た感じでは非常に小気味いい『逃げ』である。
 しかしフブキディザイアは本来、ジワッと先行してそのまま好位抜け出しを図るのが理想的な先行馬だった。これからさらにペースがあがり、4コーナー過ぎて直線に入っていつもどおりの脚を使ってくれるかはわからない。
 幸いなことに馬は走ることに集中している。
 逃げが悪いわけではないらしい。
 後ろから他馬が来てからがどうかだが、早めに仕掛けるよりギリギリまで粘って仕掛けを遅らせたほうがいい。
 しかしそうすると……。
 ちらと後方に見ると後方集団から人気の両頭、カヴァークラフト(父エンドスウィープ)とジェネティック(父スペシャルウィーク)がいい手応えでがこちらの様子をうかがっていた。
 鞍上は牧昇二と若手の榊銀河。
 そのさらに後方馬群にいる3番人気のシャインミドラーは明らかに調子が悪く、流れについていくのが精一杯といった様子で、騎乗する神薙舜も負担にならない程度にしか追っては来ないように思えた。
 ―――勝つためには1番人気、2番人気の両馬の末脚を封じ込めること。
 だがこのままただのスローペースでは瞬発力に劣るぶん、長い直線でおそらく差し切られてしまう。
 残り800mの標識を確認すると同時に、意を決して鏡子は鞭をかざした。
「やぁぁっ!」
 尻鞭と叱咤に応えて、フブキディザイアはグングン馬群を引き離しにかかった。
 重複するが同馬の得意とする戦法は先行、粘り込みである。
 実際にその先行策でオークスを4着した実績があり、今日もおおかたの予想では二、三番手を追走すると思われていた。
 しかしスタートから先頭に立ったフブキディザイアは想像したよりもご機嫌なようで、それを後方のポジションにいる牧や有力ジョッキーが見逃すはずもない。
 ならば、と鏡子が下した命令が『さらに突き放せ』だった。
 後ろからのプレッシャーがかかる前に、攻めに転じることで撹乱させる。幸いなことにフブキディザイアは3歳馬のために背負っているハンデも52キロと、おあつらえ向きだ。
 滑らかなカーヴを生来の器用さを利して加速していく鹿毛馬に、スタンドの観衆がどよめいた。
 6馬身、7馬身とみるみるその差が開いていく。
「あンのネェちゃん、やってくれるわ……。昇二兄さん! そろそろ1番人気が行かんとこのレース、あの関東馬に持ってかれまっせ!」
 ジェネティックに騎乗する榊銀河が外側を併走する牧に言った。
「あか~ん! オレの馬は一瞬しか脚が使えへんからココいったら終いやで!」
 ゴーグルの下で牧はニヤッと笑う。
 この古ダヌキが、と榊は笑みを返しながら密かに悪態をついた。
 差し馬同士が牽制しあうことも鏡子の策である。
 一度、勢いをつけた馬は何度も加速できるものではない。先頭でゴールを駆け抜けるためには先行馬の粘りを考慮してラストスパートしなくてはならない。
 むろん前の馬を差したからといって後ろから来た馬に差しきられては元も子もない。
 そんなことをしている間にも先頭をひた走るフブキディザイアは早くも最終コーナーを回りきって直線に踊り出ようとしていた。
 二番手との差はおよそ4馬身。
 スタンドから割れんばかりの喝采と歓声が上がる。
 鏡子はふたたび後ろを見て、両腕で馬の首筋を押し込んだ。
 フブキディザイアは精一杯の力をふりしぼって後続に追いつかれまいと疾走した。
 いわゆる早仕掛けであったにも関わらず、その勢いはまだ落ちない。
 鏡子の作戦は狙いどおりのドンピシャだった。
 後方馬群も追走に脚をいくらか使わされており、多くの馬がペースを乱してもがいていた。
 残り200mを過ぎるとさすがにフブキディザイアもバテる様子をみせたが、あと少しだ。
「もう少しだよ、がんばって!」
 鋭い声とともに鞭が飛ぶ。
 鞍上に応えるように馬はもう一度伸びた。
 残り50……40……20……10……5……
 逃げ切った!
 と、確信したその時。
 内と外、鋏まれるようにしてほぼ同時に後方から馬体が合わさった。
「ご苦労サン♪」
 ゴールライン上、獲物をきっちりクビ差だけ交わした牧の口元が不敵に微笑む。
「………!!!」
 少なからぬショックを受けながら鏡子は悠然としたその背中を見送った。
 また、だ――。
 目一杯の競馬をして馬の力を引き出した。
 会心の騎乗だったはずなのだ。しかしそれでも届かない。
 関西に遠征して、これまで鏡子は一度も重賞レースを勝ったことがなかった。どんなに強い馬に乗せてもらっても必ずその先には同じ背中があった。
 悔しさのあまり奥歯を噛み締めていると、すぐそばで、
「ああああ――っ、またや! また負けてもぉた――ぁっっっ!」
 と大きな声が上がった。
 声の主は2番人気ジェネティックに騎乗していた榊銀河である。
 馬上で頭を抱えてもだえている。
 榊はデビュー2年で関西所属騎手の十傑入りした若手のホープで、実家は大阪天王寺で有名な懐石料理屋を営み、自身も日本料理の調理師免許を持つという変り種だ。
 よくしゃべる大きな口と柳眉に吊りあがった眼が特徴的な青年である。
 鏡子はハッとして馬場の中央にある電光掲示板を振り返った。
 フブキディザイアはアタマの差で3着の表示がされ、2着は榊騎乗のジェネティック。
 どうやら2頭同時に交わされていたらしい。
 神薙舜が手綱をとったシャインミドラーは5着。不調を思えばまずまずといったところだろうか。
 鏡子は陰鬱な気持ちになりながら地下馬道にある検量所におりていった。







2008/01/06 22:51 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 ⑪






『――10万人のファンが、私が、そしてテレビをご覧の皆様がその姿を待ちわびておりました。前哨戦の阪神大賞典を制して復活を遂げた、二冠馬ジャムシード、淀に見参! 今ふたたびふき始めた、黄金の風!』
 熱を帯びたアナウンスが電波に乗せられて日本中を駆け巡る。
 本馬場入場を果たしたジャムシードと小次郎を落雷と歓声が迎えた。たくさんの傘、観衆が押し合いながら丸めた予想紙を振っている。
 各馬が返し馬に入っていくなか、スタンドの熱狂に茫然としながら小次郎はその端から端までを見つめた。
「ジャムシードは…」
 ずっと無言で馬を引いていた徳永翁がふと、口を開いた。
「ジャムシードはわしらだけの宝ではないんやな。こんなにも多くの人に愛されとる」
 その気持ちが引き手を通して痛いほど伝わってくる。
 まるで気遣うように、栗毛は老厩務員の頬に鼻先を近づけた。
 小次郎は奥歯を噛みしめた。
「徳ジィ、安心しろ。今日は絶対に勝たせてやる、相手が誰だろうとな。コンマ一秒でも速く勝って――」
勝って、優歌の元へ。
この俺が、みんなを守ってみせる――。
グッと顎をあげて雨空を見上げると、小次郎の瞳には猛々しい闘志が戻っていた。







 鋼鉄のゲートが開かれ、日本競馬の最高峰、天皇賞のスタートが切って落とされた。
 17頭は隊列をつくりながら向正面の芝コースを突き進む。
 スタンドから、どよめきがあがる。
『――な、な何と、ジャムシードが先頭を切る勢いでハナ(先頭)を主張します!』
 好スタートというわけでもない平凡な発馬から、疾風の勢いで先頭に立ったジャムシードは力一杯に四肢をのばして雨馬場を切り裂いた。
 小次郎の鞭が飛ぶ。
 3200mという長丁場、春の天皇賞はここ数年、スタミナに自信の無い馬達によるスローペース化が懸念されるレースのひとつである。
 ジャムシードはこれまでの勝ち鞍のそのほとんどが中団後ろからの差し戦法によるものだった。レースの終盤、3~4コーナーから徐々に進出して、直線で豪快に他馬を差しきる大味な競馬が身上である。
 2番人気ヌミノバズラムを駆る斎藤平馬は最後方に控えながら舌打ちした。
「あのガキ……」
 長く手綱を張ったまま、みるみるジャムシードと二番手以下との差が開いていく。
 先頭を奪ったら馬に息を入れさせるためにペースダウンするのが長距離レースのセオリーだが、小次郎はスタンドの前、一周目の直線に入っても逃げのペースを落とす様子は無かった。
 気がつけば最後方のバズラムとは約25馬身の距離が開いていた。
 縦長になった馬群が一周目のゴール前を過ぎていくと、大観声があがる。
 二周目に入り、先頭から10~12馬身ほど離れて2番手を追走する江尻はただならぬ空気をまとって単騎逃げを打った人馬の背を見やった。
「このまま逃げ切るつもりか……無謀だぞ」
 独りごちて濡れたゴーグルを拭う。
――それともすでに何か仕掛けているのか。
 天才と呼ばれる牧と違って、小次郎の騎乗は策というより勘である。
 それゆえに読みづらい。
 (これは暴走ではないのか……?)
 ある独特の嫌な感覚が、江尻の脳裏に浮かんだ。
 単純に若月がペースを読み違えているとは考えにくい。ジャムシードが、いわゆる折り合いを欠いて『かかった』状態なのでもない。
 ならば意図的に時計を縮めてペースを吊り上げているのは明らかである。さりとて、いかにダービー馬と言えど無尽蔵のスタミナを有しているわけでもない。
 必ず何かがあるのだ。
 答えのない疑問に焦りが生まれ、体に力が入った。
 レース終盤、京都名物の3コーナー上り坂をジャムシードが駆け上がっていく。
 すでにジャムシードはだいぶ息があがりかかっているが、充分な気配を股の下から感じつつ小次郎は口の端をあげた。
 まさか――
 ゴール前の鮮明なイメージが浮かんだ江尻の脳に突然、鋭い電流が走る。
「ま……まずい!」
 肩鞭を入れて馬を追う体勢に入ると、登り坂が馬のスピードを殺ぎ落とした。雨でぬかるんだ馬場もその進出を拒むように邪魔をする。
 江尻の異変に、追走する馬群も一呼吸遅れて反応した。
 本来、差し馬であるジャムシードの大逃げは、誰の目から見ても無理をしているようにしか映らない。スタート後の加速っぷりからしてなおさらだ。
 しかし小次郎にとってハイペースでレースを作っていくフリをするのはせいぜい最初の2ハロン(400m)もあれば十分だった。
 なぜか。
 その答えは京都3200mという天皇賞の特殊なコース形態にある。
 鍵を握ったのはスタート後、じきに訪れる『坂』――。
 平坦な場所に比べて、上りの坂では物理的にスピードが殺がれて時計がかかる。ここで小次郎は密かにペースを抑えて登っていた。
 後続の騎手たちはジャムシードの『大逃げ』に錯覚し、むしろ自分たちの馬が速度を上げたように勘違いをしていた。
 二番手を追走する江尻騎乗のグランブルーが重馬場を苦手にしていることも小次郎の作戦にとっては好都合だった。名手と呼ばれる江尻のペース判断は他の騎手にとって教科書のようなものである。
 江尻が抑えたことにより、馬群は粛々とそれに従った。
 坂を下りきると小次郎はふたたび拳を当てるくらいのわずかな力でジャムシードにゴーサインを出していた。そうすることによりまたジワジワと後続馬群を引き離した。
 ここにもう一つの『罠』があった。
 長距離のレースにありがちなことだが、一周目の直線で馬がゴール板に反応して勝手に疾走してしまうことがある。実際の勝負は二周目の直線なので、ここでいかに折り合いをつけスタミナの浪費を抑えるかが勝敗を大きく分けるのだ。
 小次郎の狙いはそんな騎手心理やセオリーを逆手に取ることだった。
 案の定、何頭かの馬がハミをとって加速しかけたが、鞍上が手綱を引くやそれを阻止された。
 先頭との差はそれだけで開いていく。
 こうしてジャムシードは自らの生み出したスローペースのなかを他馬に干渉されることなく10馬身ものリードを持ったまま二度目の坂の頂上に辿り着いていた。
 痛恨のミスに気づいた江尻に反応した三番手以下の集団が一気にペースをあげて追いつこうとするが、追いかければ過酷な上りの坂が、さらに追いつこうとすれば際限なくスピードを加速させてしまう魔の下り坂が、追走する各馬に立ちはだかった。
 坂の下りに入ったジャムシードは荒れた呼吸を正して、内ラチにぴったりと張り付いた状態から徐々にラストスパートの体勢に入ろうとしていた。
 小次郎は馬上でそっと囁いた。
「見えるかジャム」
 規律的なストライドを刻み続けるジャムシードの耳がかすかに動く。
「あのゴールが、俺たちの帰る場所だ」
 遠く見えるゴール板は、静かに勝利を手にする者達を待っていた。
 10万の観衆がスタンドから熱狂の声をあげる。
「行ぃっけぇ――――っっっっ!!!」
 二番手を大きく引き離したジャムシードが、最後の直線に入ってくる。
 地鳴りとも、怒号ともつかぬ大歓声が空気を震わせた。
 鉄のハミを噛んだジャムシードは苦しみながらも必死に脚を伸ばした。
 残り1ハロンを過ぎても後ろからやってくる馬はいなかった。
 そう思われたその時だった。
「待ちやがれい!!!」
 悪鬼のごとき形相で尻鞭を叩きまくる斎藤平馬を背に、最強馬ヌミノバズラムが驚異的な末脚で馬場の中央を切り裂いて追い上げてきた。
「もう少しだ、ジャム!」
 勝負は完全に2頭に絞られた。
 1完歩、1完歩と若き黒鹿毛が栗毛の二冠馬を追い詰める。
残り100mを切って前走、阪神大賞典の再現フィルムのように2頭の馬体が合わさった。
 大歓声のスタンドから、徳永は祈っていた。
 熊五郎も、神薙厩舎の仲間達も、10万のファンとともに叫んでいた。
 小次郎は感覚のなくなった腕で、ジャムシードの首筋を押した。
「そりゃ、そりゃ、そりゃ――っっっ!!」
 泥まみれの斎藤が吼える。
 小次郎も雄たけびを上げた。
 もう少し、あと一歩だ。
 勝てる……、絶対に、勝つ!
「………うぁ」
 しかし次の瞬間、小次郎の口からこぼれたのは小さな悲鳴だった。
 深く踏み込んだジャムシードの右後脚がぬかるんだ地面を滑り、支えを失った馬体が腰砕けにバランスを崩した。
 宙に放り出された小次郎の体が芝生に叩きつけられ、放り投げられた人形のように転がった。
“あ……”
 斎藤とバズラムの背中は見えなかった。激しい勢いで地面に打ちつけられ、芝生に前のめって小次郎は失神した。
『あ―――っ、な、なんということだ! ジャムシード落馬!! 競走中止!!!』
 一瞬の静寂を置いて、場内から悲鳴と金切り声があがる。
 各馬が決勝ゴールラインを越えたのを皮切りに数人の係員がコース内に飛び込んできた。
 小次郎の身体が仰向けにされ、呼吸が確認される。
 真っ暗だった。
 何も見えない視界の向こう側で誰かが叫んでいる。「タンカ…早く持ってこい!」
 何が起きたのか、わからない。
 俺はどうしたんだ?
 何をしていた?
 ドロドロになった意識が次第に明けてくると体中が軋んだ。
 とくに右腕はひどく鋭く痛んだ。
「が…ごほっ」
 瞼が開き、ぼんやりとした視界にレインコートを来た係員達が叫びあっていた。
「タンカ持ち上げるぞ、ゆっくりだぞ!」
 小次郎を乗せた担架が持ち上げられ、そばにつけられていた救急車へと運ばれる。
「おい……ジャム、ジャムはどこだ!?」
 朦朧とする意識と苦しい呼吸の下で、小次郎は折れていない左手で係員のそでを掴んだ。
 顔も知らないその係員は、つらそうな表情を浮かべ、その目線で示した。
 観客席に目隠しするように張られた青いビニールシートに囲まれたジャムシードは、鞍をつけたままこちらに背を向けて芝生に横たわっていた。
 そのそばには白衣の医師が家畜用の注射を手に膝をついている。
「……やめろ」
 まだ生きているだろ、と小次郎は顔を歪めた。
「……やめてくれ、そいつは……ジャムは俺たちの宝物なんだ……宝物なんだよ」
 懇願する小次郎の瞳から涙がこぼれた。
「やめてくれ……頼むから」
 静脈に注射を打たれた栗毛はのたうつこともなく、小さく震えながら前脚で二度宙をかいて、静かに事切れた。
「あ…ぅあああぁあ―――っっっ!!! ジャム、ジャムッッ!! …」
 暴れ始めた小次郎の体は医師たちの腕に押さえつけられ、救急車の扉がバタンという音とともに閉ざされた。








