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  <title>競馬小説　ＩＫＫＩ　～　イッキ！　～</title>
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  <description>　　　　　　　　　　　　　※この物語はフィクションであり、また管理者の許諾を得ずに文章の転載・転用にまつわる一切をお断りします。</description>
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    <title>2章　　中央デビュー！　⑧</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　月明かりの下、小次郎はひとり、牧場の東側にある木立へ向かっていた。<br />
　初夏とはいっても北海道である。<br />
シャツ一枚ではやはり肌寒い。<br />
　懐かしさのあまりしこたま酒を飲み、家を出た頃はほろ酔いぎみだったのも、ものの数分で頭がしっかりしてきた。<br />
　あいかわらず外は虫がうるさい。<br />
「寒ィ……」<br />
　両手をスウェットパンツのポケットに突っ込みながら歩いていると、暗いが見覚えのある景色が小次郎を不思議な気持ちにさせた。<br />
　放牧地を隔てる牧柵の間に設けられた道は、車のワダチ以外の場所も邪魔な草がきれいに刈り取られている。<br />
　大きな図体のわりに昔から几帳面な霧原ゲンの顔が浮かんで、思わずその口元が歪んだ。<br />
　暗がりになった長い木立を抜けると、急に視界が開けた。<br />
　目の前に現れたのは、牧場の横を流れる静内川だった。<br />
　川の水面には雲間に浮かぶ満月が映し出されていた。<br />
　小次郎は岸辺にしゃがみこみ、ポケットに入っていたタバコを取り出してくわえると、おもむろに火を点けた。<br />
　口から吐き出された煙が風に乗って川下へと流されていく。<br />
　振り向くと、その視線のさき、右手の林のなかに人間の身長ほどもある大きな石碑が立っていた。<br />
　小次郎は立ち上がり、思い起こすようにして歩み寄った。<br />
　石碑には大きな毛筆体で『馬頭観音』と彫られており、足元の地面には石のプレートが並んで埋まっていた。<br />
　整然と並べられているプレートには霧原ファームを支えた功労馬たちの名前が彫られている。<br />
 むかって左側から順番に、最も古いユキシロ、ハクスイ、ダイオオショウ……と続き、そして最も新しい最後の１枚に『ジャムシード』の名前が刻まれていた。<br />
<br />
 ジャムシードはおよそ１２年前、この牧場で生まれた。<br />
 そして、そのたった５年後に遺骨と灰になってこの場所に帰ってきた。<br />
 短い生命ではあったが、競走を義務付けられて生まれてくるサラブレッドにとってそれはめずらしいことではない。<br />
 　小次郎は石碑にかからないように煙草の灰を落とした。<br />
　この土地に生まれ、長じてはターフの上を駆け巡り、ふたたびこの土に還る。<br />
　それだけでもジャムシードは幸せだったんだ、といつしかゲンは小次郎に言った。<br />
<br />
 おれは、――あれから自分を取り戻すために、ここを離れたんだ……<br />
<br />
 霧原ファームを辞めた小次郎はその後、日本を離れて異国の地に向かった。<br />
 ７０リッターのバックパックを担いでカリフォルニアに降り立ち、紆余曲折ありながらもヒッチハイクで陸路、小次郎は米国競馬の中心地・ケンタッキー州に辿り着く。<br />
 多くの風景や思い出が頭のなかに蘇った。<br />
「小次郎」<br />
　背後からかけられた声に振り返ると、甚平姿のゲンが立っていた。<br />
「……死んじまった馬どもに帰郷の挨拶か？　宴会抜け出して便所にいったきり、帰ってこねぇと思えば」<br />
　冗談めかしたゲンに、<br />
「すまねぇ、久しぶりだからな。懐かしくなっちまったんだ」<br />
　小次郎は笑って答えた。<br />
「こいつらもきっと懐かしんでる」<br />
　ゲンは小次郎が差し出した煙草を受取り、自分のライターで点火した。<br />
　秀吉が生まれて家の中で吸えなくなって以来、めっきり煙草の本数も減った。<br />
　おたがいに黙ったまま、時間が流れた。<br />
「なあ、小次郎」<br />
「あ？　どうした」<br />
　神妙な顔をしたゲンはへの字口をする。<br />
　真面目な話をするときの癖だ。<br />
「……おまえが連絡しねぇから言いづらかったんだけどよ。うちの仔っこをおまえの厩舎で預かってみねぇべか」<br />
「ゲン……」<br />
　小次郎はその髭面を見上げた。<br />
「たしかにうちにゃあ、皐月賞も、ダービーのトロフィーもある。だけどよ、それで満足しちまってるわけじゃねぇんだぁ。おれはジャムシードを作った親父を超えたいし、ここんとこずっと負けっぱなしの名門・静内地区を復興させたいと思ってる。そのための努力も投資もしてきた」<br />
　言いながらゲンは首筋を掻いた。<br />
「いまは早来が日本の馬産の中心地だ。どんな厩舎にいれたって、やつらの馬が優先されちまう。ピカピカの異国血統をひっさげた繁殖に、これまたブランド種馬をつけてんだからしょうがねぇや。肝心の馬主はきらびやかな血統馬に目がくらんじまって、おれたち日高衆が苦心してこさえた馬には見向きもしない」<br />
　北海道の早来地区と呼ばれる場所には本邦随一の規模を持つ巨大組織・伍代グループの大牧場がいくつも点在している。<br />
　いまや伝説となった偉大なホースマン・生田玄哉が一代で興した大牧場で、現在は国内の生産シェアのおよそ三分の一が伍代グループがらみというある種の「異常」状態になっていた。<br />
　昨今では不景気も相まって経営体力のない家族牧場がつぎつぎに廃業しているが、競馬における富の配分が著しく偏った、いわゆるしわ寄せが弱者に向いたためだという見方は根強くささやかれている。<br />
「競馬なんざ勝ち組をさらに太らせるもんだからな。まともな状態になるまでにはあと２０年はかかるだろ」<br />
　たがいに現場を知る者同士、ため息がもれる。<br />
「だが、おれたちだってこれ以上やられっぱなしではいられねぇんだ」<br />
　力強い口調でゲンは拳を固めた。<br />
「数年前からだが、ようやく日高にも力をもった若い人間が増えてきた。反骨精神とハングリー精神を併せ持つやつらがな。いまは早来に屈伏しているような形でも、打倒の志を胸に秘めた連中は強い。そして、そいつらをまとめ上げる連合が今、生まれようとしているんだ」<br />
「ほう」<br />
「もう年寄りの時代じゃない。おれもその一人として自分なりのやり方を模索している。小次郎が力になってくれるなら心強い」<br />
「なるほど……」<br />
　手にしていた小石を川の流れのなかに投げ込むと、ドボンという音とともに小さな飛沫があがった。<br />
「……いずれ群れをなすような話は嫌か？」<br />
　ゲンの押し殺した表情に小次郎は苦笑した。<br />
「嫌じゃねぇよ。話が大きすぎてよくわかんね―けど。ただ、おまえが一方的にオレの力になってくれるような話なら断ったかもな。オレが、ゲンの力になるんなら悪くない。いや、歓迎だ。お前にはガキのころから山ほど世話になってる」<br />
　そう言うと小次郎は立ち上がって白い歯を見せた。<br />
「明日は早起きしろ。うちにいる馬で気に入ったやつは全部もってけ」<br />
　ゲンも立ち上がり、男たちは連れ立って夜の道を帰って行った。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　朝もやのかかった放牧地に、厩舎から連れてこられた馬たちが引き手を外すやいなや、弾かれたような勢いで飛び出していく。<br />
「ほえええ、元気がありあまってるなぁ」<br />
　和那に借りたシャツとデニム姿の楓は、うれしさのあまりに飛び跳ねたり相撲をとったりしている仔馬たちを見つめた。<br />
　ひんやりとした澄んだ空気の中に冴えたいななきがこだまする。<br />
「あんな仔たちがこれからゲッソリするのよ」<br />
　同じようにラチにもたれかかっていた和那が微笑しながら言った。<br />
「月が変わってもう夏だし、今日から昼夜放牧がはじまるの。朝の検温以外はあの仔たち、ずっと外に出しっぱなし。ひと月もしたらみんなくたくたになるんだわ」<br />
　馬は一般的に昼も夜も関係なく活動する生き物だ。<br />
　昼間だけでなく夜間も放牧することで運動量が単純に言っても倍になる。<br />
　青草を食べる量も必然的に増えるし、馬房に閉じ込めておくより逞しく育つのだ。<br />
　夜の放牧地で大きな事故にでも遭えば発見するまでに長い時間を要するリスクもあるが、それを上回る恩恵は大きい。<br />
　両手を使って１人で２頭の馬を引く牧場流の経験が初めてだったので最初、楓はかなり戸惑ったが、やれば意外と馬は素直に従ってついてくるのにも驚いた。<br />
　そして思った通り、やはり和那は馬の扱いが上手い。<br />
　もともとズブの素人だったこともあり、楓へのアドバイスも的確でわかりやすかった。<br />
　バカついた若馬が後ろ脚で立ち上がっても冷静にこれをなだめ、さっと引いていく姿は堂に入ったものである。<br />
「楓ちゃん、喉かわいたろ。休むべ」<br />
　厩舎の寝わら上げを終え、ひととおり外に広げ終わった頃、冷蔵庫から持ってきたミカンジュースを手にしたキク婆がニッと笑った。<br />
　作業を終えたパートの作業員たちと、厩舎そばの丸太でできたベンチで休憩をとる。<br />
「うっま―いっ♪」<br />
　果実をしぼっただけの素朴な味が口のなかに浸みて、思わず声になった。<br />
　小次郎と楓が加わったおかげで普段より３０分ほど早く作業が終わり、時計はまだ８時半をすこし回った程度だ。<br />
「小次郎さんたちはじきに帰っちまうんだべか？」<br />
　つなぎ姿の、よく日焼けした青年が尋ねる。<br />
　青井雄作という男で、近所の牧場から毎日、手伝いに来ているという。<br />
　自宅は繁殖が３頭しかいないので少し早起きして作業をこなしているらしい。<br />
「今日の夕方には帰るつもりだよ」<br />
　草のうえにあぐらを掻いた小次郎が答えると、みな残念そうに声をもらした。<br />
「またすぐ来る。どうやらオレも少しはまともに調教師の仕事ができそうだしな」<br />
「小次郎ちゃんが調教師の大先生だなんて、そったら話を聞いたらびっくりするさぁ」<br />
　キクは小次郎が美浦所属の調教師になったことを知らなかったらしい（ゲンと和那は当然知っていたが）。<br />
　目じりが垂れて小さく見える目を丸くしている。<br />
「昔っから、こいつは何も言わないで何でも始めるからな。騎手になるって言ったときだって競馬学校、受かってからだっただろ？」<br />
「オレは、人一倍シャイなんだよ」<br />
　冗談めかして小次郎がそう言うと、一同はどっと笑いに包まれた。<br />
　親友に肩を小突かれて笑っている小次郎を見ながら、楓は無意識に胸が熱くなっていた。<br />
（こんなに楽しそうな先生、見たことない……）<br />
　短い滞在だったが、霧原ファームの温かいもてなしは楓の心に安らぎを与えてくれた。<br />
　ありがとう――。<br />
　そう小さく呟いて、コップに残っていたジュースを飲み干した。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Mon, 04 Aug 2008 17:26:44 GMT</pubDate>