 京都府内のとある病院の一室に、柔らかな風が訪れてカーテンを揺らしている。
 穏やかに晴れた空はまるで嘘のように深い青さをしていた。
 昏睡状態に陥っていた小次郎はレースから3日経った水曜の朝に目を覚ました。
 病室のベッドから仰向けに見える天井は、無機質に白い。
 右腕は緊急手術が行なわれ、肩口にまで及ぶ見たこともない長さのギプスに包まれていた。その他にも打撲の痛みなどあったが、とりあえず命に別状はないようだ。
 ジャムシードが死んだ――。
 途切れる前の記憶をぼーっとしながら思い出す。
 抑えたい思いとは裏腹に、目尻に溜まった涙がこめかみを伝った。
 病室のドアが開き、見覚えのある女性が入ってくる。
「小次郎、おはよぉ~☆」
 婉然と微笑む、妻の優歌だった。
 妻は涙を流している小次郎にむかって、意地悪そうに、「何泣いてるん?」といって枕元に置かれた椅子に座った。
 柔らかなその手が小次郎の頭を撫でる。
「なにを泣いてんねん。あんたは精一杯、がんばったやんか」
「でも……俺」
 優しい言葉に、小次郎は声を詰まらせた。
 優歌はクシャクシャになったその顔を覗き込んで目を細めた。
「ウチな……いつでも一生懸命な小次郎が好きやねんで。いっぱい、いっぱいがんばる小次郎のことが好きや。ウチは何でも適当やからね……だから、どんなに今が辛くても、くじけんといて、小次郎」
「ああ……」
 小次郎は頷いた。
 窓から入ってくる風は山の匂いがした。
 しばらく時間を置いて、ふと言いにくそうに優歌が切り出した。
「あんなぁ、ウチ……もう行かなあかん」
「何、言ってんだ……」
 そういえば、交通事故に遭ったはずの優歌がどうして自分を見舞いに来られる――。
 狼狽する小次郎の額に静かにキスをして、優歌は立ち上がった。
「ホンマはね、ごめんやねん。ずっとずっと小次郎と一緒にいたかったけど、あかんようになってもうた。ただ最後にお礼が言いたくて……小次郎と出逢って、こんなに好きになって、愛し合えて、ほんまにうれしかった……ありがとう」
 ああそうかと小次郎は思った。
 これは夢、夢なんだと。
 だけど何だろう、胸が苦しかった。
 聖母のように微笑む妻の顔を見上げながら、「おれも…」、小次郎も言いかけた。













 いつも、ありがとう。
















 まばゆい光が転回し、ふいに漆黒の闇が訪れる。








 今一度、目を覚ますと枕元の椅子には深くうつむいた舜が座っていた。
 夕焼けに赤く染まったカーテンがたなびいている。
「舜……」
 先ほどよりも体の痛みが尋常ではない。
「義兄さん……」
 詰襟姿の舜の表情は、見たこともないほど暗かった。
「―――姉さん、死んだよ。お腹の赤ちゃんも。最後まで苦しみながらずっと義兄さんの名前を呼びつづけてた……結局、来てくれなかったね」
「舜……」
「かわいそうだよ、姉さん……かわいそうだと思わないか?」
 肩を震わせて舜は言った。
 ――コレハ、現実ダ。
「絶対に、許さない……。姉さんを見捨てたお前を、絶対に許さないからな……!」
 舜の瞳からこぼれた涙が病室の床にいくつもの染みをつくっていった。
 窓外の夕暮れの空に、家路を往く子供達のにぎやかな歌声が溶けていく。








 数日後、若月小次郎は誰にも行き先を告げずに消息を絶った。
















 若月厩舎の脇道を一台のオートバイが音を立てて通り過ぎていく。
「……ぶえぇぇ……いぎっ、いっ」
「楓さんの泣き顔、ほんとにブサイクですね」
 話の終盤から耐えられずに泣き出していた楓に、ソファの隣に座った翔太が冷静に言った。
「う、うるひゃいっっ!!」
 顔に押し当てていたタオルに涙で落ちたファンデーションやらマスカラやら何やら色々と付着してたしかに……見た目はひどい。
 コーヒーを飲み干したマグカップの底に目線をおとしていた熊五郎は眼鏡を直して小さくため息をついた。
「テキ(調教師)がまた競馬界に帰ってこれたのは奇跡じゃよ。病院から勝手に退院して以来、数年間ずっと誰とも音信不通じゃった。それがある日ひょっこり調教師試験に合格したから力を貸してほしいと、わしに連絡をよこしたんじゃ」
 翔太はめずらしく沈んだ表情で頭を掻いていた。
「それじゃ、今でも先生はかつての義弟さんに恨まれたままで……何だかやりきれないですね」
「ぞ、ぞんながわいぞぅ…」
「楓さん……鼻水出てますから」
 鼻をかんだティッシュペーパーを楓がゴミ箱に捨てていると、煙草を吸いにきた犬介がステンレスのドアをガラッと開けた。
「うほっ……なんだその汚ねぇツラ」
「う、うるひゃいっ!!」
 休憩室の天井に犬介の吐き出した煙草のケムリが悩ましげな形で滞留する。
「犬介さんは先生のこと知ってたんですか」
「何となくはな。俺が初めて小次郎先生に会った頃にはもうだいぶ落ち着いていたようだったし、何回か話してくれたことはあったぜ」
「初めて会ったのっていつ頃です?」
「さあ……旭川で中坊やってた頃だからかれこれ6年前かな」
 失踪していた間のことは犬介もあまり知らないらしく、また興味なさそうだった。
「過去がどうこうなんて俺たちにゃ関係ねぇ。小次郎先生は、小次郎先生だ。今まで通りうまくやってきゃいいんじゃね―か?」
「そうじゃの……」
 熊五郎がうなずくと、それまで黙っていた楓がソファを立ち上がった。
 その表情は強い決意に満ちていた。
「あのさ、こんなこと言い出して笑われるかもしれないけど。勝とう……勝とうよ、ダービー。勝ちたい。いつになるか分らないけど、先生が目指したダービーをまたみんなで勝って、表彰台に立たせてあげようよ」
 まるで夢のようなことを楓は言い出したが、その場に居合わせた者には誰一人としてそれを笑う者はいなかった。
 漠然とした希望ではなく、勝つ――。
「ま、俺は最初っからそのつもりだけどな」
「いいですね。僕も本気で勝ちたいですから、ダービー。やりましょう」
「よーし、わしもやるぞい。世間をアッと言わせてくれる」
 おお――っ、と意気上がるその傍ら。
休憩室の外の壁に立つ、男の気配に気付く者はいなかった。
 いや、いた。
 寝わらを踏む音がして馬房からプリシアが首をのばした。
 ムフーッという鼻息を立てて寄せてきた鼻先に、そっと手が触れる。
「ダービーを勝つ、か……」
 小さなつぶやきとともに小次郎は目を細めた。






2007/12/07 16:22 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 ⑩



「……ごめん」
 馬優先と書かれた標識の立った欅並木の道を歩いていると、すぐ後ろを歩いていた優歌がつぶやいた。
「あ?」
「だから、ごめんて。仕事の邪魔して怒ってるんやろ?」
「別に」
「どっちやねん……」
 怒ってねぇよ、と苛立った口調で小次郎が言い返すと優歌は幼女のように頬を膨らませた。
「なんやねん」
その目元がじわっとゆるみ出して、前へ進むべき足が止まった。
「ウチかてな、家のなかでずっと1人やったら寂しいなんねん。赤ちゃんおるけど、まだお腹の中でしゃべられへんやんか……」
小次郎の背中に向けて絞り出したその声は、か細かった。
 乾いた土の地面にはらはらと涙がこぼれて落ちる。
「最近の小次郎、ウチに冷たい……」
 動揺した小次郎が、しゃがみこんだ妻のもとに駆け戻ってきた。
 小次郎は下唇を噛みしめて厳しい表情を浮かべた。
 優歌はひとしきりグズって、小次郎はその間ずっとしゃがんでいた。
 どのくらい経っただろう。
「ごめん」
 優歌は赤くなった鼻に手の甲を当ててチン、と鳴らした。
「……いや、オレの方こそ悪かった。謝るよ」
 沈痛な面持ちで頭を垂れる。
 優歌はむすっとした顔で小次郎を見ていたが、急に両腕をつかんだ。
「じゃ、おんぶしてや」
「はぁ~?」
 ニッと笑って両手を振り始める。
「おんぶ、おんぶ、オ・ン・ブ☆☆」
「ま、待て、トレセンでそれはマズイだろ。そんなの見られたら…」
 ――立場がなくなる。
いや、キャラが変わる。
 みるみる小次郎の顔は青ざめていった。
「……ちっ」
 アパートまでもうすぐだが、優歌はまた頬を膨らませて口を尖らせている。
 小次郎は相変わらず前を黙々と歩いていた。
ただし、その後ろ手には人差し指同士をつないでいた。おんぶはNGだったが『手をつないで帰る案』で小次郎が妥協したのだ。
「ていうか、指やんか」
 というツッコミも、嫌ならやめるぞという一言でしぶしぶ優歌も承諾した。
「小次郎」
 歩きながら鼻歌を歌っていた優歌がふと夫の名前を呼んだ。
「ん?」
「うちらの子供が歩けるようになったら、3人で琵琶湖いこ。ピクニックや」
「……そだな」
 小次郎は背中越しに答えた。
「ウチな、めっちゃうまいサンド作るで。んで、水筒と敷く物もってってやなぁ。わっはぁ、これホンマ、ただのオバハンの発想や」
 ププッと笑い出す。
「……だったら、その場にいる俺もただのオッサンやなぁ」
 もともと関西人ではない小次郎は優歌の訛りを真似してそう言った。
「あははっ、そう! そやね。楽しみやわぁ、めっちゃ楽しみ」
 玄関のドアのところまで辿り着いて、鍵を探してポケットに手をつっこむ。
 ―――あちゃ、鍵、厩舎に忘れたな。
「おい、鍵…」
 呼びかけて振り返ったその瞬間、小次郎の目前でたった今まではしゃいでた優歌がスローモーションで、水鳥の羽毛のような軽さで土のうえに横たわった。
「ゆっ…」
声にならない叫びが小次郎の口からあがった。











【   199-年  5月   天皇賞・春 (G1)   京都  3200m   17頭立て     】






 列車はのんびりとした田舎風景の中をゆっくりと走り抜けていく。
「舜、ごめんやで。ほんまやったら一人で大津くらい行けるのに」
 優歌は大きなため息をついて肩をすぼめた。
 産婦人科の定期検診のため、栗東から大津の病院にむかう車中である。
 姉と弟は横に並びながら座っていた。
「いいってば。こないだ家の前で倒れちゃったんでしょ。何かあったら大変だろ」
「小次郎にめっちゃ心配かけたしなぁ、軽い貧血やってんけど。マイベイビーになんかあったら取り返しつかんし……ふがいない姉でスマン」
 と言って優歌はうなだれた。
 日曜の車内は明るく賑わっていた。
 行楽に向かう家族づれに、学生とおぼしき私服集団、街に買い物にむかうでろう老夫婦。それを見ていた優歌がふと、こんなことを言った。
「なあなあ、これって家族ちゃうか?」
「え、どういうこと」
 けげんな表情で舜は尋ね返す。
「ほら、この電車の中にはおじいさんとおばあさんがおって、オトンとオカンがおるやろ。おにいとおねえがいて、おチビちゃん達もおるで。これって家族やんか」
「あ、そうか」
 車内をあらためて見回して、舜は姉の言っていることを何となく理解した。
「きっとみんな、家族やねんな」
 優歌は優しげに微笑んで、膨らんだ自分のお腹をさすった。
 大津駅の改札を出て、姉弟は穏やかな人の流れの中をロータリーへと歩く。
「バス停は……」
 腕時計を見ながら舜はバスの時刻を確かめる。次のバスにはまだ少し時間があった。
 古びた木製のベンチに座った優歌は、ロータリー脇の公園ではしゃいで遊んでいる子供たちを見ているようだった。
「姉さん、ちょっとトイレ行ってくる」
「あいよ」
 ついでにお茶でも買ってこよう、などと考えながら舜は駅の公衆便所に向かった。
 用をたして建物から出てくると、
「嫌な雲だな……」
 先ほどまで快晴だった空の端に黒い雲が見えていた。

「ボク、あんまり道路の方いったら危ないで」
 小さなサッカーボールを蹴っていた4、5歳の男の子。ボールの扱いに慣れていないらしく、その動きがおぼつかない。
 やや心配して優歌は声をかけた。
 周りの子供たちは自分たちの遊びに夢中である。近くに親の姿もなかった。
 子供を一人でほっといたら危ないやんか、と心の中で思う。
「あっ…」
 不安が的中して、蹴り間違えたボールがバウンドしながら転がっていくのを少年が追いかけていく。

 ちょっと―――

 その先は悪いことに車の走っている道路だ。

 アカンて――!!

 耐えがたい衝動にかられて優歌は駆け出していた。
「ちょっと何してんのんっ! コラッ!」
 身重の体では思うように動けない。
少年の背中にむかって叫ぶと、今度は息が上がって苦しくなった。
視界がくらくら揺れて、倒れこむようにして男の子を捕まえると、その子は驚いた声をあげた。
「ハァ…あ、危ないから……む、向こうで、遊びや」
 優歌が息切れしながら言うと、男の子は凍りついた目線で、こちらへ走ってくる軽自動車を見つめていた。
「えっ…」
 すでに車道に飛び出していた。
優歌は状況を飲み込む間もなく、目を見開く。
軽自動車を運転している主婦は、携帯電話を片手に大笑いしていた。
短い間だが、全身が硬直して毛穴が開いていくのがわかった。
 ドンという鈍い音が鳴るまでの、ほんの数秒のことだったが。







 電話口の舜は泣いていた。
 ボロボロになった声で何を言っているのかわからない。
JRAの職員に呼ばれ、パドック裏で電話を受けた小次郎はただならぬ雰囲気に頭の芯が締め付けられた。
 まさか――。
『義兄さん……ね、姉さんが……』
 やっと絞り出した言葉は、最悪の知らせだった。
 舜は嗚咽しながら、見知らぬ子供を助けようとして姉が交通事故に遭ったこと、そしてすでに病院に搬送されて現在は手術中であることを伝えた。
 受話器を持つ小次郎の手が震える。
 心臓の破れそうなほどの鼓動が止まらなかった。
『義兄…さん、早く来て……姉さん、いっぱい血を吐いてた……無理かもしれない』
 小次郎と話すことで少しずつ平静を取り戻してきたようだが、その言葉は弱々しかった。
『義兄さん?』
 黙っていた小次郎に訊ねる。
「……わかった。舜、親父とオレが行くまでそこで待ってろ」
『いつ来るの? すぐ来れるの?』
 いや、と短く答えて沈黙する。
 決意して小次郎は口を開いた。
「オレは、天皇賞が終わったらすぐに向かう」
『な、なに言ってるんだよ!』
 舜は明らかに困惑していた。
『こんな時にそんな、そんな……たかが競馬じゃないか! 何言ってるんだよ!』
「たかが、じゃない!!」
 小次郎の怒声に周りの人間が驚いて振り返る。
「たかがじゃねぇ……」
 体の中で感情が濁流のごとく暴れ、小次郎の心を揺さぶっていた。
だがそれでも今、自分がいる場所を忘れるわけにもいかなかった。
ジャムシードが走る天皇賞まであと数時間もない。
 その後、何を話したのか小次郎は覚えていなかった。
電話を切ると目眩がして、よろめきながら小次郎は地下通路へと向かっていった。









 朝方の五月晴れが嘘のように、午前中のレースが終わったあたりから、のしかかるような黒雲が空を覆い隠していた。
 東側の山から遠雷が聞こえる。
 ほどなく叩きつけるような大粒の雨が京都競馬場に降り始めた。
「こりゃあ、だいぶ芝が滑るかもな」
 パドックに隣接したジョッキールームから雨模様の空を見上げ、関東若手NO.1ジョッキー・斎藤平馬は渋い表情を浮かべた。
親しみやすそうな大きな瞳と日に焼けた彫りの深い顔。顎に整ったひげを生やしている。騎手として理想的な小柄な身体は騎乗に必要な筋肉が隆起し、まったく無駄がない。
29歳、脂が乗りはじめた中堅騎手である。
「ブライアンズタイム産駒のバズラムは雨が苦手なのかい?」
「正直いうとあまり良くないな。この雨じゃ極上のキレ味が発揮できないかもしれねぇ。まあ、それは他所様もだいたい一緒なんだがよ」
 隣で腕組みしていた男、関東騎手リーディング4位・江尻雅樹はフーンと鼻を鳴らした。
「こちとらリアルシャダイ産駒で雨はからっきし。願わくば今すぐにでもレースをしてもらいたいもんだね」
 ひょろりとした長身の男だ。
 狐を思わせる細面に切れ長の眼、ヘルメットからはウェーヴのかかった長い金髪がのぞいている。
 斎藤とは同期のライバルだが、豪腕を誇る『荒武者』斎藤に対し、緻密な計算と他の意表を突く騎乗スタイルから江尻は『暗殺者』とあだ名されていた。
 目線のさきには雨に打たれながら周回する彼の乗り馬グランブルーの姿があった。
 鹿毛がぐっしょりと濡れて黒っぽくなって、腹の下にたまった水滴がとめどなく滴っている。
「これじゃ商売あがったりだ……まったく」
 天皇賞に出走する17頭が周回する、パドックの芝生のうえには傘をさした大勢の調教師、馬主が集まっている。
 年度代表馬ヌミノバズラムもその黒鹿毛の巨体をしなやかに動かしながら、力強く歩く姿を見せていた。
 昨年は菊花賞(G1)と有馬記念(G1)を奪取し、欧州の至宝と名高いスリープフォレストが来日したジャパンカップ(G1)では直線で猛追するもクビ差届かずの2着。
 その実力は現役最強の看板に偽りなし。
 だが――今年の始動戦となった阪神大賞典において、あってはならない大番狂わせが起こってしまった。
 休み明けとはいえチャンピオンホースの称号をもつバズラムが、2年近くも戦列を離れてすでに過去の馬となっていた二冠馬ジャムシードに、だし抜けを食らう格好で敗れてしまったのだ。
 無論、ジャムシードの鞍上はあの若月小次郎。
 二冠馬の奇跡の復活劇に、競馬ファンと世間のボルテージは一気にあがった。
 マスコミもファンも、バズラムと平馬のことなど忘れたかのようにジャムシードの大合唱である。
 人一倍、努力家でプライドの高い斎藤にとって、その屈辱は言語に絶するものだった。
 歯軋りしながら耐えた一ヶ月。
 今、視線の向こうに仇敵の姿がある。
 他馬と同じように濡れたままパドックを周回するジャムシードは長い首を地面すれすれまで伸ばしながら歩いていた。
 パッと見たところあまり活気がないが、馬体のつくりは流石と思わせるものだ。
「やっこさんも神妙な顔して……緊張してるんだな」
 江尻はジョッキールームの端でうつむいている小次郎を一瞥して口笛を鳴らした。
「阪神大賞典で負けたのはこのオレのミスだ。二度同じミスはしねぇ」
 斎藤はそう断じて、こぶしに力をこめた。




「止まぁーれぇー」
 パドックに停止命令の声が響き渡り、厩務員たちが馬を止めると控え室の前に整列していた勝負服姿のジョッキーたちが小走りに馬へと駆け寄った。
 ジャムシードにまたがった小次郎はレースでの泥対策として透明のゴーグルを二個用意していた。1つはすでにかけており、もう1つはまだ首にかけている。
 ゴーグルの下のその眼は怒りとも焦りともつかない表情をしていた。
「小次郎……」
 下から呼んだのは白いスーツ姿に赤いスカーフを巻き、薄茶色のテンガロンハットをかぶった神薙調教師だった。
 大レースにはいつもの正装である。
 むろんダービーを勝った時も白のスーツだった。
 帽子の下から覗いた眼は落ち着いているようだったが、その内心は窺い知りようも無い。
「オヤジ……」
 義父と目を合わせると小次郎はずっと我慢していた声を震わせた。
「小次郎。この場を放棄しても、誰もお前を責めたりせぇへんぞ」
「わかってる……でも俺」
 溢れ出しそうになる涙を堪えると視界がぼやけて、思わずうつむいた。
 股の下にいる相棒はいつもより静かで、枯れ葉のようだった。
 復帰戦の阪神大賞典の時もそう思ったが、ジャムシードはもはや全盛期の力を維持してはいなかった。 
「どうしても勝たせたいんだ……みんなの宝物であるジャムを、この手でもう一度てっぺんに立たせてやりたい」
 手塩にかけて育てた愛弟子の言葉に、神薙調教師はうつむいた。
「……わかった。わしは一足先に病院に向かうで」
 ジャムシードの引き手をもつ徳永厩務員も、黙ってこぶしに力をこめているようだった。
 雨はしとど降り続く。



2007/12/02 11:17 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 ⑨











「へぇ、そんなことがあったんですかぁ」
 オレンジ色の夕日が差し込む薄暗い厩舎内。
 夕飼いの飼い桶を馬房に配り終え、水道につないだホースで飲み水を足して回っていた翔太が言う。
「ま、でも僕らが何かできることじゃないですよね」
 小柄な青年のまるっきり他人ごとといった口ぶりに、隣の馬房で乾草の塊をまいていた楓は何やらカチンときた。
「そ、そうだけどさ!」
 楓には舜の言葉、立ち去り際の小次郎の寂しげな後ろ姿を思うと、どうしてもいたたまれない気持ちになった。
 何があったのかも気になるが、かといって自分には何もできない。
 当の小次郎は厩舎に戻ってからずっと自分の居室に引き篭もっていた。
「神薙ジョッキーもあんな人だとは思わなかった……。クールなだけじゃなくてもっと優しくて素敵な人だと思ってたのに」
「いやいや。モテ男さんはこう!ですからね」
 といって翔太は握りこぶしを自分の鼻先にくっつけてみせた。
「こう?」
 同じように拳を鼻のあたまにくっつける。
「そうです、こう!なんです」
「なに、天狗ってこと?」
「その通り」
 翔太は大きくうなずいてみせた。
「勢いにノッている人間なんてみんな自分が正しいと思っていますよ。他人の気持ちなんかお構いなしなんです、きっと」
「そうかなぁ……なんか二人の間には深い事情があったみたいだけど」
 楓は天井の梁を見上げて眉根を寄せた。
 自然とため息が漏れる。
「ホッホ、すまんの」
 長靴の裏が砂を噛む音がして、厩舎の中程の入り口に熊五郎が立っていた。
「テキ(調教師)のことじゃが……二人にも話しておかねばならんことがあるんじゃ」
 あれから数時間しか経っていないせいか、いつもの好々爺たる笑みが影を潜めて、すこしやつれた表情で熊五郎はそう言った。
「先生の昔のこと、ですか」
 察した楓の言葉に老厩務員はこくりと頷いた。
「いずれ知っておく必要のあることじゃて。ホホ……休憩室でコーヒーでも淹れながら話そうかの」









 横に長い厩舎の東側にあるその居室は暗く、雑然としていた。
 どれくらいの時間が過ぎただろうか―――。
 カーテンの隙間から差し込む夕日が、テーブルに置かれていた飲みかけのグラスに滲んでいた。
 今しがた大きく吐き出した煙草のけむりが、細い光のなかを悩ましげに漂う。
「……」
 雑誌や新聞が散乱した畳の上で小次郎は仰向けに身を横たえていた。
 数年ぶりに再会した舜の眼は、以前と全く変わらない憎しみに満ち満ちていた。


『お前を許さない』


 あの時もたしか……そう言ってたな。
 ズキズキと胸が痛む。












【 1997年 3月  弥生賞 (G2)  中山 2000m  13頭  芝 良  】







 早春の風が舞い込む中山競馬場に、クラシック本番を待つ桜の蕾が揺れていた。
 荘厳な緑麗しいターフの上を駆け出した13頭各馬が、一斉に返し馬に入っていく。
 3コーナーの中間ほどの外ラチ沿いに馬を停め、2番人気の黒鹿毛アンダーワールドに跨った牧昇二は、巷で流行りの歌を口ずさみながらあぶみの具合を確かめていた。
「さよならはぁ~、言わない~約束ぅ~やでぇ」
「あいかわらず音痴だな、おまえは」
 後ろを振り返るとそこには競馬学校時代から寝食をともにし、華の同期と誉高い男の姿があった。
「ぁ、どれだけぇ~遠くにぃ、離れぇてもぅ~」
「何事もなく続けるな(笑)」
「なんやねん、精神統一のまっ最中やがな、こっちはぁ」 
 牧昇二は、デビュー4年目の若手ジョッキー・若月小次郎がまたがる1番人気ジャムシードの逞しい馬体を細くした眼で見やりながら言い返した。
 460キロそこそこの栗毛の馬体が今日はいつにもまして盛り上がって見えた。陽光に照らされた体毛は黄金色に輝いている。
 ―――王者は休み明けでもぬかりなし、かい。
 ジャムシードは前年、デビューから2戦は敗れたものの、その後は破竹の5連勝で暮れの朝日杯(GⅠ)まで登り詰めた2歳チャンピオンである(当時の年齢表記では3歳)。
 父母ともに地味な内国産馬だが、その実力もさながら北海道日高にある小規模な家族牧場の出身ということもあり、すでに全国的知名度を持つお茶の間の人気者となっていた。 
 人気なのは馬だけではない。
 ジャムシードの手綱を取る新鋭、若月小次郎にも世間の注目は大きく集まっている。
 若月はデビュー初年度から同期の『天才』こと牧昇二と互角の評価を受けており、これまでの3年間でも異例のスピードで勝ち鞍を重ね続け、通算200勝をあげている。
 華麗なテクニックと抜群のスタートセンスが売りの牧に対し、セオリー無視・野性味あふれる型破りな騎乗を得意とする若月。
 冷静沈着な牧を氷とするならば、小次郎は燃え盛る炎だった。
 また、いずれも異なるタイプながら、女性好きしそうな端正な顔立ちがブームを後押ししていることは紛れもない事実だろう。
 そんな若武者二人が、既存勢力の織田・川嶋・田辺といった名だたる名手たちに挑む図式が競馬を知らない人々にもウケて、にわかな競馬ブームが起きていた。
「なあ牧、憶えているか? オレ達がデビューする前日にしたあの約束」
「……ああ。憶えとるで」
 やや幼さの残る顔立ちの牧は苦笑ぎみに答えた。
「オレら二人ともダービージョッキーになるって、あれやろ」
「そうだ」
 その表情から笑みが消え、小次郎ははるか遠くのゴール板を見つめた。
「オレはこいつで必ずダービーを獲る。いや、ジャムシードなら三冠だって夢じゃない。小さい頃からいろんな馬に乗ってきて、GⅠ馬の背中がどんなものなのかも知っている。こいつに必要なのは持っている力を発揮させてやることだけだ」
「そやな……ま、だからって道ゆずるほどワシもお人好しやないで。アンダーワールドにだって勝つチャンスはある思ってるし」
 わかっている、と言って小次郎は豪快に笑った。
 マスコミとファンの間で近頃、その馬体と躍動する走りっぷりから『黄金の風』とあだ名されるようになったジャムシードは、人間同士の会話にはまるで興味なさそうにしながら、黒曜石のような澄んだ瞳で遠くのスタンド席を眺めていた。  
 人間である牧は、戦友と、その愛馬の顔を見比べた。
「なあ…」
「ん?」
 牧が何か言いかけたところを1頭の馬が前を通り過ぎていく。
「おまえたち、遅れるぞ!」
 先輩のジョッキーだった。
 大観衆の待つスタンドはただならぬ熱気に包まれていた。
 ヘルメットのつばの上にあがっていたゴーグルを下ろす。
 騎手を乗せた2頭のサラブレッドは弾むような脚取りで彼らを待つスタートゲートに向かった。






『――ジャムシード強い! 強い! 残り200メートルで完全に独走態勢、必死に追いすがる他馬を置き去りにして、今、ゴールイン! 
 圧巻の内容で皐月賞を制し、ダービーに王手をかけました――!』







 連戦連勝の勢いをそのままに、ジャムシードは小次郎とともに、続くクラシック第一弾・皐月賞(G1)を制覇。
 そして二冠がかかった運命の日本ダービー(G1)。

 新緑の美しい東京競馬場のターフの上を、黄金の風が吹き抜けた。














 その年の9月。
 小次郎はかねてより交際を重ねてきた同い年の神薙優歌と入籍。
 新婦は師匠でありジャムシードを管理する神薙調教師の愛娘だった。
 この時、小次郎は確かな幸福の絶頂にいた―――。









 しかし……










「どーなってんだっ!!」
 激しい怒声とともに小次郎はその拳をテーブルに叩きつけた。
 速報を告げる新聞の見出し。

『ジャムシード骨折 三冠、無残…』

 帰厩を間近に控えた突然の報に、厩舎スタッフ全員が涙に暮れた。
 呆然と立ち尽くす者、嗚咽を漏らす者。
 みなに背を向けた神薙調教師の大きな背中もまた、微かに震えていた。










 あわや競走能力を喪失するほどの骨折を克服し、ジャムシードがふたたびターフに戻ってくるまでに1年半の時間がかかった。
 多くの人々の地道な努力の積み重ねによって、二冠馬は復活の狼煙をあげる。
 のちに伝説とまで言われるようになる復帰戦・阪神大賞典(G2)において前年の年度代表馬ヌミノバズラムとの接戦をハナ差で勝利。
 この時、3着以下は怪物2騎に15馬身差ちぎられていた。
 勝利者ジョッキーインタビューで小次郎は、
「休み明けだから無理させる気はなかったけど、馬がその気だった」
 と素っ気ないコメントを残した。















「義兄さ―ん!」
 中学生になったばかりの、ブレザー姿の舜が大きく手を振って走ってくる。
「おう。今日はサッカー部は休みなのか?」
 厩舎の洗い場で、厩務員とともに前脚に熱をもったとある馬の様子を見ていた小次郎が尋ねた。
「うん。週末が試合だから今日は体を休めとけって、監督が。今週の競馬はまたビデオだよ」
 少しずつではあるが、舜は大人の階段をあがっていた。
 日に日に成長していく義弟の姿に小次郎はたまに気が付く。
 小次郎が神薙厩舎に新人騎手としてやってきた頃はまだ、舜は小学校の2年生だった。身長もグングン伸びて、あと数年も経てば肩を並べるようになるだろう。
 時が過ぎるのは早いものだ。
 後頭部でひとつにまとめた小次郎の長い髪がサラサラと風になびいた。
「ねぇ、今度また乗馬を教えてよ!」
「徳永のじーさんにでも教わったらいいだろ。ジジイ、むっちゃ喜ぶぞ」
 いかにも面倒そうに言われると舜はかぶりを振った。
「義兄さんじゃないとダメだよ。ダービージョッキーの直伝じゃないとカッコつかないでしょ」
 まっさらな笑顔で言われ、照れくさそうに小次郎は鼻頭をこすった。
「……ま、暇なときにな」
 実際、小次郎は2週間後にせまったジャムシードの次の大一番である、天皇賞・春(G1)に向かって神経をとがらせていてそれどころではない。
 週末もまた有力馬に騎乗しなければならないし、最近はろくに息をつく暇もなかった。
「そういや姉さんがね、またレモン買って来てって。妊婦さんてほんとに酸っぱいものほしがるんだね」
「いや、あいつは昔からレモンおばはんだからな。単純に好物なだけだろ」
「誰が『レモンおばはん』やねん、コ・ジ・ロー!」
「うおっ!」
 突然の声に驚いて振り返ると、大きなユリの花の刺繍が入った桃色のワンピースに黒いカーディガン、そしてつっかけ姿の妻・優歌が両手を腰にあてて立っていた。
 茶髪を頭のてっぺんで束ねて垂らし、やや濃いめの化粧の顔立ちは少し目尻の下がった形をしている。活発な印象を受ける娘だ。
 優歌は明るい口紅を引いた唇を尖らせて小次郎のことを見ていた。
「ね、姉さん、来月が臨月なのに家から出てきて大丈夫なの?」
 慌てて舜が訊ねた。
「えーねん。こないして歩くのも、えくささぁ~いずや、えくささぁ~いず。別にこの辺やったらぶっ倒れとっても誰か見つけるし。部屋でストⅡやりすぎて、目ぇがチカチカすんねやんか」
 しれっと優歌は言った。
 妊娠八ヶ月、そのお腹はポッコリと出てきている。
「家でおとなしくしとけって言ってるだろうが。ほら帰れ」
 まるで邪魔だとでも言わんばかりに小次郎は言った。
「いややぁ、せっかく出てきたんやもん。すぐには帰りたない!」
 厩舎から歩いて10分くらいの場所に住まいからどうやら優歌はテクテク1人で歩いてきたらしい。
 お~い、という声が聞こえて2人の老厩務員がやってきた。
 神薙厩舎の生き仏、御年68になる徳永善吉厩務員とその弟分の熊五郎である。
 2人とも小柄で白髪頭だが、熊五郎の方が割合的に黒髪がまだかなり多い。
「ねぇねぇ、徳ジイ聞いたって! このチョンマゲのおっさんがなぁ…」
「チョ、チョンマゲのおっさん……」
 ひととおり事情を聞くと、徳永爺はちりめんじわを目じりに集め、ニカッと茶ばんだ歯を見せた。
 そして酒とタバコに焼けたしゃがれ声で、
「簡単なことやないか」
 といった。
 なあ、という徳永老に、隣で熊五郎が相槌をうつ。
「ホッホ、2人で少し散歩でもしながら帰ったらええんじゃよ。優ちゃんは小次郎さんにかまってもらいたくてわざわざ出てきたんじゃからのう」
 熊五郎の言葉に優歌は耳たぶまで真っ赤に染めていた。
 一同に返す刀で顔を見られ、小次郎は居心地が悪くなった。



2007/10/09 18:40 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 ⑧









「どうなんですか」
 双眼鏡ごしに見ている小次郎に隣から楓が訊ねた。
 素人目にみても相当に厳しいブロッキングだとわかる。
「どうにもならねぇよ、あれじゃ」
 少しして小次郎は首をふった。
「デビューもしてない新馬をオープン馬が本気で包むなんて、ありえないね」
 常軌を逸した多頭数併せに、鏡子がつぶやく。
 サラブレッドの2歳は人間で言えばまだ中学生である。
精神的にも肉体的にもまだ子供だ。皐月賞、ダービー、菊花賞といった、いわゆる『クラシック三冠レース』を走る3歳時ですらようやく高校生並でしかない。
 血統による差はあっても、アスリートとして充実するのは一般的に4歳以降。俗に言う古馬と呼ばれるカテゴリーに移ってからである。
 鬼童シャイングロリアはまさしく、3人の大人を同時に相手にしていた。
 しかもそのうちの1頭はダービー当日に行われる伝統のGⅡ、目黒記念を快勝した名うての先行馬だ。
 直線を向いた4頭が一杯に追われながら疾走する。
 鞍上の激にこたえて、オープン馬たちは四肢を伸ばしてそのトップスピードに上り詰める。
 誰の目にも真ん中のシャイングロリアの劣勢は明らかで、いずれ走る気力をなくしてやめてしまうように思われた。
「このままじゃ……」
 固唾を飲んで見守る人々にざわめきが広がった。