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    <title>2章　　中央デビュー！　⑦</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
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<br />
　馬房から棒ごしに首をのばしてきたその馬は、こちらを見て鼻を鳴らした。<br />
　茶色い鹿毛の額には『星』と呼ばれる小さな白い斑点がついている。<br />
　黒曜石を思わせる濡れたその瞳は、穏やかな表情で人間たちを見ていた。<br />
「かわいい！」<br />
　思わず楓は声をだしてその額をさわる。<br />
　さらさらとした額の毛並みが気持ちいい。<br />
　馬はペロリと舌を出した。<br />
「和那、こいつどこをやっちまったんだ？」<br />
「左後脚の下腿部の骨に小さなヒビが入った程度なんだけどね。もうほとんど大丈夫だし、ここ最近はウォーキングマシンに入れてしっかりと歩かせてる。月末には乗り始める段取りにはなってるのよ」<br />
　そう言って和那は慣れた手つきで無口頭絡と引き手をつけ、ジークという名の馬を馬房から出した。<br />
　のんびりとした蹄音が厩舎内に響く。<br />
　一頭の馬が馬房から出されたことで勘違いしたのか、馬房内にいる他の馬たちが我も我もと動き出し、寝わらを踏みしだく音や低いいななきが聞こえる。<br />
　和那は長方形をした厩舎の真ん中にある、広さのある繋ぎ場で馬を停め、立たせた。<br />
「どうかしら？」<br />
　そう言って自身満々といった感じに停止姿勢をとらせる。<br />
　楓は腕を組みをしてじっと馬を見ている小次郎の横顔を見た。<br />
　小次郎は黙ったまま、馬体の隅々までつぶさに観察していた。<br />
　骨格の伸びやかさ、筋肉の質・張り、上体から蹄に至るまでを分析していく。<br />
　馬体重は見たところ４７０キロぐらいだろうか。<br />
　それでもちゃんと調教で乗っていけばおそらく４５０キロ台にはなるだろう。<br />
　横から見ると前後肢とも幅があって大きいが、正面に立って見ると意外に薄さを感じさせる。典型的な中距離～ステイヤーの体型である。<br />
　先ほど歩いていた時に思ったのは、つなぎが柔らかく、それでいて全身に軽さを感じさせたことだ。<br />
　柔らかい馬というのは芯に力がつくかどうかがポイントだが、それは鍛えてみないとわからない。だが、少なくとも現状では競走馬として活躍する可能性を示唆する特徴をいくつも持っているように思えた。<br />
「おっ」<br />
　小次郎が驚いたのはその後だった。<br />
　耳の後ろあたりがかゆいのか、ジークが左後脚をグッと持ち上げて器用に自らの蹄で掻きだしたのである。<br />
「どうしたんですか、先生」<br />
　不思議に思った楓が訊ねる。<br />
「いや……立ったまま頭を掻けるのは相当体が柔らかいからだ。見ての通り後ろ脚の関節の可動域もかなり広い。いい背中の形もしているし…」<br />
　言いながら自然とその口元がほころんでいた。<br />
「こいつは抜群の素材だぜ」<br />
　小次郎がキッパリ言い切ると和那は満足げに微笑んだ。<br />
「やったあ！　それじゃ、この仔をうちに預けてもらいましょうよ！」<br />
　楓は喜びのあまり両手を突き上げて飛び上がった。<br />
　あらためて見つめるほどに目の前の鹿毛馬がよく見えてくる。<br />
　いや、小次郎と和那のお墨付きがあるからそう見えるのだろうが。<br />
　ジークのなだらかな肩の線にそっと手を触れると、しっとりとした毛並みの奥に暖かい温もりがあった。<br />
「秀吉！」<br />
　突然、飛んできた鋭い声に三人の会話が止まる。<br />
　厩舎の入口に視線を注ぐと、そこには青いＴシャツにデニム姿の大男が立っていた。<br />
　おびえた様子の秀吉は母親の足にしがみついて、ズンズン歩いてくる父・霧原弦人の姿を見つめた。<br />
　霧原は身長が１８０ｃｍ以上はありそうで、体の大きい男だ。<br />
　むき出しの太い腕は血管が浮き上がっているほど鍛えられている。が、小次郎や犬介のようなたくましさとは違って、空手家や柔道家のそれを連想させる。<br />
　色黒の肌に短く刈り込まれた黒い髪、彫りの深い顔立ちに口元と顎にひげを蓄えていた。<br />
「あなた……」<br />
　馬をもっていた和那は不安そうにつぶやいた。<br />
　小さな息子の前に立った霧原は紅潮させた顔で大きな息を吐いた。<br />
　どうなるのかと思いながら見守っていると、母親の陰に隠れていた秀吉はおずおずと歩み出て、頭を下げた。<br />
「父ちゃん、ごめんね」<br />
　しばしの無言の時間が流れ、馬房のなかにいる馬たちの鼻音や寝わらを踏む音が聞こえた。<br />
「……母ちゃんと婆ちゃんには謝ったのか？」<br />
「うん」<br />
　やや落ち着いた様子の問いかけに秀吉はうなずいた。<br />
「わかった。今度から皆を心配させるようなことはするなよ」<br />
　ウンと答えた息子から、霧原は小次郎に目を移した。<br />
「秀吉を助けてくれた話は和那から聞いた。ありがとう。そして久しぶりだな、小次郎」<br />
　語尾があがる北海道訛りでそう言うと霧原は小次郎に頭をさげた。<br />
「おまえら家族も元気そうだな、ゲン」<br />
　懐かしい再会に２人は握手を交わした。<br />
　隣で話を聞いていると、小次郎は調教師になってから霧原ファームに来ることはなかったらしい。<br />
　ツテも何もない状態での厩舎の船出は何かと苦労が多かったようだが、いきなり親友を頼るわけにもいかなかったようだ。<br />
　いかにも小次郎らしいと楓は思った。<br />