 激しく行きたがる馬の手応えを感じながら、舜はその時を待っていた。
 ――まだだ。
 前、左右を完璧にふさがれたまま、すでにはるか前方には白いゴール板が見えていた。
 とくに両サイドから挟まれてというもの、右から左から何度も馬体をぶつけられて、芦毛の我慢も限界にある。今にも火を噴きそうな気迫がふっつりと切れてしまう前に、温存した末脚を使わなければならない。
 しかし……。
 舜が狙っているチャンスは一度しかなかった。
 地鳴りのごとく鳴り続ける蹄音。
 風を切る馬上で舜は静かにその目を閉じた。
 全身の神経を研ぎ澄ませ、空間を把握する。
 4頭の馬の四肢の動き、騎手たちのアクション、その一部始終が極めて正確な映像として浮かび上がってくる。
 疾走する馬の最高速度はそれぞれ異なるものだ。
 一瞬の鋭い脚を使う者がいれば、ジリジリと渋太い脚を使う者もいる。 それら個性の異なる馬同士が長く走り続けることでいずれ差が現れ、そこに抜け出す隙間が生まれてくるのは道理である。
 だが、すでにゴールに辿り着くたった数十秒の間、その個々のスピードの違いから生まれる誤差のような隙間に突っ込んで追い抜かすのはGⅠ馬とて並大抵ではうまくいくまい。
 だからこそ舜は待ち続けていた。
 直線を向いて必ず訪れる、『その瞬間』を。
 お互いに鎬を削り合いながら4コーナーを回りきり、大きく脚先を伸ばしながら1完歩、2完歩、3完歩。
 そして、もう1完歩。
「……こっ、こだぁぁあっっっ!!!」
 双眸を見開き、渾身の力をこめて尻鞭を振り下ろし、もう一本の手でたてがみを掴むと力まかせにその長い首を押しこんだ。
 猛禽を思わせる猛々しい咆哮をあげ、灰色の獣は金属製のハミをがっちりと噛み込んだ。
 刹那、後方に蹴り上げられていたウッドチップが倍ほどの高さにまで飛びあがり、その馬体が人々の視界から消えた。
「何だ!?」
 先頭を走っていたシャインクウガの鞍上・森嶋武志調教助手は、その瞬間、背後からのしかかる殺気を感じた。
 悪寒が身体を突き抜けていく。
 それと同じ感覚を、馬も感じたのだろう。
 ヒン、という短い悲鳴をあげて両目をつぶり、ストライドがわずかにブレた。そのほんの拳ひとつほど先を闇色の塊が信じられない速度で駆け抜けていく。
 全身の毛穴から噴出する汗と、早まる鼓動を感じながら森嶋は体勢を保とうと必死だった。
「がっ! ぐああっっ!」
 突如として散弾のごとく飛来する木片。それは尋常な痛みではなく、口をついて悲鳴があがった。
 あっと言う間に先頭を奪われ、GⅡ目黒記念の覇者シャインクウガがなす術もなくズルズルと後退していく。
 残ったオープン馬2頭も必死に食い下がるものの、もはや7馬身、8馬身と差を広げられて競走どころではなかった。
 赤子の手をひねったような差をつけて、芦毛が猛然とゴール板を通過した。




「おい、写真撮ったか!?」
「来年のダービーはどうなっちまうんだぁ……アラブの馬に加えてあんな怪物まで混じってやがるたぁ……」
「それにしてもあの囲みをどうやって抜け出したんだ?」
「知るかぁ。けっ、ヤラセなんじゃねーのか」
 様ざまな声が飛び交う中、舜を乗せたシャイングロリアがダク足を踏みながら戻ってくる。
 天に向けてぱっくりとあけた口と鼻は呼吸を荒げ、全身から大量の汗を流して疲労感を漂わせていた。
 しかしその禍禍しいばかりの黒い闘気は衰えるどころか、なお激しさを増していた。
 二人の厩務員に馬を任せて下馬した舜もまた疲労困ぱいの様子だった。
 それでも鋭い表情と確かな足取りで馬主と調教師のもとを訪れて拍手をうける。
 とくにシャイングロリアのオーナーである二条院英悟は、満足げにその手を何度も握りしめていた。
「凄い……」
 楓は無意識につぶやいた。
 その横で熊五郎が眼鏡を触りながら、目を白黒させて言う。
「あの厳しいマークをどうやって抜け出したんじゃ? 内から抜けてきたからわからんかったぞい。先頭の馬がすこしヨレたようにも見えたが」
 周囲の無言とともに、まるでマジックを見せられた後のような錯覚がその場には残っていた。
 沈黙を破ったのは小次郎だった。
「ヨレたこともあるだろうが……おそらく『手前』だな」
 小次郎のこめかみを汗が伝った。
「直線で内の馬が手前を変える瞬間、そこにできるわずかな隙間に馬を突っ込ませたんだ。しかも、最初からそれを狙っていた」
「そんな!」
「!」
 現役の騎手である犬介と鏡子が、驚愕のあまり声をなくした。
 馬の走る仕組みはわかりやすい。
 人間でいうなら跳び箱を飛ぶ要領と同じで、2本の前脚(腕)を支えにして後ろ脚で蹴って走るのである。
 馬は基本的に人間のようにぴったりと前脚をそろえているわけではないので、必然的に片方の脚で体重をささえて連続して飛びつづけていかなければならない。
 片方ばかりで体重を支えて飛びつづけていれば単純に疲れてくる。
 だから交互に逆の脚に切りかえて走るのだ。
 この動作のことを『手前を変える』という。
 そして手前を替える一瞬、両前脚が完全に地面から離れるタイミングが存在する。その瞬間だけは前に推進するスピードが落ちるのである。
「手前を変える瞬間を狙ってって、……それじゃ神がかりだよ」
 鏡子の声に、ツバサオーが不思議そうに振り返った。
「いや、追い抜いてからあれだけの脚が使えるなら一旦後方にさげてからでも楽に差しきれたはずだ。手前の変化自体は騎乗している人間のクセと馬の脚色から判断できないことはない。ただ、隙間のない場所に突っ込むリスクを考えれば正気の沙汰じゃないがな」
 小次郎の手は微かに震えていた。
「けど……」
 続く言葉に誰かが唾を飲み込んだ。
「けど、……やっぱりウチには関係ねっか」
 急に照れた様子で、小次郎は豪快に頭をかいた。
 一同の間にしらーっとした空気が流れ、熊五郎あたりは思わず腰砕け状態になっていた。
「ま、まぁそうだよね、あんなバケモノ馬が未勝利とか500万条件戦を荒らすことなんてないもん」
「そ、そ―ぉですよねぇ! アハアハ、いいコトなのかな―?」
「けっ……ンなこと言ってて、情けなくねぇのかよ」
 小声で犬介がボヤく。
「とりあえずええんじゃ。わしらにとってはカイバ代をきっちり稼ぐ馬を鍛えることだって大事なことじゃて。のう?」
 そんなことを言い合う傍ら、誰も緊張した様子の小次郎に気づくことはなかった。
 いや。
 ただひとり、楓だけが気づいていた。
 サングラス越しの目線はまっすぐこちらに向かってくるその男の姿を捉えていた。
「舜……」
 そのつぶやきに周囲の声が止む。
 ほんの少し前に驚異の騎乗をみせたばかりのうら若き天才は、調教師としてはまったく無名な男の正面に立った。その全身から、どうしようもないほどの疲労感を漂わせながら。
 先日の牧昇二といい、ウチのボスは有名人の知り合いが多いなと楓は思ったが、友好的だった牧のそれと今回はだいぶ雰囲気が異なるようだった。
 先ほどまでの紳士然とした物腰と打って変わって、眉間にしわを寄せた神薙舜は小次郎の顔を正面から睨みつけていた。
「久しぶりだね、小次郎さん……いつ以来だろう」
 身長差でやや見上げる格好になりながら舜は低い声を放った。
 あまりにも露骨な憎悪のこもった声に、楓は頭痛を覚えた。
「まさか、またアンタがこの世界に戻ってくるとは思わなかったよ。どんな顔をして暮らしているのかと思っていたけど、つくづくアンタは自分を惨めだと思う感覚がないらしいね」
 小次郎は口を閉ざしたまま、じっと舜を見つめていた。
 その瞳には戸惑い、悲しみの色が見えた。
 かまわず、舜は次の言葉を言い放った。
「あの日のことを俺は一日だって忘れたことはないっ! 姉さんを孤独に死なせたオマエを、俺は永久に許さない!」
「!」
「ちょ、ちょっと神薙クンっ!」
 青ざめた鏡子の制止も聞かず、舜は小次郎の横をすり抜けていった。
 後には重苦しい空気だけが残った。
 事情を知っているらしい熊五郎がその肩に触れようとするが、小次郎はそっとサングラスの位置を直し、「……悪ぃ、先、帰るわ」と言ってその場を離れた。
 あまりの突然の出来事に誰もが声を失っていた。
 楓は、胸の鼓動がいつもの倍くらいの速さになっていくのを感じていた。






2007/09/25 19:31 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎  ⑦





                     7


 
 
 
大きい。
だがその脚取りに、ありがちな重苦しさはない。
歩を進めるたびに体の外に力強く張り出した筋肉と、その内側の骨格が体重をしなやかに受け止め、はずむようだ。
 耳ごと頭部を覆っている漆黒のメンコ(覆面)には、目の部分に金網状の矯正馬具『ホライゾネット』が装着されており、その表情を覗くことはできない。
ただしすでに全身を濡らしてしたたりる大粒の汗と、猛獣の牙を思わせる見たこともない形状のハミを噛んだ口角からときおり落ちる白い泡の塊からわかるように、激しい気性の持ち主であることは傍目にも疑いようがなかった。
「あれが、噂のバケモノ馬か」
「神薙調教師のせがれが裸馬で乗りこなしたっちゅうけど、ほんとかね?」
「いや、そんな芸当できるわけねぇべ。おおかたどこぞのブン屋が膨らましたホラに決まってるわ」
 離れた場所にいる長門調教師たちには聞こえない声でそんな会話が交わされた。
右腕を三角帯で吊った長門は、すり傷の残る顔に固い表情を浮かべながら、灰色の巨馬を見守っていた。
先だっての騒ぎで長門厩舎のベテラン厩務員4人が大小のケガを負った。
そのために今日は厩舎でも腕利きの厩務員に引かせているのだが、かの馬が本気で反抗すれば、そんなことは何の気休めにもならないことを長門は身をもって知っていた。
 シャイングロリアという馬名で正式に競走馬登録をされた芦毛はそんな人間の思いを知ってか知らずか、ときおり天を仰いでは大きな鼻息をもらした。
「皆様、お待たせいたしました」
 スピーカーを通した女声が響いて、人々はコース脇に設けられた木製の壇上に視線を送った。
 鮮やかな青のドレスをまとった二条院しづかの登場に一同から「おお」という声が漏れる。
しづかは腰まで届く長い髪の上にはツバ広の帽子をかぶり、その口元にはピンクのグロスルージュが輝いていた。
ほっそりした腕とミュールを履いた白い足が陽光のもと、なまめかしい色気を醸し出す。
「まずは父よりご挨拶がございます」
 礼装の着物をまとった白髪の老紳士が段にのぼると、大きな拍手が起こった。
「二条院英悟でございます。本日は私事ながらこのように多くの方々にお集まりいただき、まことに光栄極まる次第でございます」
 とうに還暦を過ぎている老人だが、気力と威厳に満ちた姿である。
深く刻まれた顔のしわと柳のごとくのびた白髭。頭はすでに禿げており、太い眉とやや垂れ目な細い眼の持ち主だ。
しづかとは父と娘にしてはあまり似ていない方だろう。
 二条院翁は、シャイングロリアに関して簡潔にプロフィールを語った。
母グロリアススカイは翁の持ち馬としてイギリスで走り、英オークス(G1)を勝った名牝である。
引退後はアメリカに移動して繁殖生活を送り、初年度からフロリダダービーを勝ちケンタッキーダービー2着の実績を残したグロリアスフォーリナーを産んだ。
 そして1年間の空胎期間を置いて誕生したのがシャイングロリアである。
「わたしも長く馬主をやっておりますが、未だダービーには縁がありません。来年こそはこの馬で必ずダービーを勝つのだという意気込みで、このたびこの馬を日本で走らせることにしました。ただし……」
 そう言ってマイクを口から外して二度ほど咳きをした。
「ただし、この馬は闘争心が並外れて強く、巧く乗りこなせる騎手がいるかどうかが気がかりでありました。アメリカの牧場時代は併せ馬の調教もろくに出来ず、気性を落ち着かせるためにさまざまな処置が施されましたが、そのいずれもがうまく行きませんでした。厩舎にまぎれこんだ子鹿を噛み殺したこともあったと聞きます」
 ぞっとするような話に一同はざわついた。
「しかし、これは日本競馬界にとってもわたし自身にとっても幸運と言うべきでしょう。われわれは新たな才能の持ち主に恵まれた。その人物こそ昨年の天皇賞(秋)において私の持ち馬シャインレオニドスを勝利に導いた神薙舜ジョッキーです」
 そう言って手を向けた先には白のポロシャツにデニム姿の舜がいた。
後ろ手に調教ヘルメットとムチを持っており、どうやらこのまま騎乗するようだ。
 先ほどと同じように拍手が沸くが、舜は微笑むこともなく会釈をした。
もともと口数も表情も少ない。競馬での勝利ジョッキーインタビューや雑誌の取材でもポツポツ答える程度で、お世辞にもマスコミ受けはよくない。
アイドル顔負けのルックスと、天才的競馬センス。
次世代の若きカリスマは極めてシンプルだった。
 二条院翁が続ける。
「論より証拠。この人馬の相性をみなさまにご覧にいれましょう」
 舜は灰色の巨馬に歩み寄った。
 網状の目覆いをした馬は、今日も全身から発散するその漆黒のオーラが目に見えるほど、ただならぬ気配を放っていた。
その様子を見て、舜は、今にも破裂しそうだな、と心の中でつぶやいた。
「グロリア……」
 気ぜわしく動いていたその鼻先がピタリと止まる。
 厩務員の扶助を得て舜は流れるような動作で鞍にまたがった。
張り詰めた気配が股の下から温かなぬくもりとともに伝わってくる。
シャイングロリアは鞍上の命令に従って、ゆっくりとウッドチップの馬場へと入場した。調教コースはいつしか静まり返っていた。
 
 
 時間は正午近く。
うす気味悪いほど晴れた空から照り降ろす太陽が眩しい。
 閑散としたコース内、逞馬はゆっくりと脚を持ち上げて周回をはじめた。
 長い首をしきりに地面に近づけて黙々とダク足を踏むさまは特にこれといった特徴もない。
規則的な蹄の音とともに脚元のウッドチップが跳ねた。
鞍上の指示に従って芦毛はスピードのギアを上げていく。
 速脚もほどほどにキャンター(駆け足)がはじまった。
 さらに速度を上げ、俊敏な脚さばきに馬体がスッと沈み込む。
 おおむね800mほどコースを回ってから、『10』と書かれた残り1000mを表すハロン棒を通り過ぎた場所で、あらかじめ体を温めて待っていた2頭の鹿毛馬が合流する。
 他馬が併せてきたことに気づいて、警戒したシャイングロリアの両耳が後方にしぼられる。
 左右から馬体を併せてきたのはいずれも競走馬としては最上位クラスである『オープン馬』だった。
歴戦の強者に挟まれ実戦さながらのプレッシャーがかかるが、舜は手綱を長く持ったまま微動だにしなかった。
 馬上ではいつものように風を切る音だけが聞こえていた。
 ゴーグルごしに見える前方に、新たな一頭の黒鹿毛が待っている。
「たった今、併せ馬の先頭に加わったのは先の目黒記念を勝ちましたシャインクウガ(父ダンスインザダーク)です」
 ふたたびマイクを手にしたしづかの声が響く。
 フタをされる形で前方を塞がれた。
軽快な脚どりで前を往く馬の、後ろ脚が蹴り上げたウッドの破片が腕や顔といわず全身に叩きつけ、股の下からシャイングロリアが不快げな唸り声をあげた。
緩やかな右周りのカーヴを4頭のサラブレッドが雁行隊形をつくって駆けて抜けていく。
前と左右を塞がれたままでは動きようもないのか、巨漢の芦毛は包まれた状態に苛立ちを隠せずに何度も首を上げようとしていた。
「長門君、例の指示は彼らに伝えてあるかね?」
 二条院英悟は表情をピクリともさせずに長門調教師に言った。
「はい、シャインクウガら3頭の調教助手には完全に包囲し、一切の手を抜かないよう指示を出しました。あのような形になれば進路を開くことはまずないでしょう」
「ふむ。それでいい」
「お父様、どういうことですの?」
 怪訝な顔をして、しづかが訊ねた。
「神薙君たっての希望でね。今回の公開調教では実戦形式で行なうことになった。無論、スパーリングパートナーである彼らにも、負かせるなら負かしていいと伝えてある」
「そんな!」
 しづかは、やや色を失って声を漏らした。
 完成された古馬を相手に実戦に近い併せ馬をするのと、実戦をするのでは全く違う。
 二条院翁はシャイングロリアにまさしく競馬をさせるというのだ。
 セレモニーもお披露目もへったくれもない。
「なに……GⅡ馬と互角にやれることをアピールするためにわざわざこんな舞台を用意したのではないよ。あれは別格だからね」
「でも、グロリアはまだ成長途上の2歳馬。調教とはいってもいきなり重賞クラスの古馬に本気でぶつけるなんて」
「いや本当はレオニドスと対戦させてやりたかったのだがね。残念ながら故障してしまった。目黒記念を勝ったクウガあたりではむしろ荷が重いかもしれんな」
 すると長門が口を開いた。
「会長。わたしには舜はわざとあのカタチに持っていったように見えますが」
「ふむ、私も同意見だ」
 そう言うと二条院英悟は口元を綻ばせた。「さてここから何を見せてくれるのかな」
 愉しげな表情をしながら馬場を見つめている実父の隣で、しづかは状況をただ見守るしかなかった。
「舜クン……」
 コーナーを回りきり直線に向いた頃、舜とシャイングロリアには全くと言っていいほど包囲から抜け出す隙間がなかった。