「それがまたひょんなコトから、急に顔を出したっていうわけか」<br />
　そう言うと霧原は、妻の和那が持っている鹿毛馬を見てピンときた表情を浮かべた。<br />
「ジーク……」<br />
「ああ。せっかくだから見させてもらったんだが、いい馬だな」<br />
　小次郎がそう言うと霧原は「そうだろう」と言った。<br />
「ジークの母親のクトネシリカは未勝利で引退したが、おまえには縁の深い馬だ」<br />
「？」<br />
「シリカは、ジャムシードの妹だぁ」<br />
「！！！」<br />
　驚愕の顔をした小次郎はジークの顔と馬体を見つめた。<br />
「ジャムシードの母フロストフェザーの忘れ形見だからな、ここぞとばかりに良い種馬を配合したさ。現役時代のスピアヘッドは勝ちきれないことが多かったが、おそらく精神的な部分で負けていると見ていたから体質的には問題ないと思ってた。生まれたコイツは想像を超えるデキになったなぁ」<br />
　感慨深げにそう言うと霧原はジークの首筋をポンポンと叩いた。<br />
「俺自身も、コイツを小次郎に預けられたらいいとは思うが…」<br />
　言葉を濁して、霧原は落胆のため息をついた。<br />
「何か、問題でも？」<br />
　楓の問いに大男は首を振って両腕を広げる。<br />
「……売れちまったんだぁ。つい今日の夕方のことだ」<br />
　和那を含めた大人たちは、意外な言葉に声を失った。<br />
<br />
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<br />
<br />
　黒いジャージとシャツ姿になった楓は用意された柔らかい布団のうえで女の子坐りをしながら携帯を見ていた。<br />
　あれから家に戻り街に帰ろうとしたのだが、祖母キクの強い引き留めもあって今夜は霧原の家に一泊することになったのだった。<br />
『　メール　１件　』<br />
と表示された所で決定ボタンを押すと、ママより、という題名のメールが届いていた。<br />
　楓は母親とのメールのやりとりを大体、二日にいっぺんくらいの間隔でしている。<br />
　とくにこれといった内容でもないのだが母はそれとなく娘の仕事や生活に気にしているようで、最近はこれまでまったく興味もなかった競馬新聞を買って読んだりしているらしい。<br />
　高校三年の夏にＪＲＡ厩務員課程の資料が家に届いたときは、猛反対されて大喧嘩になった。<br />
　競馬がどうとかよりも楓が大学に進むと言っていたことを突然ひるがえしたことが母には納得がいかなかったらしく、さんざん罵り合ってお互いボロボロに泣いた。<br />
　楓の家は父親が公立中学校の教師、母もまた高校の音楽教師という公務員家庭である。<br />
　それという特技はないものの、活発で健康的な一人娘に対して両親はやはり安定した進路を望んでいた。<br />
　そのことを楓はよく知っていたし、べつに反抗心があったわけでもない。<br />
　それでも強く主張を押し通して、結局は競馬学校の厩務員課程に入学した。<br />
『最近の競馬は夕方から夜遅くまでやっているのですね。Ｃ２、Ｂ１とは何ですか？』<br />
　母よ……読むところが間違っているぞ。<br />
　しかしその間違いにもまた簡潔な文章で応えられない。<br />
　楓はふたたび自分の未熟さを感じた。<br />
「はああぁぁぁ」<br />
　なんとかメールを返して布団に仰向けになると、いかにもログハウスらしく透明な塗装がされた木目の天井にある裸の電球がすこし眩しかった。<br />
「あたしってホント…」<br />
　役立たずだな、と心の中でつぶやく。<br />
　忙しかった今日一日のことが思い出される。<br />
　普段はなんとか厩舎作業をこなしているが、失敗は多いし、小次郎にもしょっちゅう怒られている。<br />
　熊五郎のような知識や経験もないし、翔太のような馬の扱いの上手さもない。<br />
　自分はただひたすら頑張ってはいるつもりだが、それだけだ。<br />
　今回もただ車を運転しているだけでそれ以外は何の力にもなっていない気がする……。<br />
　そう思うと無性に胸がしめつけられた。<br />
「楓ちゃん、いい？」<br />
　コンコン、とノックがして扉が小さく開いた。<br />
「和那さん」<br />
　バスタオルを持ってきた和那は楓の充血した目を見て、<br />
「ど、どーしたのさぁ！」<br />
　と血相を変えて部屋に入ってきた。<br />
　気がつかないうちに涙がこぼれていたらしい。本人にとっても意外だった。<br />
「……ナルホドねぇ」<br />
　布団のうえで正座したまま腕を組んだ和那は楓の話を聞いてフムーと唸った。<br />
「楓ちゃんは厩務員はじめて何年目なの」<br />
「二年目です」<br />
「それじゃ仕方ないわよ。もともと競馬の外の世界にいたわけだし」<br />
「和那さんはもともと北海道の出身なんですか？」<br />
　そう聞かれると和那は笑って横に手を振った。<br />
「ぜーんぜん。東京でＯＬやってた」<br />
「へえー！　やっぱり都会の人だったんですね」<br />
「父親が競馬好きでね、家族旅行で日高にきたのが…もう何年前かな。その頃、会社がつまらなくなっていたからそのままこの近所の牧場で住み込みバイトしたの。それがきっかけで気がついたらこんなんなっちゃった！」<br />
　そう言って目を細めてチロッと舌を出す。<br />
「ここんチを手伝うようになってからは大変だったよぉ。ちょうど先代が亡くなって少ししか経ってなくてさ。うちの旦那もお婆さんもああ見えて怒りっぽいし、ちょー大変だった！！　なんか思い出してみるとあの時はしょっちゅう泣いてたな…」<br />
「……」<br />
「でね、半年くらい経ってから小次郎っちがうちに来たの。今じゃ考えられないけど、最初の頃は病人かってくらい死にそうだったんだよ」<br />