2007/09/07 02:16 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ⑥
 



                           6
 
 
 


 乾いた金属音を鳴らしてゲートが開くと、ほぼ横一列に10数頭のサラブレッドたちが緑鮮やかなターフに躍り出た。
 競走馬たちは移動する地鳴りのような蹄音を響かせて疾走する。
 3コーナー過ぎ。
 逃げていた鹿毛馬が一杯になり、後方から押し寄せてきた馬群が先行馬たちを飲み込むべく進出してくる。
 気合とともに騎手がふるう鞭音が鳴るなか、1頭、また1頭と脱落していく。
 4コーナー。
 5頭のサラブレッドが鎬を削るそのさらに大外を、最後方で脚を温存していた青鹿毛馬が猛烈な勢いで差をつめてくる。1完歩、1完歩ごとに先頭との差は縮まっていき、ついには他馬をまとめて追い抜いた。
 場内に歓声が沸き起こり、大外を追い込んだ鹿毛がゴール板を通過した。

 スタンドの記者席エリア。
「いやぁ~、大外一気のスゴイ末脚だったなぁ。でも馬券はハズレちゃいましたよ~。花山さんは?」
 双眼鏡ごしにレースを見ていた、小太りで眼鏡をかけた若い競馬記者が笑いながら、隣にどっかりと腰をおろした中年の先輩記者に言った。
 色あせた橙色のポロシャツから見える日焼けした太い腕を組み、面深にかぶったハンチング帽の下で煙草をくゆらせる男はむすっと黙っていた。
「外したんですかぁ、まぁ、しょうがないですってば」
「うるせぇ。こんなクソレース、馬券なんざ始めから買ってねぇ」
 関西スポーツの競馬担当、花山克敏は吐き捨てるように言って煙草を灰皿に荒っぽく押しつけた。
「あんなもん、見た目が派手なだけで前にいった連中がタレてっただけじゃねぇか。下手糞どものやる競馬見せられて腹が立つんだよ!」
 また始まった、とばかりに若い記者は出馬表に目を落とした。
「おっと、今のレースで勝ったのって去年デビューした依田犬介騎手ですね」
「あん? 誰だ、そいつ」
「ええ、若月厩舎所属のジョッキーですよ。彼、北海道の地元じゃかなり名の知れた不良だったらしいですよ。他の騎手やマスコミにもあんまり評判よくないですね。狭いスペースに強引に突っ込んだり、ハナ(先頭)に競りかけていったら絶対に引かないし」
 あきれた顔で、そんなもん当たり前じゃねぇかと思いつつ花山はそれとは異なる言葉を投げかけた。
「若月…って、そんな調教師が関東にいたのか?」
「ボクもよくは知らないんですけど、この間たまたま美浦で見かけたんですよ。黒ずくめのヤクザみたいなおっかない人が調教コースにいるから周りの人に聞いたんです。そうしたら『あれは若月小次郎だよ』って」
「若月小次郎だと――っ!!!!」
 花山は血相を変えて立ち上がっていた。
 見たこともない熟練記者の仰天ぶりに、若い記者の眼鏡がずれ落ちた。
「あの、若月さんて元は騎手で、レース中に自分の乗っていた馬を壊してそのままショックで失踪しちゃったんですよね?」
「ああ。もうだいぶ前のことだがな。ありゃ、とんでもない事故だった。だがまさか関東で調教師になってやがったとは。そうか、弟子もとってちゃんとやってるんだな」
 ほこりを被っていた灰色の脳が突然、活性化したように花山は体中がゾクゾクしてくるのを感じた。
安酒とケチな博打のくり返しに溺れて心は錆びついているが、刻み込んだ記憶は消えようがなかった。
 懐かしげな表情で「そうか、そうか」といって花山は何度もうなずいた。
「花山さん、知り合いだったんですか?」
「知り合いもなんも、俺ァ、野郎の仲人をやったんだぜ。神薙御大をはじめとした東西の関係者がめっちゃくちゃ集まった盛大な結婚式でよぉ、あの頃は世間も競馬も、今よりずっと楽しかったなァ」
「はぁ……なんかそんな凄い人には見えなかったですよ。どっちかと言うと一匹狼って感じで、近寄りがたいオーラは出ていましたけど。あ、たしかバナナ食べてましたね」
 部下の言葉を聞き終わることもなく花山は急ぎ足で階段をおり、地下検量室にむかった。

 レースからあがってきた騎手や馬たちにまぎれ、視線を泳がして辺りをうかがっていると着順が確定したらしく、顔を洗い終えた犬介が検量室から出てくる。
「おつかれ、ないっっすな騎乗だったよ!」
 そばにいた楓の突き出した手に軽くハイタッチして犬介は目を細めた。
 普段は険相が多い男だが、2か月ぶりの美酒に笑みがこぼれていた。
「口取り行くけど、おまえもいくか?」
「あはは、翔太の管理馬の写真にまざるのもどうかだよね。でもウチの厩舎の勝利だしな」
「お、おい!!」
 突然、見知らぬ記者風の中年男から声をかけられて、ふたりは顔を見合わせた。
「こ、ここここ小次郎は、いるのか?」
 声をうわずらせ、かなり興奮ぎみに花山はたずねた。
「小次郎先生は……今日はいませんけど」
 あまりの勢いにやや引きながら楓がこたえると、花山はそうかと肩をおろした。
「伝えてくれ。『水臭いじゃないか』って関スポの花山が言ってたってよぉ。俺っちのことは言えば必ずわかるはずだ」
「はぁ……はい」
 折れ目のついた名刺を一枚渡して、突然の来訪者はその場から去っていった。
 何のことやら分からず、楓と犬介は小首をかしげた。
「関スポの、何つった?」
「いや、突然だったから……よく聞こえなかった。あ、でも名刺があるじゃん」
 やたら手垢にまみれたその名刺には、

『 スナックゆかり ボトル無料引き換え券 』

 と、印刷がされているだけだった。
 しばしの無言の時間。
「やべぇ! 口取りいかねぇと!」
 思い出した犬介が走り出す。
 あわてて楓も後に続き、二人は勝ち馬が待つウイナーズサークルへ向かった。
 
 


 週が明け、全休の月曜日をはさんで、また美浦トレセンにいつもと変わらぬ調教風景が戻っていた。
「フォォォォォ~~」
 夜更かしゲームで両目をはらした小次郎は大あくびを漏らした。
 禁煙パイポをくわえながらラチにもたれかかっているその前を、1頭の鹿毛がキャンター(駆け足)で通り過ぎていく。
「なーんか、今日もまたマスコミが多くねぇ?」
 ダービーの直前でもあるまいに、と小次郎はジトーッとした眼で周りを見やった。
 今朝もまためずらしく、先だってのネオブラッド・ジャパンが主催した会にも劣らない人数のマスコミや関係者が調教コースを訪れている。
 ウッドチップが敷き詰められたコースを犬介がまたがったリーサルウエポンと、遠野鏡子がまたがったツバサオーが緩いキャンターでまわってきた。
2頭は流れる汗をしたたらせながらコース端にいる小次郎の前で足を止めた。
「よう、うちの看板馬の乗り心地はどうだ?」
 意地悪そうな笑いをみせて鏡子に問い掛ける。
「悪くはないけどねぇ。なんてゆうか、全然走りに集中しない」
 美女にまたがってもらったツバサオーは喜びすぎて走っているあいだ中、ずっと尾を振っていた。
だが、かといってそれ以外は特別な悪さをするでもなく、鏡子のまたがった感想は想像より良いほうだった。
 常識的にいえばツバサオーは競走馬にするのも危ぶまれるサイズである。
イメージが先行してそのまま走らない馬のように思えるものだが、出脚の軽さや身のこなしは驚くほど柔らかくバネに富んでいた。
「リーサルは?」
「まだ重いっスけど、前脚の掻きこみと後ろ脚の力はさすがですね。ローカルの1000万条件なら簡単に突破してくれるんじゃないですか」
 地方のホッカイドウ競馬でトップ級の実力をもつリーサルウエポンは脂肪のついた体をもてあましながらも、ここ最近はキャンターのラップ時計を少しずつ早めている。その走る様はダート専用の重戦車といった風情だ。
 ここでいうローカルとは、中山・東京・京都・阪神という主だった競馬場ではなく、全国に点在する札幌・新潟・福島・中京・小倉などのことを言う。
 ローカルでの開催期間は各厩舎の主力馬にとってのオフシーズンであったり、基本的に遠征をするため、ややメンバーが手薄になるのが特徴である。ちなみに中央競馬では2歳馬のデビュー戦となる『新馬戦』がはじまるのもおおむね夏のローカル開催からとなっている。
「息の長い競走馬づくりの名人、道営・伊達辰人調教師の管理馬だからな。80戦走ってても脚元はきれいなもんだぜ」
 満足げな顔で小次郎は言った。
「ところでさ、今日もなにかあるのかな? すごい人」
 調教用のゴーグルを外し、鏡子はレンズについた砂埃を指先で拭いた。
「ま、うちには関係ねぇわ……」
「いやいや、それはわからんぞい!」
 ニュッという音がしたかはわからないが、小次郎の視界の真下、股間のあたりから白ヒゲの厩務員があらわれた。
「うお! 熊ちゃん」
「ホホ……すまんぞい」
 そう言って熊五郎は一枚のA4紙を小次郎に手渡した。
 マスコミ・厩舎関係者各位、と書かれたくだりから始まる一文に目を通していく。
 
『(前略)……6月14日午前11時、美浦トレセン南ウッドコースにて競走馬名シャイングロリア(父Dominion 母Glorious Sky)の皆様方へのお披露目式を行ないたき所存でございます。(中略)それでは当日、心よりお待ちしております。』
 
 二条院英悟・しづか、という署名で文面は終わったていた。
「シャイングロリア……」
 二条院英悟とは競馬の世界では関西の大馬主、そして世間においては大手家電グループ『光』の創業者として広くその名を知られている。
彼が所有するすべての競走馬にはシャインという冠名がつけられる。ここ最近では去年の天皇賞・秋を制したシャインレオニドス、2年前の夏のグランプリ・宝塚記念の覇者シャインブラムドなどが活躍している、非常に勢いのある個人オーナーである。
「漢字ばっかしでよくわからんが、つまり、金持ちが自分のところの馬を見せるから取材しろってことか」
 小次郎は眉間にしわを寄せて言った。
「お金があまっているならウチにも預けてくれればいいのにね、先生♡」
 調教が終わる時間にあわせて、楓も引き手を携えて馬場にやって来た。
「ケッ。高けりゃ走るってもんじゃねー」
「翔太が言ってたんですけど、『うちの厩舎にはサンデー系がいない』って。ある意味、中央競馬には貴重な厩舎ですよね」
「なぁーに。めずらしいってのはな、それだけで価値があるんだ」
 空にむかってピンと立てた両耳をせわしなく動かすツバサオーの馬上で、鏡子がふきだした。
「それはあんまりだと思う」
 自分のことを言われているとも知らず、四白栗毛の若馬はキョロキョロとあたりを見回していた。
「もしかしてあれか……」
 遠くに目を凝らした犬介が言うと、リーサルウェポンもまた大きな首を持ち上げた。
 厩舎の通りに、左右に厩務員2人を従えた芦毛の馬が現れる。

2007/08/13 23:17 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ⑤


 



                           5


 
 
  長門厩舎は美浦の厩舎村でも比較的、奥まった西側に位置する。
  運転手のエスコートで車を降りた舜としづかは、新緑を生やした木々のこずえから差し下ろす陽光を感じつつ、歩いてものの数分の所にある目的の厩舎へと向かった。
「うふ、舜クン」
  舜の左腕に自分の腕をからめたしづかはご満悦のようだった。
  すっかり困った顔をしている舜のことなどお構いなしで、つい先だって訪れたオランダのアムステルダムについて喋っている。
 車を降りるなり下駄の具合がよくないと言って、「腕を貸してくださる?」などと聞いてくるあたりはいつものことだった。
 トレセンなど歩いていればそこら中に関係者や知り合いがゴロゴロしているのが当然だというのに、これではどんな噂が立つかわからない。以前に一度だけ面と向かって断ろうとしたことがあったのだが、一瞬で両目に涙を浮かべた娘の前になすすべもなく諦めてしまった。
 それ以来、まったくペースを握られたと言っていい。最初にそういう場面に出くわした時に毅然とした態度をとれなかったことを舜は後悔していた。 
  そんな2人の耳に離れた場所から突如、
「バ、バケモノ!!」
  という悲鳴が飛び込んできた。
  緊張で表情を硬くした舜は周囲に目を凝らした。
「ぎゃあぁぁ!」
 すぐそばの厩舎の建物の向こう側から、叫び声とともにもんどりを打って人間が転がってきた。
 うずくまったまま嗚咽し、腹をおさえるその男に舜は見覚えがあった。
「長門先生っ!」
 関東調教師リーディング10位の長門博明は砂にまみれた顔に脂汗を浮かべて苦悶の表情を浮かべていた。
 数年前まで現役ジョッキーだった長門は自らも騎乗して調教をつける。彼ほど馬の扱いに長けた人間に何が起こったのか、舜には理解できなかった。
 駆け寄ってきた舜としづかの姿を見て、長門は声をしぼりだした。
「し、舜、お嬢さんを連れて逃げろ……! 危ない」
 その言葉を聞くや厩舎の建物の向こう側から不気味な気配を察して、舜は反射的にしづかの盾になった。
 地面に長く伸びた影がこちらに近づいてこようとしていた。
 乾いた蹄の音と、荒い息遣いが聞こえてくる。
 獰猛な狂気の光を双眸に宿した魔物は、長い鎌首をもたげるようにして人間たちを静かに見下ろした。
 目眩だろうか。ものの10メートルの空間がいびつに歪んだように感じた。 
 その灰色の体には血糊がべったりとついており、無口頭絡につけられた2本の引き手が力無くゆらゆらと揺れていた。
興奮の度合いを示すようにその口からは白い泡の塊がこぼれ落ち、全身から噴出した汗もまたしずくとなって流れ落ちていた。
舜はかつて、これほどの妖気をまとった馬に出会ったことがない。
スーツの下の身体がじんわりと嫌な汗で湿っていくのがわかった。
長門厩舎のほかのスタッフはどうしたのかと思ってみるが、現実じみた想像が浮かんでやめた。
「グロリア……」
 背中から小声でしづかがそう言う。
「じゃ、この馬が!?」
「そう。グロリアススカイの06、父は国際GⅠ7勝のドミニオン。あまりにも激しい気性と強靭な身体能力からアメリカの牧場でついたあだ名が『灰色の堕天使』……」
 騒ぎを聞きつけたらしい人間の声が遠くから聞こえてくるが、もはや一瞬の油断もならない状況だ。
 額を伝う汗を感じつつ、舜は冷静だった。目を逸らさずにじりじりと後退していく。
背中にふれた手から、しづかの震えも伝わってくる。
「生まれた頃はあんなにかわいかったのに」
「お嬢様、ここは僕が何とかします。このまま向こうの建物に向かって逃げてください」
「でもそれじゃあ、舜クンはどうするの!?」
「大丈夫……馬乗りですから。相手が馬ならどんな奴にだって負けません」
 放馬した馬を御したことはこれまで何度もあるが、今回は相手が違う。
 ただの強がりだな、と思いながら舜は、「さあ、早く!」と促した。
「舜クン……」
 駆け出す前にその後ろ姿を一顧して、しづかは胸がしめつけられた。
 逃げ出したしづかを見た馬の瞳がひときわ禍禍しい光を放つ。2、3度、地面を前がきして首を上下にふった。
 ――来る!
 そう思ったとき、すでに瞬時に体が反応していた。
少なくとも5メートルは前にいたはずの灰色の馬体が空気を切り裂いて目前に突進してきた。
 恐怖と同時にスーツが袈裟懸けに破れた。掻きこむ前脚の蹄がかすめる。
灰色の巨体と舜の体がその刹那、交差していた。
 1/10000の1秒の世界――舜はそこにいた。
伸ばした左手で引き手の一本をたしかにたぐし寄せ、同時に柔道の奥襟をとるような動きとともに右手が馬の太い首のたてがみをつかむ。
「む、うおおおおおおっっっっ!!!」
 右足を蹴り上げ、体を捻りながら内回りに跳躍した。生暖かい馬の体のぬくもりが下半身に伝わってくる。
「暴れ狂う裸馬にまたがった、だと――っ!!!」
 ようやくかろうじて立ち上がった長門博明が目にしたのはそんな信じがたい光景だった。
足の指先から脳天までの全身に震えが走っていた。
 “グロリアススカイの05”は怒り狂い、己にまたがった邪魔者を振り落とさんと後ろの二本脚で立ち上がる。咆哮と呼べる激しいいななきが鼓膜をつんざいた。
 それでも舜は絶妙なバランスで下半身を絡みつかせ、右手でもう一本の引き手を捕まえた。スチール製のリングハミががっちりと馬の口に嵌る。
 猛り狂っていた馬が、ガツンと前脚を地面に降ろした。
「よーし……よーし」
 ハミは万能の道具ではない。実際、馬体に触れている両足から伝わってくる溶岩のような熱はまったく衰えなかった。
 さてここからどうするかと思ったそのとき、
「うわっ!!」
 突然、脱兎のごとく巨馬が全力で駆け出した。
 必死に引き手を引っ張るが、やはり鞍もあぶみもなければ力が伝わらず持っていかれてしまう。
「退いてくれ!!」
土が剥き出しになったトレセンの道を荒々しい蹄の音を響かせて、駆け抜ける裸馬とそれにまたがった破れたスーツ姿の男の姿を、道行く人々は唖然として見送った。
 いつしか舜はどっかりとまたがる、カウボーイのやるウエスタン乗りから競馬の騎手の騎乗法『モンキー乗り』になっていた。
いや、強引に膝で支えている状態だが。
 両脚の扶助がきかないのなら同じだとばかりに変えたのだが、そうしてみて意外なことに気づいた。
「この馬の背中は…」
 ブレない! 
 まるで超高級車に乗っているかのように、その背中は心地よさを感じさせた。
「あははっ!」
 思わず笑いを漏らす行く手に調教コースが見えてくる。
「グロリア、おまえ最高だな!!」
 汗まみれになりながら恍惚の表情で、舜は大声で言い放った。
下半身はすでにつりそうなほど疲労し、両腕も棒のようだ。両手は皮がずたずたに破れておびただしい血が流れていた。
 それでもなお馬は立ち止まることなく砂塵を舞い上げてダートコースに進入していった。
「あはははははっ、あははははっ!!」
 堕天使の背中に陶酔する、舜の笑い声は子供のようだった。
 