　そうだ―――と楓は思った。<br />
　霧原もキクおばぁもそうだが、和那はその頃の小次郎を知っているのだ。<br />
「馬のことやら本人のことやらで毎日、ケンカ（笑）。はっきり言って大嫌いだったのね。天下のダービージョッキー様だか知らないけどこっちだって仕事なのよ！　みたいな。あはは、わたしも必死だったからなぁ」<br />
「そんな激しいやりとりがあったなんて……ちょっと想像できないですけど」<br />
「うん、まぁ、若さゆえかな？」<br />
　そう言って和那は髪の毛を耳の後ろにやった。<br />
　不意に、両手で口元をおさえる。<br />
　続いて漏れ出たのは揺れ動く心の声だった。<br />
「でもさ、小次郎っちがうちの馬に乗っててあんな大きな事故に遭ったとか、誰も言ってくれなかったんだもん……。牧場の隅っこにある馬頭観音の前でいつも頭を抱えてさ、ずっと泣いていた小次郎っちがあんなに元気になってくれてホント、よかった……」<br />
　そう言って音もなく流れ落ちた涙に、楓はハッとした。<br />
「和那さん」<br />
　心配してその手を握ると、「ごめんね」と和那は無理に笑ってみせた。<br />
「楓ちゃんの話を聞くつもりがどんどん脱線しちゃって昔話になっちゃったね。小次郎っちが急にアポなしで来たりするから思い出しちゃって……ていうか、うちの息子を川で拾ったのか」<br />
　そう言うと涙の跡だけ残してもう笑顔に戻っている。<br />
　ひまわりのような女性だな、と楓は思った。<br />
　その素朴な明るさがきっとこの牧場には必要なのだ。<br />
　和那は咳払いをひとつして、<br />
「楓ちゃんの事、正直まだ分らないけどさ。真剣に悩んだりするのはきっと、そこが楓ちゃんの持ち味なんだよ。力不足だと思うなら少しずつ学んでいけばいいの。気がついたところから直せばいいのよ、最初からできる人間なんていやしないんだから。要はどれだけたくさん気づくかということ」<br />
　と言った。<br />
　そのきりりとした姿に、楓はまじめに頷く。<br />
「はい！　ありがとうございます！」<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
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    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A6</link>
    <pubDate>Mon, 07 Apr 2008 18:40:58 GMT</pubDate>
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    <title>2章　　中央デビュー！　⑥</title>
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    <![CDATA[<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　４０インチはありそうな大型プラズマテレビのある応接間兼リビングに通された楓の前に、淹れられたばかりの熱い紅茶が出される。<br />
　革製のソファの坐り心地はふだん厩舎で使っているものとは比べ物にならないほど良かった。<br />
　小次郎と秀吉は一緒に風呂に入っていき、霧原キクと名乗った先ほどの老婆は仕事がまだあるからと厩舎の方へと戻っていった。<br />
　楓に紅茶を運んできてくれたのは小次郎の親友、霧原弦人の妻・和那である。<br />
　若くて清潔感があり、長い黒髪の美女だ。<br />
　キクとは違ってあまり北海道訛りがなく、話し言葉は標準語そのままに近い。<br />
　玄関先では小次郎の訪問に和那もまたかなり驚いた様子だったが、おおよその話を聞いてからバタバタした様子で２人分の着替えを用意し、リビングに戻ってきて楓にお茶を淹れてくれた。<br />
「ごめんなさいね。突然のことだったからほったらかしにして」<br />
「いえ、そんなことないです。紅茶、いただきます」<br />
　上品なカップに注がれた紅茶はよい香りのするダージリンティーで、添えられていた陶器のミルクポットに入っていた牛乳は丁寧に温められていた。<br />
「おいしい」<br />
　体の内側に染みわたる感じに癒され、自然に言葉がこぼれた。<br />
「あたし、木下楓と申します。小次郎先生の下で厩務員をやっています」<br />
「楓ちゃんね。わたしは和那、ここの牧場主の妻です。よろしく」<br />
　そう言って微笑む顔に思わず見とれてしまいそうになりながら楓も笑みを返した。<br />
「それにしても、すごい数ですね……トロフィーに盾に賞状とか」<br />
　リビングの奥側のガラス棚に整然と置かれた、競馬関係の優勝賞品と思われる品々を見て、楓は言った。<br />
　軽く見積もって二十はあるだろうか。<br />
　そのうちのひときわ強い輝きを放っているトロフィーに目を奪われる。<br />
「これって東京優駿……だ、ダービー！！」<br />
　黄金のプレートに刻まれた文字を読み上げて楓は絶句した。<br />
　自分の紅茶を淹れて戻ってきた和那が口角を歪める。<br />
「わたしがここに来る二年前くらいなんだけどね。強い馬がいたのよ。でも最近はそれほど成績があがらないから旦那によく『おまえのせいだ』って言われるわ」<br />
「いや、すごいですよ。ダービーを勝ってるなんて…」<br />
　はじめて見る本物の優勝トロフィーを前に楓はまじまじと見つめた。そして、ふとそばに置かれている大きな口取り写真に気がつく。「あれ？」<br />
「小次郎、先生……」<br />
　真っ赤な優勝レイを掛けられた栗毛に跨って満面の笑みを浮かべていた騎手は、見間違えるはずもない、若月小次郎だった。<br />