 
 
「なんやとぉ!?」
 都内の超高級ホテルの一室。
 ジャグジーのついた風呂からあがってきた天才騎手・牧昇二の声がほの明るい部屋のなかに響いた。腰には赤いタオル一枚。首には純金のペンダントが下がっている。
 牧はしばらく言葉を失っていたが、少ししてくぐもった笑い声を発した。
「あの舜坊がな……そんなハチャメチャやらかすなんて傑作やなぁ。うん、そら凄いわ」
 携帯電話の向こう側の声が音漏れして聞こえてくる。
『おまえにもそんな芸当ができるのか?』
「アッホか。仮にやれたとしても、そんな命がけの一発芸は願い下げや」
『………』
「記者っちゅうのは、いつも耳ダンボにして想像力ふくらましてなアカンくて、たいへんやなぁ。けどそういう質問はナンセンスやで。今のオレにどないせぇっちゅうねん」
 そういってゲラゲラと笑い、くわえた煙草にジッポーで火をつける。真鍮製のハンマーが部屋の中に心地よい響きを残した。
「……ああ思い出した。昔な、よう似たアホやらかした奴がおったで。まだ競馬学校時代の頃やな。手ぇつけられんようなった裸馬に飛び乗ってそのまま御してみせた、大馬鹿なのか怪物なのか…」
『そいつの名は?』
「アホゥ、それ調べるんがオマエら記者様の仕事やろが。それじゃワシ、これから両手が塞がる用事があるんで、切りまっさ~☆」
『オイッ! 昇二…!』
 牧は携帯を電源ごと切って、部屋のはしにむかって放り投げた。
分厚くて柔らかい絨毯のうえを携帯は弾んで転がった。
 キングサイズのベッドに腰をおろして長い息をつく。だらりと下りた前髪のしたの瞳が二度ほど、まばたきした。
「昇ちゃんたら……こんな時間にもお仕事の話? ユミにも聞かせてぇ」
 背後から両腕を体に絡めて、さきほどからベッドの上で待っていた女が甘い声とともにしなだれかかってくる。
「う~ん? まどろっこしい話やねん。ゆみたんにはおもろないでぇ。それよりも…」
 ぐるっと体を反転させて正面をむくとそのままベッドに女の体を押し倒す。
 女は何も身にまとってなかった。
「今夜もまた、オレたちの愛をたしかめるでぇ~!」
「昇ちゃん……来て」
 知り合ってまだ一ヶ月ばかりの新人女子アナの体をむさぼりながらも、牧の脳裏には古い記憶が鮮明に蘇っていた。
『――どうだ! 俺はこの程度じゃ落とされねぇ!』
 ロデオのように暴れまわる馬のうえでその少年は己の腕を誇示するかのごとく馬をさらにあおってみせた。その場に居合わせた教官をはじめ、生徒たちはみな声を失っていた。
若き日の牧もまたその光景に肝を潰していた。
馬乗りの才能とは結局、根本的には恵まれているか、そうでないかでしかない。
デビュー以来、周囲やマスコミが自分のことをいくら天才だ鬼才だと賞賛しても牧は知っていた。自分がただの凡人であることを。
だからこそ誰も見ていない場所で人知れず他人の数倍も努力を重ねてきた。
 “その男”との日々は、どれほどの月日が経とうとも色あせることはない。
『おい、牧。見せ鞭っちゅうのは……こうして…こう!』
 数え切れない言葉を交わし、
『やったな、おたがい初勝利だ。俺たちの伝説のはじまりだぜ!』
 たがいの拳を突き合わせて喜び合い、
『……ダービーが獲りてぇ……俺ぁ、ダービーを勝ちてぇんだよぉ…』
 人知れず涙を流しあった。
 ふたりの伝説は続いていた。
あの、死神の鎌が振り下ろされた豪雨の日まで。
 傷だらけの戦友は激しい雨が降りそそぐ中、暗雲たれこめた空に向かって悲痛の叫びを放った。
『……ジャム、ジャムシードォォォォォォォォォオオオ、雄雄おおぉあああおおおぉぉ!!!!!』
 

2007/07/22 23:19 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ④
 
 
 
 
 
                                            4
 


「舜クン?」
 高級外車リンカーンの後部座席。
並んで座る二人のうち、花模様の染め抜かれたあでやかな赤い和服を身にまとった若い娘が隣に座るスーツ姿の青年に問い掛ける。
 車は昼下がりの湾岸高速道路を悠然と走り抜けていた。
「舜クン」
 青年は無言のまま窓の外に目を向けていた。
 ウェーヴがかった柔らかい茶色の髪は長く、ひどく女性的なつやをもつ。正面で大きくわけた髪の間からは、やや童顔の、それでいて異性にもてはやされそうな鼻筋の高い秀麗な顔がのぞいていた。
 男は一昨年のJRA騎手新人賞、関西・栗東トレセン所属の神薙舜(かんなぎ しゅん)である。
 その腕前はマスコミをして『次代の天才』と呼ばれるほどで、すでに全国リーディング5位に名を連ねる名手だ。
 競馬サークル内では関西の名伯楽・神薙啓の長男として知られており、白井の競馬学校時代から20年に1人の逸材として騒がれていた大器だ。
 窓外を茫洋とみていた男の口元は何かつぶやいていた。
「は……いま呼びましたか、お嬢様」
「『いま呼びましたか、お嬢様』じゃなくてよ。もぉ」
 急に我にかえったようにふりむくと、女の指がその頬に音もなく触れた。
「いったい何に気を取られていたの?」
 二条院しづかは幼女のように頬をふくらませ、シュンという男を上目遣いににらみつけた。
「昔のことを思い出していて……申し訳ありません」
「……そう」
 強い光を放っていた女の瞳が、ふっと和らいだ。
 しづかは小さなため息をついて男の肩に顔を預けた。
甘い髪の匂いが舜の鼻に香ってくる。
「たまに舜クン、今みたいに遠くへ行ってしまうの。わたしに魅力がないってこと? 許せないわ」
しづかは不服そうにつぶやいた。
「いえ、お嬢様。そんなことはけっして……」
 固い着物ごしながら左腕に伝わってくる豊満な胸の感触に、舜は声をうわずらせた。
「うふ、いいわ。許してあげる。だって今日はお父様からわたし達へのプレゼントを受け取りに来たんだから。先日アメリカから着いたばかりで、ひとまず長門調教師のところに預けてるっていうけど、ほんとうにひさしぶりに会うの」
 しづかは子供っぽい笑顔で目を細めた。
 雪のように美しい肌と、思わずはっとしてしまいそうな潤んだ黒い瞳の持ち主である。その左目の目尻には涙の形をした変わったほくろが2つあり、白い肌に何ともなまめかしい。
 着物の袖から見える手足や首は枝のように細いが、必要な場所には適度なふくよかさが現われていた。
一目みただけで忘れられないほどに整った容姿、と言える。
競馬の花形をつとめるジョッキーとはいえど、舜は競馬学校を卒業してまだ2年しか経っていない若者だ。
この令嬢と行動を共にしている時間はつねにそわそわしていた。
 彼女と近しい関係になったのは、去年の秋の天皇賞を彼女の父親の所有する馬で制したのがきっかけで、祝勝会に招かれた舜にしづかが一目惚れしたのだ。
 最初は有力オーナーの娘ということで無下にすることもできず対応していたのだが、最近では既成事実をつくられそうな勢いである。
 そんな彼女が今日、わざわざ地元の関西から自家用小型ジェットと車付きで舜をデートに連れ出したのには大きな理由があった。
「うふふ、絶対に喜んでもらえるはずよ。わたしとお父様がね、舜クンを必ず世界一のジョッキーにしてみせるの」
「はあ……」
 歯切れの悪い笑みをみせ、舜はインターを下りていく車の外にふたたび目を移した。
 
 
 
 
 厩舎の前に停まった大きな馬運車の分厚い後ろ扉がゆっくりと開かれ、地面へと斜めに架かるスロープになってピタリと止まった。
 犬介、熊五郎、楓、翔太、そして小次郎。
輸送業者の厩務員が引き手をもって、軽い身のこなしで馬運車のなかに入っていく。
「よーし、よしよし」
 興奮しているらしい馬をなだめる声が奥からして、蹄が金属の壁をたたく音が鳴る。
「二冠馬……二冠馬……!」
 楓は両手の指をからめ合わせて先ほどから呪文のように唱えていた。
 重い蹄の音とともにヌッと巨大な黒鹿毛があらわれる。
体重は500キロ台後半はあるだろうか。ワイルドなたてがみに筋肉が膨れ上がったその姿は想像をはるかに越える迫力だった。
「わぁ―っ、すごい!」
 思わず楓が声をもらすと厩舎随一のキャリアを誇る厩務員歴40年の熊五郎も目を丸くしていた。
 腕組みしている小次郎が説明っぽく口を開く。
「そいつはリーサルウエポン。父親はタヤスツヨシ。おととしの道営・赤れんが記念で2着に入った強豪だ。牡の9歳」
「え? きゅ―さぃ?」
 大地を揺るがす迫力で地面に降りたったリーサルウエポンは長旅の疲労など微塵も感じさせない力強い足取りで、厩務員からそのまま引き手をバトンタッチした犬介の輪の動きに従った。
「一度中央で走らせてみたいっていうオーナーの意向でな。年は食ってるがまだまだやれるし、夏の福島戦から使う予定だ」
「それじゃあ、秋には重賞戦線を賑わしてくれるかもしれんのぅ。楽しみじゃ」
「リーサルウエポンは熊ちゃん、頼む。これからうちの看板馬だからな」
「まかしといてくだされ、ホッホッホ」
 見かけにそぐわない太い腕に力こぶをつくって熊五郎はニッと茶ばんだ歯をみせた。
「でもって今日もう1頭入厩するのが、牡2歳のアカネツバサオー」
「アカネツバサオー……」
 午後の強い日差しのせいで馬運車の奥は暗がりになっている。
 その姿は確認できなかったが、楓は『翼王』という名を口のなかで反芻しながらじっと目を凝らした。
「ソレ!ソレ!」
 厩務員の気合が聞こえる。
嫌がっているのか、難しいところがあるのか、うまく従っていないようだった。
「しゃ―ねぇな……」
 舌打ちしてつぶやいた小次郎が一足飛びに馬運車に乗り込んでいく。
少しして「ブヒッ!」という声が聞こえ、一同の待ちかねた馬が小次郎に引かれて出てきた。
 カポッ、カポッという蹄の音はプラスチックのお椀の音のように軽い。
一同がその栗毛馬を見てまず感じたのはその小ささだった。リーサルウエポンの巨体に驚いた直後なこともあり、まったく同じ種族とは思えないほど小さく感じる。
ツバサオーは顔の半分くらいもある大きな白い『流星』の模様に、四本の脚それぞれにソックスを履いたような『四白』だった。存在の小ささとは正反対に派手さばかりが目に付く馬である。
馬運車の中でのわがままが過ぎて小次郎に殴られたらしく、両目を潤ませた半泣き状態でツバサオーはショボンとしていた。
 ほれ、と引き手を預けられた楓は狼狽した。
「めっちゃ、小さいですね……」
 思わずそう翔太が口にすると全員が相槌をうった。
 多く見積もっても400キロに届くかどうかという馬体はこれといった筋肉もついておらず、すでに道営の新馬戦を走ったというのがにわかに信じられない。
「ま、見てのとおり見栄えのしないやつだけどよ。こいつもオーナーの希望で今回、中央で走らせることになった。先に言っとくが、馬は走らせてみないとわからない生き物だから先入観を取っ払ってしっかりやれよ」
「はい……あの、血統って一応聞いといていいですか? この仔の父親で二冠馬って」
「栗毛の二冠馬っていったらアイツしかいねぇだろ」
 楓の頭に二冠馬のデータが思い浮かべられる。
 最近の馬でいえばメイショウサムソン、ネオユニヴァース、タニノギムレット、キングカメハメハ、サニーブライアン、古ければトウカイテイオー……
 でも栗毛…栗毛、……栗毛!? ああああっ!!
「ミ、ミホノブル、ぼ、ん! ヒャアーッ!!」
 口に出した瞬間、まったく無防備だったお尻を下からスライドぎみに撫であげられて思わず楓はのけぞった。
手練を思わせるセクハラ技術に、全身におぞけが走った。
 が、振り返ってもそこには誰もいない。
「誰……?」
 しんとした周囲を見回す。が、やはり後ろには誰もいない。
 ツバサオーが小さく鼻を鳴らす。まさかと思いながら楓はその顔をじっと見た。
 視線をもらった小柄な馬はバツが悪そうに目を逸らした。
「……!?」
 まさかと思ってあらためてジッと視線を押し当ててみると、栗毛は両目をつむってわざとらしく口笛をふく真似をした。
 こいつ……。
「ブヒ、ヒヒヒーッ!!!」
 ゴン、という鈍い音とともに小中高と10年間、琉球空手をつづけてきた楓の正拳突きがまともに眉間にヒットして、ツバサオーは後肢をピョンピョン跳ね上げて悲鳴をあげた。
「きついのもう一発、ほしい?」
 引き手を束ねて持ち、右手でグーをつくってみせる。
 急速に青ざめたツバサオーは恐怖のあまり大きく首をふった。引き手から伝わる負のオーラが新しい厩務員の恐ろしさをダイレクトに物語っていた。
「変な馬っスね」
 独り言のような犬介の言葉に小次郎が反応する。
「ああ。ありゃ、とんでもない癖馬でな。人間も馬もメスと見たらとにかく発情しちまうんだな。だから楓はいい教育係になると思うんだが」
「なるほど……逆に女にシメられりゃ、たしかに大人しくなるかもしれない」
「だろ?」
 小次郎が笑うと犬介はニコリともせずに腕を組み直して、軽いため息をついた。

2007/07/13 17:29 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ③






                                                        3

 

 
「小次郎先生にあんなビッグな知り合いがいるなんて、知らなかった」
 バイクで一足先に帰った小次郎とは別に厩舎への道すがら、原付を押していた楓が言う。その隣にはあいかわらず両手をポケットに突っ込んだ犬介と安物のママチャリに乗った翔太がいる。
「おまえは知らなさすぎんだ。あの人はなぁ……ま、いっか」
「なによ、少しくらい付き合いが長いからって。教えてくれていてもいいじゃん」
「小次郎先生って元々は関西所属のジョッキーだったんですよね?」
 翔太の質問に、犬介は「ああ」と答える。
「今度しらべてみよ―っと。でも先生は牧さんと同い年だから、あの年齢で厩舎をもっていること自体が凄い事じゃないですか! 僕も将来は調教師をめざす者としてがんばらないとだぁ」
 “競走馬優先”と書かれた標識と背の高い木々の立った角を曲がり、見慣れた若月厩舎が見えてくる。
等間隔に並んだ馬房から顔を出した馬たちがこちらに気がつく。
楓たちを見つけて首を上下にふっていた1頭の馬が、短くいなないた。
 