　写真の中の小次郎はまだ幼い面影を残しており、楓の知らない多くの人々に囲まれていた。<br />
　吸い込まれるように見つめていると背後のドアが開いて、あわてて楓はソファに戻った。<br />
「おかあさん」<br />
　パジャマ姿の秀吉が母親のもとに駆けより、そのあとを白いシャツとグレイのスウェットを着た湯上りの小次郎が入ってくる。<br />
「小次郎っちはコレっしょ？」<br />
　気を利かせた和那がよく冷えた缶ビールを持ってくると、ニッと小次郎は笑った。<br />
「ゲンはまだ帰ってこないのか」<br />
　うちわを片手にビールを一口飲んだ小次郎が言う。<br />
「さっき連絡ついたからそろそろ帰ってくると思うけど…」<br />
　まるで我が家にいるようにリラックスしている小次郎を、楓は不思議そうに見た。<br />
　テレビをつけて道内ニュースを見ているその姿は自分の家でくつろいでいるようにしか思えない。和那とは当たり障りのない会話をしているようだったが、おたがい面識があるらしく肩の力が抜けている。<br />
　小次郎の肩越しについさっき見た日本ダービーの記念写真が見えて、楓は無意識に唾を飲み込んでいた。<br />
「二歳馬を探しにねぇ……。いまの時期だとたいがい問題のある仔しか残っていないから、難しいっしょ。うちもとねっこ(当歳)と一歳はまだ行き手が決まっていないのが結構いるから、明日にでも見ていったら？」<br />
　そう言いながら和那は、<br />
「あ、そういえば売れてない二歳、いたわ」といった。<br />
「脚がちゃんと四本ついてるなら預かるぜぇ」<br />
　冗談めかして小次郎はビールを流し込んだ。<br />
　いつも酒を飲んでいる姿を見ないため、それも不思議な感じがする。<br />
　和那はかぶりを振った。<br />
「ううん、その仔は育成までいったんだけど、骨折して帰ってきたの。そしたら馬主さんがいらないって突然言い出して、大変だったのよ。馬体も血統もよくて、うちのエース候補だったんだから」<br />
「ほう」<br />
　興味があるんだか、ないのだか、小次郎はうちわで顔を煽ぎながら目を閉じた。<br />
「どんな馬なんですか？」<br />
　話に割り込むつもりはなかったのだが、ようやく少しだけ見えた光明に楓は目を輝かせていた。<br />
「えーと、たしか初仔でね。お父さんが香港で国際Ｇ１を勝ったスピアヘッド（父サンデーサイレンス）、母親はクトネシリカって言ってうちでは期待している繁殖牝馬なの。シリカの父親ダンシングブレーヴは母の父としても優秀だわ」<br />
「ダンシングブレーヴ……」<br />
　はっきり言って血統に疎い楓にとっても、どこかで聞いた響きのある名前だった。<br />
「８０年代のヨーロッパ最強馬と言われている名馬だ。母父としては宝塚記念のマリスクレイドルや二冠ダービー馬ヒダノスティールあたりが有名だな。スピアもＧ１こそ香港の１勝だけだがサンデーの後継としてはなかなかって話だ」<br />
「そ、そんな馬が売れ残っているんですか」<br />
「まあ、ちょっとしたクセがあるんだけど…」<br />
　そう言って和那は言葉を濁しぎみに笑った。<br />
「何だったら今、厩舎にいるから見てみる？」<br />
「うわぁ、ホントですか！？」<br />
　興奮した楓は思わず立ち上がって言った。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　外はすっかり日が暮れて、空には鮮やかな月と一緒に数えきれないほどの星が輝いていた。<br />
　都会育ちの楓は思わず足を止めて星空に見入ってしまう。<br />
「すごい……綺麗」<br />
　街灯のない牧場内は文字通り真っ暗だった。ただし今夜は月が明るいのでさほど視界は悪くなかった。<br />
　初夏の夜らしく小さな虫の鳴き声がそこかしこの草むらから聞こえてくる。<br />
「うちの夜空は自慢なの。何もない静内の端っこだからこんなにくっきり星が見えるんだけど」<br />
　懐中電灯を手にした和那はそう言うと秀吉の手を引きながら、先導するように牧場の入口に近い真新しい感じのする厩舎に向かって歩き出した。<br />
　重い厩舎の鉄扉が開けられ、暗い内部から馬の気配が伝わってくる。<br />
厩舎で嗅ぎなれた馬の糞尿の匂いが鼻をつくが、ここにいる誰もそのことは気にもとめなかった。<br />
　入口のそばにあったスイッチをつける。<br />
　厩舎内には左右にズラリと馬房が２０弱ほどあるだろうか。<br />
　そのひとつひとつに美浦の若月厩舎と同じように馬名と血統や毛色などが丁寧に書かれたホワイトボードが架かっている。<br />
「小次郎っちがうちにいた頃はまだこの新厩舎は建っていなかったはずよね？」<br />
「そうだな。あの頃はゲンとおばぁと和那とおれで切り盛りしてたんだよなぁ」<br />
「うふふ、懐かしいね。今はこっちが一歳専用で、向こうは肌馬と当歳が使ってる感じなのよ。通いの社員２人とパートさん２人で合わせて７人態勢でやってる。当時に比べたら規模は倍くらいにはなったわ」<br />
「ああ。和那も社長夫人らしくなるわけだ」<br />
　胸を張ってみせる和那にそう言いながら、小次郎はホワイトボードの詳細を興味津々に見て回った。<br />
　　　　　　　　　　　　「あのぉ…」<br />
　先ほどからさっぱり話が読めない楓は小次郎の肩をチョイチョイと軽くつついた。<br />
（先生、ここで働いてたことあるんですか？）<br />
　何故か小声で聞いてしまう。<br />
「調教師を開業する前にな。２年ばかし」<br />
　何と言うこともない口調でそう言い返す。<br />
（ええぇぇ～）<br />
「扱う血統もだいぶ変わったな。昔は肌馬にもホリスキーだとかメジロティターンだとかいたけど、これは将来を見据えての企業努力が見えるラインナップだ」<br />
と言った。<br />
　たしかに肌馬の父として名を連ねるのは、ダンスインザダーク、コマンダーインチーフ、ブライアンズタイムなどを筆頭に、エリシオ、メジロライアン、リアルシャダイ、ラストタイクーンといったなかなかの顔ぶれである。外国から仕入れたらしい馬の名前もあった。<br />
　繋養している一歳馬の血統も芝の中長距離をイメージさせるものが多く、クラシック戦を意識した馬づくりの方針がはっきりと伝わってくる。<br />
「霧原の血統はどれも元をたどれば日本古来の血である基礎牝馬ユキシロの血が流れているから、外国の血統とケンカしないのよね。全体的な傾向として健康に生まれて、スタミナが豊富で、枝（四肢）の長い綺麗な立ち姿をした仔が多いわ」<br />
「じゃあ、この仔たちはほとんど親戚関係なんですか」<br />
　馬房の中を見ながら歩いていた楓が言う。<br />
「大雑把に言っちゃうとね。でも輸入馬が全盛だった時代もたくさんあった中でなかなかこういう代を重ねたブリーディングをしてる牧場は珍しいのよ」<br />
「たしかにセリに出てくるような最近の馬は流行に合わせてるだけだからな。生産のポリシーだとか言ってられないくらい売れないのはわかるが……グチャグチャのつぎはぎ血統馬ほどつまらんものはないぜ。馬が売れないのは馬主が悪いんでも時代が悪いんでもない。作り手が信用されてないってことだ」<br />
　やや不機嫌そうに小次郎は言った。<br />
「牝が生まれたらロクに種付け料も回収できないような世の中だからね……。それはうちにとっても耳が痛い話だけど。いち生産者の妻として言うなら、メス馬が生まれることによるリスクがあまりにも高すぎるのよ。オトコ馬ほど稼げないのは目に見えているんだからその分、牝馬をもつ馬主には金銭的に優遇してあげないといけないでしょ。預託料の補助金を出すとか、限定レースを増やすとかＪＲＡにできることはたくさんあるはずよ」<br />
　専門的な話になり、楓はだんだんわからなくなってきた。<br />
　一応、競馬の世界にはいるものの、自分の知見の狭さは本人もよく分かっている所だ。<br />
　ただの厩務員といえども物を知って何かしら意見を言える人間にならなくてはならない。<br />
　楓はがむしゃらに馬の世話ばかりしていた自分にちょっと反省した。<br />
「この仔よ」<br />
　一番奥の馬房のまえで立ち止まった和那が指をさして言った。<br />
　馬栓棒と呼ばれる馬房の入口に掛けられたとうせんぼの奥でその馬は、しきりに馬房内を旋回している。<br />
　鹿毛の馬だ。<br />
「シリカの０６。育成でつけられていた仮の馬名は『ジーク』」<br />
　己の名前を呼ばれた鹿毛は旋回をやめてゆっくりとこちらに顔を向けた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A5</link>
    <pubDate>Wed, 02 Apr 2008 18:43:32 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>2章　　中央デビュー！　⑤</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　清涼な空気を肺いっぱいに満たし、北国の空にむかって楓は両腕を突き上げた。<br />
「北海道に…来ぃちゃったど――っ！！」<br />
　新千歳空港のターミナル出口を抜けると、生まれてこのかた修学旅行以外ではろくに関東も出たことのない楓にとって、そこは未知の土地が広がっていた。<br />
　美浦を早朝に出てきた甲斐あってまだ時刻は昼過ぎである。<br />
　羽田を出発するときは曇っていた空は、透き通るような青い色をしている。<br />
　飛行機の機内からいまだ興奮冷めやらない楓は、子供のようにウズウズしながらとりあえず空港の建物をバックに携帯電話のカメラで満面の笑みのセルフショットを１枚撮った。<br />
　ひらひらした自称カワイイ系のベージュ色のトップスと、スキニーの黒デニム、あまりヒールの高さのないサンダルをはいている。最近伸ばしている髪はお出かけ用に上げてまとめて、頭の上で髪留めでとめている。<br />
さらに楓にしてはめずらしくやや濃いめのはっきりとした化粧をしていた。<br />
「……旅行かっ」<br />
　黒い革のバッグを手にした小次郎が青白い顔で言い放つ。<br />
　こちらは銀糸の刺繍が入った白い半袖のＴシャツにＬｅｅのブルージーンズ、ティンバーランドのロングブーツという軽い身なりだ。<br />
　黒縁の眼鏡のレンズには茶色いスモークがかかっていたが、その眼には力がない。<br />
「だって、北海道に来るのなんて初めてなんだからしょうがないじゃないですか。しかも経費で♡」<br />
　話し合いの結果、というよりも厩務員頭の熊五郎が小次郎についてくるわけにもいかず、車の免許を持っている楓が今回はお供をすることになったのである。<br />
　美浦にいるうちに厩舎のトラックで何回か練習を重ねた成果もあり、それなりに周りも納得する程度の腕前になった楓だが、そのあまりのハシャギっぷりに小次郎は不安なため息をついた。<br />
「よし……そんじゃあ、レンタカー借りて早速、日高に向かうぞ」<br />
「はぁ―――い！！！」<br />
　千歳の市街地を抜けて、楓が運転する紺色のマーチはウトナイ湖を左折して一路、日高を目指した。<br />
　海沿いにあたる苫小牧の工業エリアを過ぎると、あたりの景色は一変して広大な緑の丘陵地に変わった。<br />
「うわぁ」<br />
　ようやく現れた北海道らしい風景に、すっご～い、と楓は声をもらした。<br />
　助手席でナビをしていた小次郎は相変わらず調子が悪いらしく、<br />
「こっからはずっと一本道だからな」といった。<br />
「え、そうなんですか！？　あっ、ていうか寝るとかアリ？　ひどい、ひどい、ちょ―わがままだし、この人！！！！」<br />