 
 厩舎の朝は早い。
 調教コースの開門は5時。1000頭を超すサラブレッドと厩務員や調教助手がいっせいに入り乱れるわけではないが時間帯によってはかなり混雑をする。
「おつかれさん!」
 数頭の馬とすれ違いながら、坂路調教コースから戻ってきた犬介の跨る黒鹿毛の無口頭絡に引き手と呼ばれる金属製の止め具がついた縄紐をつけると、楓はその太い首筋を二度ほど大きくたたいて馬をねぎらった。
 息を荒くした馬はブフーと体にたまった空気を大きな鼻穴から吐きだした。
 馬は鼻から息をしているので、運動の後はとくに鼻息が荒い。
走る馬は鼻の穴が大きいというのは、体内に取り込む酸素量が多くなると同時に余分な二酸化炭素をより効率的に体外へと排出する機能が優れているためである。
猫科の動物を思わせるしなやかな身のこなしで下馬した犬介は、そのまますぐにスタンバイしていた翔太の引いてきた馬に乗り移った。
「オオノトレジャー、さっきも言ったがこいつは軽めのキャンターで一本目は流す。二本目は全体にやや強め、終いは13で行ってくれ」
 終い13というのは最後の1ハロン(約200m)を13秒の走破時計でまとめてくれという意味である。
 黒いキャップをかぶった小次郎は言いながら馬の四肢を目視、蹄鉄などの異常がないかを確かめた。
 2頭の馬がじゃれ合おうとするのを引き離して楓は黒鹿毛を別の場所へ引いていった。
 楓の仕事はここからである。
 馬を厩舎に連れて帰りそこで引き続き“引き馬”を行う。
若月厩舎ではコースでの調教の後には必ず1時間の引き馬をして馬をクールダウンさせる決まりとなっており、これが地味ながらキツイ。
なにせ馬にしてみればクールダウンだが付き合う人間にとってはクールどころではない。
 引き馬はただ馬を引っ張っていればいいのではなく決められた姿勢と速度で人間が馬を引っぱることではじめて成立する、れっきとした調教だ。
メンタルトレーニングとしての恩恵も高く、最近では長時間の引き馬は決して珍しいことではない。
調教用のゼッケンにはこの黒鹿毛の名前である『プリシア』という印刷がされている。
その下っ腹には汗がしずくとなって流れ落ちていたが、この後でシャワーで洗い流すためとくに何もしない。
馬の顔の真横に立ち、キビキビと引く姿はなかなか様になっていた。
「楓ちゃん、おはよう」
「おはようございま―っす」
「きょうは暖かくなりそうだね」
「おはよう」
 厩舎のそばで引き馬していると近所の顔ぶれに何度も顔を合わせるものである。赴任してからもう丸1年にもなるので周辺に顔見知りは多い。
中には挨拶をしても返さないような人間もいるが、それはほんの一部のこと。
総じてトレセンの人間は人懐っこくて親切だ。
 引き馬を終え、プリシアを洗い場につないでシャワーを当てていると、
「楓~っ!」
「あ、鏡子さん……また昨夜飲んでたの!?」
調教コースの方から帰ってきたらしい、芦毛の馬にまたがった美女が大きく手を振っていた。
関東騎手リーディング8位の遠野鏡子もまた三軒隣の大友宗人厩舎に所属するご近所さんである。
「ダハ~、なんでバレてるの」
 調教焼けした小麦色の肌にたっぷりとした長い黒髪。切れ上ったその瞳は力強く輝き、見るものを惹きつけた。
 上半身は萌黄色のポロシャツに下半身は黒のキュロットと皮製の長靴というごくありがちな騎乗衣だが、身長も160そこそこあって小顔でほっそりしたタイプなので非常に見栄えする。
 今年で26歳になるが楓にとって姉のような存在であり、尊敬するホースマンの一人だ。
「……でさ、今週はあんた競馬場に行くの?」
「はい。まぁ……また午前様ですけど」
 競馬に出走する馬に帯同していくが、午前中にレースを終えて帰るということだ。
この時期は午前中にはまだ一度もレースを勝っていない最下級クラスの馬たちが出走する未勝利戦しか番組がない。
「ねぇ、その仔は? はじめて見ますね」
 くりっとした黒瞳をした芦毛のメス馬だった。
運動の後なのでその体からは熱気がたっているが、表情は凛然としていてなかなかに落ち着きがある。
「チャチャヒメ、ってんだけどさ。大友厩舎に昔いたラインカールトン(GⅡ毎日王冠の勝ち馬)の妹だよ。上とは馬主が変わってだいぶフザケた名前になったわ」
 笑いながら言うと後ろ手に馬の大きな尻をポンとたたく。
 当の馬は人間の会話など、どこ吹く風といった佇まいだった。
 芦毛はもともと白いわけではなく、体の成長にともなって徐々に白い毛の量がふえていく。なので生まれた当初は真っ黒なんてことはざらにあるのだが、チャチャヒメは未出走ながらすでに3歳の春なので、どちらかといえば黒っぽい灰色に近かった。
「重賞勝ち馬の妹かあ、いいなぁ、あたしもそんな仔の面倒みてみたい!」
「アハハハ、コジコジの厩舎にいるうちは難しいかな。雑草血統が大集合だもんねぇ」
「こないだもオグリキャップの仔でGⅠ勝ったって、ゲームで子供みたいに喜んでました」
 はあぁ、というため息をもらす。
「大馬主を相手に営業トークって柄じゃないもんね。関係者エリアで大喧嘩したことならあるけど」
「そうなんです。やっぱりビジネスなんだから意地張ってても仕方ないと思うんですけど。若い先生たちも、後ろ盾がない人たちはペコペコしてるじゃないですか」
「うん、ま、あの人は昔っからあの気性だから」
 微妙な感情を含んだ鏡子の言葉は、まじめに悩む楓には聞こえていないようだった。
「ん~? 誰が美浦で最もかっこよく、キュートでセクシーな調教師だって!?」
 わざわざそう言い放って歩いてきたのは噂話の人物だった。
 細めのグラサンをかけた小次郎はコンビニ袋を片手に肉まんを豪快にほおばっていた。
「よう、鏡子。ほに¥?=:~#“!~@」
「コジコジ、しゃべる前にとりあえずそれ、飲み込もう」
 紙パックの緑茶をグイッと飲む。
「いやぁ、やっぱ調教後の肉まんとお茶は最高だぜ。おまえらも食う?」
 あなたは言うほど動いてないでしょ、という2人の目線ツッコミに小次郎が気づく様子はない。
「んむ?」
 小次郎はチャチャヒメに興味深げな視線を送ると、おもむろに馬体に触れた。
筋肉の質や太さをたしかめるように肩から膝下、尾端のあたりからヨロ、飛節と手を当てていく。チャチャヒメは嫌がることもなく、ときおり尻尾を鞭のように振った。
「こいつぁ……」
 高い鼻筋からずれ落ちたサングラスの下から小次郎の眼が鏡子を見上げた。
 ドキッとした鏡子の頬がみるみる赤みを帯びる。
「こ、この仔は未出走だけど、大友厩舎の期待馬だよ。チャチャヒメっていうの。来週の福島でデビューすんのよ」
「そうか……でも今の状態で出走したら惨敗するな。やめとけ」
「えっ」
 鏡子はさっと表情を曇らせた。
 ずれたサングラスを人さし指で直し、小次郎は紙袋から肉まんを取り出す。
「ふひろふもぉ」
「先生、口が」
 ふたたび緑茶で流し込む。
「……左のトモにだいぶ疲れが溜まってる。たぶん蹄鉄が合ってないんだな。早いとこ打ち直したほうがいい。このまま競馬に使ったらそのまま放牧せにゃならなくなるぜ」
 顔色を変えて言葉をなくした鏡子があわてて下馬する。
 気を利かせた楓が手綱をもち、クイと引っ張るとチャチャヒメは四肢の姿勢をなおした。
「ほんとだ。今日初めて乗ったからこんな感じなのかって思ったけど」
 左のトモ全体を押したり感触をたしかめて鏡子は納得したようだった。
「大友調教師に言う。こんなの、アタシが気が付くべきなのに…」
 鏡子は落胆の色を隠せずに肩を落とした。
「まあ、普通は厩務員が最初に気づくべきとこだ。無理にでも出走させる気なら言わねぇだろうけど」
 若月厩舎では毎朝、毎晩と小次郎が一頭一頭の馬体をチェックする。それに倣って犬介も30分ほど早く出勤して全馬をチェックするのが習慣になっていた。
むろん厩務員たちも担当馬を中心に毎日、朝昼晩と確認を欠かさない。
 おかげで開業以来、小次郎の厩舎から予後不良(安楽死)におよぶほどの大事故は起きてなかった。
「気が付かなかったのはアタシの責任だよ。こんなことしてられない、戻らないと」
「だから、オマエはすぐそう……自分を責めるのはな…」
 鏡子を諭す小次郎の姿を横で見ていて、楓はまるで兄妹のようだと思った。
確かにトレセンでは鼻つまみ者扱いの小次郎にとって数少ない友人の1人である。
だが楓が知るかぎり、その少ない友人達は皆一様に小次郎のことを強く慕っているようだった。
厩舎番頭の熊五郎や、犬介などもそうだが、彼らの信頼関係はあきらかにビジネスの枠を超えている。
小次郎に知り合ってから1年そこいらの自分はまだそこまで思えないだけに、どこかしら羨ましさがあった。
「じゃあね…」
 少し無理しながら笑みをつくった鏡子は、下馬したまま馬を引いていった。
 ふと楓は素朴な疑問を小次郎にぶつけてみたくなった。
「先生、どうしてさっきあんな簡単に馬の故障がわかったんですか」
 そう言われると、肉まんの生地がくっついた指先をなめながら、小次郎はウームと唸った。
「……脚だ、脚」
「へ?」
「遠くからおまえらを見つけてから、不自然にあの馬が何回か同じ脚を地面から持ち上げてたんだ。気になっているか、もしくは悪いもの抱えている可能性があるってことだ。そんくらいは一応疑わないとな。プロとして」
「はぁ……勉強になります」
「他人事じゃないぞ。つか、プリシアに水かけたままじゃねぇか! 早く拭かないと風邪引いちまうだろ!」
「ああ――っ! すいませんっ!」
 すっかり忘れていた。プリシアはずぶ濡れの状態で、「早ク拭イテ……」と言いたげな顔をしていた。
 金属の水こきを動かす手を早めながら楓は馬に何度もあやまった。
「楓」
「はい、はい?」
「3時に馬運車が来る。地方のホッカイドウ競馬から2頭ばかし転入してくるから、そのうちの1頭はおまえに面倒みてもらうことにした」
「へ???」
 たまたまではあったが、楓の担当だった馬が先週から長期の放牧に出されていた。
「わかりました。どんな仔が来るんですか」
「おまえに任すのは2歳だ。向こうですでに出走してるが、まだ未勝利だ。しかしダービー候補になるかもしれねぇぞ」
 洗い場の手すりにもたれかかった小次郎の口元がニヤリと歪む。
 そのくらいの気持ちでやれということだと頭の中で楓は解釈した。
「なんせ、クラシック二冠馬の息子だからな」
「ええぇぇぇぇええええ――っっっ!!!!!」
 厚手のタオルにくるまれるようになっていたプリシアのふたつの耳が蓋をするようにパタッと倒れる。
「先生、なんかドキドキしてきました」
「ま、大きなチャンスだと思って精進しろよ」
「はい!! はいはいはーい、はい、はい、はい!!!!」
「ハイは一度でいい……」

2007/07/04 18:21 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ②






                           2
 
 
 


 美浦トレセンの調教コースはいつもならもう人の少ない昼だというのに、今日は多くの厩舎関係者とマスコミの姿があった。
 その数は優に50人を超し、撮影に訪れたテレビカメラも3台ほど見られる。
 ここ数日の晴天続きですっかり乾燥したウッドチップコースには、すでに20頭ほどのサラブレッドたちが騎乗者を背に足慣らしをしていた。すべての馬のメンコ(覆面)や肢巻きは青で統一され、また騎乗者も青を基調としたネオブラッド・ジャパンのチームジャケットを身につけていた。
 コース上にいるのはすべて今年デビューする2歳馬たちだが、その体つきはデビュー前の若駒とは思えないほどに大きく逞しい。
 恐らく半数以上が馬体重500キロオーバーだろう。
 各馬、全身にまとった筋肉の鎧に強靭な力がみなぎり、ただならぬ空気をまとっている。
「鷹司代表。世界的な良血馬をおしみなく投入してきた今年のラインナップにネオブラッド・ジャパン社の意気込みを感じますが、ぜひ来年の目標をお聞かせください」
 コース外にできた人垣の中心で、黒いスーツに身を包んだ大柄な中年男がインタビューのマイクを向けられていた。
 短く刈られた頭髪に貫禄のある顎ひげを生やした、彫りの深い顔立ちをした男。
 年齢はおよそ50歳前後か。穏やかな表情ながらその眼光は鋭かった。
「目標ですか」 
 眉間に刻まれた深い縦じわが言葉を話すたびに生き物のように動くのは、この鷹司忍という男の気質をあらわしているといえるだろう。
 20代半ばでアラブの王族シェイク・マハム・アシドに見出され、当時は一介の競馬留学生にすぎなかった青年が以来30年近く、それまでの人生と同じぐらいの年月を世界規模の生産・育成・競走に携わってきた。
 その経験は凡人には計り知れないものがあるに違いない。
 鷹司は会社法人ネオブラッド・ジャパンの代表であると同時に、UAEドバイ首長国連邦の王族が運営し欧米で旋風を巻き起こしている競馬法人『エクリプス』の東洋エリア統括マネジメントリーダーである。
 彼の周囲には同じように黒いスーツに身を包んだアメリカ、フランス、香港、アラビア系といった数人の人物がインタビューを受けていた。彼らもまたネオブラッド・ジャパンのレーシングスタッフである。
 鷹司は言葉を選びながら、それでいて力強い口調で同社の描く戦略構想を述べた。
「われわれの当面の目標は“日本ダービーとジャパンカップの両レースを制覇すること”です。これまでも海外から参戦した、わたくし共のいわゆる『外国馬』がJCを勝つことはありましたが、今後は日本国内で生産したサラブレッドを中心にデビューから引退にいたるまでのマネジメントを行っていく方針で活動して参ります。
 ご存知のとおり、すでに北海道・日高の門別地区を拠点として広大な牧場施設を開設しており、海外から大物種牡馬や繁殖牝馬の導入をおこなっております。この活動がこれから年月を重ねて日本、ひいては東アジア地域から全世界に至るまでの競馬振興に多大なる貢献を産むことを信じてやみません。これからもなにとぞよろしく、ご指導のほどをお願いいたします」
 その後、鷹司に対する記者たちのいくつかの質問が終わると、20頭の競走馬たちが5頭4組の縦列隊形を組んで一斉にコースを駆けはじめた。
 見事に調教された馬たちは一糸乱れぬ正確さを維持しつつ、やがて徐々にスピードをあげていった。
 まるで高級バレエ団の演技を思わせる華麗かつ優美な動きである。
 3コーナーを曲がると、おのおのが3、4頭ずつの併せ馬となった。
 線を引くような流れる動きで4コーナーからホームストレッチ(直線)へ向かって来る。
 鞍上の指示に従ってスピードをトップギアに入れた競走馬たちが重量感のある蹄音を響かせ、空気を引き裂いて、つぎつぎと人々の前を駆け抜けていく。
 厩舎関係者の間には大きなざわめきが立っていた。
「……こいつら全員、見学に来たのは失敗だな」
 クックック、と低い笑いをもらした男はコースの囲いである白いラチにもたれながら常足で戻ってくるサラブレッド達を見送った。
 その目線は濃いサングラスに隠されて定かではないが、不敵な内心が口元にあらわれていた。
 光沢のある黒銀のスカジャンに革のパンツを穿いた男は身長が170センチ以上あり、競馬関係の人間にしては長身である。クセのない長い黒髪を肩の下までワイルドに垂らした風貌もこの業界にはめずらしい。
「小次郎先生、それじゃまるで他人事ッス」
 隣に並んで立っていた、男よりも頭半分くらいの身長の低い浅黒肌の青年が言った。
 刈り込んだ坊主頭に太く吊りあがった眉。
 その眼には見る者を圧する迫力がある。
 鍛え上げられた逞しい身体にぴったりとした黒いTシャツを着ていて、胸元には金のチェーンネックレスをしておりその下は黒ズボン、光沢のある革靴をはいている。
 両手をポケットに突っ込んだふてぶてしい姿で立つ青年はデビュー2年目の若手騎手、依田犬介である。
 彼ら2人の周りには当然のように人がいない。関係者、マスコミも誰一人として声をかけようとはしないが、それはいつものことだった。
「これも時代の流れだ、仕方ねぇ。それにワリを食うのは有力どころの大厩舎の連中だから弱小勢力の俺たちにはやっぱ関係ないんじゃねぇ?」
 そう言うと尻ポケットからマルボロと青い100円ライターを出し、おもむろに点火する。
 小次郎は視線を人だかりの向こうにやりながら、大きく煙を吐いた。
「あ―っ! また煙草吸ってる! コースは禁煙だって言われてるじゃないですか!」
「チッ、うるせぇのが来たな」
 後ろから大声で駆け寄ってきた厩舎の部下、木下楓に火をつけたばかりの煙草を奪われる。
「あのなぁ楓、調教つけてる馬の背中でスパスパ吸ってるヤツだっているんだから固いこと言うんじゃねぇ」
「そういうマナーの悪い人がいることと、先生が吸っていいかは別問題です!」
 きっぱりと言い捨てて楓は手に持っていた空き缶に煙草をいれた。
「あああっ、もう終わってる!(ガーン…)」
 引き返して行く馬たちの尻を見送って翔太が頭を抱えた。
「やだね……嫌煙家は心がせまくて」
 ラチに背中をもたれ、小声でついた悪態は楓の耳には届かなかった。
 なぜなら、その目線はすでに人だかりの向こう側からこちらに近づいてきた一人の人物に注がれていたからだった。
 小次郎の右の眉が跳ね上がる。
「牧……」
 その人物は柔和な微笑みを浮かべ、小次郎に向かって片手をあげてみせた。
「ひさしぶり。元気そやな?」
 その精悍かつ端正な顔立ちはお茶の間に親しまれて久しい。
 もはや日本が世界に誇る名手、JRA通算2000勝ジョッキーの牧昇二その人だった。
 今年32歳になるが騎手としてはまさに今が花盛りである。その表情には覇気が溢れていた。
 有名人の突然の登場に楓は絶句した。これまで遠くから見る機会は何度かあっても直接、話をする距離にまで近づいたためしはない。
 イタリア高級ブランドの紺色のスーツに白い開襟シャツといったラフな格好にはうっすらとダンヒルの香水が漂っていた。
 心拍数が一気に高くなった楓に対して、来訪をうけた当の小次郎に歓迎の意思はあまりないようだった。
 黒眼鏡ごしにジトーッとした目で見て、咳払いをする。
「押しも押されぬ天才ジョッキーにしてアイドル妻の亭主が、こんなうらぶれた三流トレーナーに何か用かね?」
「いやいや、おまえの厩舎にオレの乗る馬がいてるとは思てへんよ」
 爽やかな顔でそう言うと牧はニッと笑った。
「オークス(優駿牝馬)に出るお手馬の追い切りに来たついでに、鷹司さんトコの有力な新馬を物色しにな☆」
「……あいかわらずだな。牧昇二がいるおかげで若手がチャンスを掴めないなんて言われるご時世だぜ。黙っていたって騎乗依頼なんざ来るだろ」
 あきれた様子で小次郎は言った。
 毎年のように最多勝利騎手・騎手大賞を獲りつづける超人的ジョッキーは左右の目じりに笑いじわを作って、
「アハ。おれもな、必死やねん」
 と言った。
「そら関西にも若くて名前を売ってるやつらはおる。西郷、吉川に一去年の新人賞をとった榊銀河、あとは神薙厩舎の舜坊なんかな。いずれおれもアイツらにお株を奪われる時代が来る。のんきにチャンスなんか与えてる場合とちゃうよ」
「ふ~ん。ま、ウチにとっては雲の上の世界の……大気圏の話だな」
 若月小次郎厩舎は去年の1年間でわずか4勝しか勝ち星のない零細厩舎である。開業してからの3年間の合計でも10勝とほとんど日陰の存在なのだ。
 おまけに所属している競走馬もほとんどが1勝クラスか未勝利の馬ばかりで、小規模とはいえ厩舎経営はけっして楽なほうではない。
 ふと何気ない牧の目線が犬介の方へと向いた。
「おうキミ、知っとるで。去年デビューしたアンチャン(新人騎手)で依田犬介くんやろ?」
 あまり感情を表に出さない表情で、ええ、と控えめに犬介は答えた。
「荒っぽい騎乗スタイルなんて言われているらしいけど、オレはそうは思うてへん。海外にいったらレース中に鞭でばっちばちシバかれるなんて当たり前やし。ま、大きな事故にでもなったらその時は知らんけど……」
 穏やかな口調で言う牧の瞳の奥に一瞬、剣呑とした光が浮かび、犬介は背筋に強い悪寒をおぼえた。
 だがそれも一瞬のことで次の瞬間には、その口元にまた柔和な笑みがこぼれていた。
「で、こっちのカワイ子ちゃんは?」
 突然、話を自分の方に向けられた楓は言葉を失って、しどろもどろになった。
「こいつは去年からうちで厩務員やってる、キノシタ・カエデ」
 と、小次郎が言うと牧は口の端を上げた。
「そうかぁ。最近は女厩務員も多くなって、ええ時代やなぁ。どや、オレのバレットやらへん?」
 バレットとはレース当日の騎手の仕事を手伝う助手のことである。
 楓は両手を顔の前でブンブン振った。
「ええ――っ!! む、無理です!!」
「はは、残念やなぁ」
「す、すいません」
「冗談に決まってんだろ……」
 小次郎が横でぼそっと言う。
「ふむ。世界の牧くんから見て今日の2歳馬たちはどうだね?」
 そう尋ねられると困ったように牧は頭を掻いた。
 少しして、
「――実際に乗ってみないとわからんけど、二番手グループにいた流星の鹿毛。あれは強い。大っきいトコは間違いないな」といった。
「お、あの地味ながら目立ってたやつか」
「柔らかくて、バネがあって、眼に止まる。利口そうやったしな。ああいうのはたいがい距離もつし、好きやなぁ」
 そう言いかけたところで牧は遠くから若い騎手風の青年に呼ばれて振り向き、
「ああ、いま行く!」
 と返事をした。
「それじゃあオレ、これから鷹司さんと食事会やから☆」
 そういい残すと牧は颯爽と人だかりの方へと立ち去っていった。

2007/06/29 20:33 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
1章  若月小次郎 1 - ①
 


 

       第1章             若月小次郎







                           1
 
 
 
 時間は遡る。
 ちょうど一年前。
 
 茨城県美浦村にあるJRA競走馬トレーニングセンター、通称『トレセン』。
 JRA(日本中央競馬会)に所属する競走馬のおおむね半数が、関東所属の競走馬として登録されこの美浦トレセン内の厩舎村で繋養されている。
 その名のとおりトレセンにはさまざまなトレーニングに対応した専用コースが設けられている。
 実戦と同じ芝生のコース(1800m)に始まり、海砂を敷き詰めたのダートコース(2000m、1370m)、脚への負担を軽減するウッドチップコース(1600m)、高低差18mの坂路コース(1200m)、調教用プール、木々と緑に囲まれ馬をリラックスさせる逍遥馬道、障害練習用馬場などがある。
 それら最新鋭の施設を活用してサラブレッド達は、日の出から各コースで調教助手や現役騎手を背に明日の優駿を目指して土を跳ね上げ、力強く疾走しているのである。
 
 
 
 午後の穏やかな日差しが横長の形をした厩舎の屋根に差しておろして、地面に影を落としている。
 その軒先で竹ぼうきを手にした小柄な娘はのんびりとしたテンポで腕を動かしていた。
 量の多い茶色の巻き毛に若草色のキャップを被り、上はピンクのポロシャツ、下は色落ちしたデニムを穿いている。
 深みのある黒い瞳が、真っ青な空を見上げる。
 厩舎村のはるか上空を翼を広げた1機の旅客機が通り過ぎようとしていた。
 娘は長い睫毛を2、3度しばたかせ、ふたたび何か思索を巡らすように視線を地上に落として黙々と作業を続けた。
 娘の名前は木下 楓。
 今年の4月で厩務員生活2年目になった新米である。
 厩舎ではすでに昼の飼いつけ(エサ)が終わり、10余りの馬房の馬たちは思い思いにくつろいでいた。
 馬栓棒の上から顔を出しているもの。
 食い終わった自分の飼い桶を名残惜しそうになめているもの。
 馬房内の壁にもたれるように立っているもの。
 何故か落ち着かずに狭い馬房内を歩き回っているものもいる。
「楓さんや」
 どこからか名前を呼ばれ、手を止めて見回すとまた声がした。
「ここじゃよ、ここ」
 厩舎の東側にある居室のドアが開いており、そこから見慣れた初老の男がひょっこり顔を出していた。
 ベテラン厩務員、南熊五郎である。
 年齢は楓よりも30歳近く上の大ベテランで、頭髪はとっくに真っ白になっている。
 顔の下半分にはたっぷり口ひげを蓄えており、それは昭和のナイスミドルを自称する熊五郎のトレードマークでもある。また、銀縁の眼鏡を長年愛用しており、その向こうには常に目尻の下がっている眼があった。
「どうしたの」
 そう言ってから楓は思い出した。
 今日の昼は熊五郎が炊事当番なのだ。
「すまんが、飯の用意がそろそろできるからテキを呼んできてくれんかの」
「はぁい。先生って今どこだっけ」
 ここでいう“テキ(調教師)”、“先生”とは彼らの所属する厩舎、若月小次郎厩舎の主こと若月小次郎調教師その人を指している。
「犬介と一緒にウッド(南D)コースに行っているはずじゃ。今日は例のお披露目会があるとか言ってたからのぉ」
「例のって」
「ほほう、知らんのか。今マスコミで大変な話題になっているウン億円馬軍団じゃよ」
「へえ……ぅんオク、うん億ぅ?」
「あ―っ! 知ってます、それ、それ!」
 手前の馬房から大きな声がして、汚れた白いキャップをかぶった若い厩務員が顔を出す。
 青年は、今年から配属された新人厩務員、中原翔太。競馬学校の厩務員課程では楓の一年後輩にあたる。
 翔太は全体的に子供っぽさを残した幼い顔立ちに無邪気な笑みを浮かべていた。
 調教師一家の末息子とあって翔太は馬の扱いが抜群に上手い。
 サラブレッドや競馬の知識も豊富で、海外にも詳しく、こと馬に関しては優等生を地でいくキャラクターである。
ただそのような業界内の環境で生まれ育ったためなのか、ときたま競馬について素人を小馬鹿にした発言をすることがあり、馬社会とはなんの縁もなかったド素人出身の楓には腹の立つことがあったりする。
しかし生来の明るさと、間違っていると思ったことには目上だろうが容赦なくはっきり言い、また自分が間違っていたことに気がつけば素直に非を認める所から、皆から可愛がられる弟分として厩舎に定着している。
「『ネオブラッド・ジャパン』の新馬たちが昨日から一斉に入厩したんですよね。今年から中央の厩舎にも馬を置くとかで。セリに出せば1頭1億円は下らないと言われる馬たちを一挙に20頭っていうんですから、さすがドバイの王様はちがいますよねぇ~!!」
「たしか去年、公営の船橋から南関東の三冠馬を出したんだよね」
「そう、グレイシーザー。今年の帝王賞もきっとあの馬です。秋にはジャパンカップダートで中央最強の砂馬クルワライゼンとの対決がありますよ」
 瞳をきらきらさせて翔太は言った。
「でもさ」
 楓が言いづらそうに口を開く。
「その、ネオブラッドって何なの? 会社?」
「うーん、平たくいえばオーナーブリーダーのようなものですよ。自前の牧場や資金を背景にサラブレッドの競走生活を総合的にプロデュースする会社ですね。世界的な知名度でいえば、ネオブラッドの母体であるドバイのチーム『エクリプス』とアイルランドの『マックガンヘイル』が覇権を争っている形ですかね」 
 翔太にとっては平たく言ったつもりでも楓には半分も理解できなかった。
 残念、と楓は心の中でひとりごちた。
 そしてたぶんこの男もあまり分かってないであろう、熊五郎が続けて言った。
「なら2人で行ってついでに少し見学してきたらどうじゃね。名馬の卵を見るのも勉強のうちじゃ」
「やったぁ! 楓さん、原チャリの後ろ乗せてください!」
「えぇ、ダメ! こないだ見つかって怒られたばっかじゃん」
「ちぇ―っ……なら立ちこぎで行きま~す」
 ブルル、という鼻音をたてて、翔太が出てきた馬房から鹿毛の馬が顔をだしてくる。翔太の管理馬で未勝利馬のスマイルジョン(牡3、父メジロライアン)である。
「牧場の庭先取引で400万円だったおまえには関係ないんだよー」
 背中をなめようとしてきた鼻先をポンと軽く叩いて、翔太は厩舎の奥に小走りで走っていった。
「じゃ熊さん、いってくるね。遅くならないようにするから」
 にっこりと微笑む老厩務員に言う。
「おお、いっといで。気ぃつけてな」


2007/06/20 03:20 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
序章
 






   【 直線一気 】 ・・・ 競馬のレースにおいて、馬群後方のポジションをとっていた馬がゴール前の直線で豪快に他の馬を一気に抜き去る戦法。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
序章
 
 
 
 
 
どこまでも深く澄みきった空。
頂点をやや過ぎた感のある太陽は眩ゆい光を放ちながら、音もなく、静かに西側に横たわる山脈へと進路を取りつつある。
広大な草原が広がる地表に一陣の風が舞い降り、いくつもの柔らかな撫であとを残しては大海原に向かって吹き抜けていく。
太平洋の潮の匂いが香る、沿岸の丘陵地帯。
門別から遠く襟裳まで南北130キロに渡って続く北海道・日高地方には日本の競走馬を生産する牧場の約9割にあたる千軒以上の牧場が軒を連ねている。
しかし日本経済が華やかだったバブルの絶頂期、「足が四本あれば何でも売れる」と言われた活況の時代にくらべれば牧場の数は半減した。最近では後継者不足からなる人的資源の減少、折からの大不況といった逆風により厳しい生き残り競争が続いており、お世辞にも産地には活気があるとは言えない。
表向きの風景はさして変わらない平穏さを覗かせているのだが……
その日高地方の中心とされる静内。
静内は過去、多くの名馬を輩出してきた最もポピュラーな土地である。
風光明媚な町の南にある丘は、古くはアイヌの大酋長シャクシャインの最後の砦(チャシ)が築かれていた歴史の深い場所でもある。
 静内の市街地を横に流れるシベチャリ川の上流に位置する、とある小規模な家族牧場。
 ここから物語は始まる。
 
「ねぇ、お父ちゃ~ん」
 厩舎奥の馬房で作業する父親を呼ぶ幼い少年の声。
 暗く、土埃っぽい厩舎の居室ではテレビから競馬中継が流れていた。
 見たところ5、6才くらいの男の子は半ズボンによれたTシャツ、野球帽という姿で、畳間の上にあがって体育座りしていた。
 呼びかけた声に返事はなく、厩舎からは寝わらを踏みしだく音や牧草のこすれる乾いた音、馬房にいる馬が鳴らす鼻音が聞こえてくる。
「と―ちゃ―んっ」
 埃まみれのブラウン管には府中競馬場のパドック(下見所)が映っていた。
今日の東京は初夏を思わせる五月晴れである。
眩しく照りおろす日差しの下をこの日のために選ばれた18頭のサラブレッドが厩務員たちに曳かれて楕円形のパドックを粛々と周回している。
 ブラウン管に小柄な栗毛馬が映し出されて、
 
《 アカネツバサオー 380kg -4  依田 》
という字幕が映る。
 アカネツバサオーというその馬についてのパドック解説の声が聞こえてくるが、少年にはチンプンカンプンだった。
馬は少し気負っているのか、四肢の足取りが早い。
何度も前へ走り出しそうになり、その度に引き手をもった若い女性厩務員が両手で押さえ込み、その首は水鳥ように大きなカーブを描いていた。
「ヒデ坊、まだレースじゃねぇべや―っ!?」
 厩舎の奥の暗がりから、少年の父親であり霧原牧場の主である霧原弦人の声が聞こえた。
「うん、まだだよ~」
農場主らしく青いつなぎを着た霧原はあらかじめ屋根裏から1階の廊下に落としておいた牧草の束を両手で解体していた。緑色のそれは青草と呼ばれ、寝わらとは違って馬房にいる馬のおやつになるものだ。
その脇では1匹の三毛猫が眠そうな目をしながら座っている。
 霧原は180センチを優に超す大男である。
馬産で鍛えられた体で何キロもある圧縮された牧草のかたまりを、今度はカギと呼ぶ鉄製のフックを使って通路の両側にならぶ馬房に手際よく投げ入れていく。
「でもさぁ、楓姉ちゃんとツバサオーがもう出てるよ~!」
「おぅ、パドックはいいからぁ、返し馬になったら呼べぇ」
 北海道独特の語尾のあがる訛りでそう言い返した。
牧草をひととおりまき終わると今度は蛇口から長いホースを引っ張ってきて馬房内に掛かったプラスチックの水桶に飲料水を入れ始める。
 何リットルも入る桶がみるみる満ちていく。
 は~い、と6歳の息子・秀吉は答えた。
 テレビには番組の司会者であるタキシード姿の男性アナウンサーと、同じくドレス姿のグラビアアイドルや正装したゲストたちが映し出されていた。
 今日は特別な日だ。
 競馬を知る者なら誰もが知り、ホースマンであれば誰もが目指す頂点。
その勝者を決める日である。
 
 そう。
 『東京優駿』が間もなく始まろうとしていた――――。
 
 
 
 
 
 
 
 

2007/06/14 01:30 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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