「新冠につくまでファラオは眠りにつく……」<br />
　数秒と経たずに寝息を立て始めた小次郎はそう言い残して寝入った。<br />
「ウェ～ン、ありえない。てか『ししゃもの町、鵡川へようこそ』ってなんなのよぉ」<br />
　道路を挟んで右手に太平洋、左手になだらかな丘がつづく風光明媚な海岸沿いの道を、車は６０キロそこそこの安全運転で進んだ。<br />
　陽の光が海上のさざ波に反射して白い光を放ち、目を奪われる。<br />
「おおおっ！」<br />
　じきに左手に徐々に牧柵に囲まれた放牧地がちらほら見られるようになってきて、そこで放されているサラブレッドたちが長い首をのばして草を食む姿が見えた。<br />
　楓が車を走らせている国道２３５号は別名『黄金道路』と呼ばれている。<br />
　それは文字通り、競馬に人生を捧げた無数の人々が通った道である。<br />
　黄金を求め、黄金を手に入れ、そして黄金を失う者たちが一様に集まる道。<br />
　人々の野望や希望、絶望といったものがアスファルトに染み込んでいるからなのかはわからないが、道路はところどころに歪みが目立った。<br />
「先生、そろそろ新冠につきますよー」<br />
　小一時間ばかり走ってようやく静内の手前にある新冠が近付いてきたことを表す看板を通過した頃、楓は助手席で指をからめて眠っている小次郎に言った。<br />
「むお……っく、ブハァ～」<br />
　大きく伸びをした小次郎は眠そうな目を何度かまばたきした。<br />
「１４時か。悪くない時間だな」<br />
　腕時計で時間を確認しながら独り言をいうと、<br />
「ほんじゃまぁ、新冠の内海牧場あたりから攻めますかね」と続けた。<br />
　２人を乗せた車は緩やかな丘を登り、『サラブレッド銀座』という看板がある展望台の手前の道を左折した。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　夕暮れが近くなった頃、楓と小次郎は静内の中心街を『二十間道路』方面に入ってしばらく走った場所にある静内川のほとりの公園で休憩していた。<br />
　公園といってもこれといった遊具もないサラ地のような場所に自動販売機が一台あるだけで、あとは草むらである。<br />
「先生ぇ……」<br />
　冷たい缶のロイヤルミルクティーをしゃがみながら飲んでいた楓は、隣で両足を投げ出している師匠に向かって言った。<br />
「ぜんぜん駄目じゃないですか……」<br />
　新冠で５軒、ふたたび国道に戻ってから静内に着いて２軒。<br />
　牧場へは行けども行けども、色よい返事が返ってくることはなかった。<br />
　冷静に考えて初夏を迎える今時分、牧場にいる２歳馬などただの売れ残りに過ぎないし、その数も知れている。<br />
　さすがにそれを知らない小次郎ではなかったが、どう考えても走りそうにない馬を付き合いのある数少ない馬主に買わせるわけにもいかないし、これといった馬は当然のごとく買い手がついていて、預けられる厩舎も決まっているしで、おのれの見通しの甘さを痛感させられた。<br />
「ほらあの、何でしたっけ、３番目に行った牧場にいたチーフベアハートの牡馬。あれならそんなに悪くないんじゃないですか」<br />
「おまえはキリンの世話がしたいのか……おれはご免だぞ」<br />
「だって、そんなこと言ったって」<br />
　泣きそうな気持ちになりながら空を見上げる。<br />
　山から海にむかってのびた羊毛のような巨大な雲が、空と共に赤く染まっていた。<br />
　ため息をついて目線を落とす。<br />
　公園の１００ｍほど先には清流・静内川が豊富な水量を湛えながらゆったりと流れていた。<br />
「しゃーねぇ。明日１日は時間があるんだから諦めずに探すっきゃねぇだろ」<br />
　そう言って缶コーヒーを飲み干す。<br />
「さて、もうそろそろ宿でも取らねぇとだな。って、おい、どうしたんだ」<br />
　立ち上がった小次郎は、何かを視線の先にとらえたまま固まっている楓に気づいた。<br />
「あ、あわわわわ……」<br />
「ん？　どうした？」<br />
「川！　川ぁ！」<br />
「川が何だってんだよ？」<br />
　混乱して言葉にならないのか、楓は川の上流を震えながら指さした。<br />
　小次郎は眼鏡を外して眉根を寄せた。<br />
「子供が流されてる！！！！」<br />
　２人ほぼ同時に叫ぶと、次の瞬間に小次郎は脱兎のごとき勢いで川岸に走っていた。<br />
　川幅２０ｍはあるだろうかという川の、流れの速い中ほどを４、５才と見られる男の子が顔を出したまま流されている。<br />
　助けて――、という声。<br />
　川岸にやってきた小次郎は迷うことなく川に飛び込んだ。<br />
「先生！！」<br />
　あとを追いかけてきた楓の声が響く。<br />
　小次郎は子供が流されてくる場所をあらかじめ予想して、川下で捕まえられるように泳いで行った。<br />
　ゆるやかに流れているようでも押し流される水の勢いは強く、なかなか思い通りにはいかない。<br />
　うっかり水を飲んだりすれば息ができなくなる。<br />
　慎重に移動しながら小次郎は子供と自分の距離を計算した。<br />
　狙いをすましてのばした右手が少年の肩をつかむ。<br />
「！？」<br />
　その瞬間、不意に足もとの水の流れが引っ張られるように強くなり、体ごと水面下に引きずり込まれた。<br />
　思わず焦って我慢していた口から空気が泡となって逃げていく。<br />
　やばい―――<br />
　耳が水中の音しか聞こえなくなり、暗い川底が果てしなく見え、小次郎は全身におぞけが走った。<br />
　小次郎は必死に腕をかき、もがいた。<br />
　しばらくの格闘の末、男の子をしっかりと片腕に抱きかかえながら水面の上に顔を出すと、川岸を楓が並走していた。<br />
　おそらく、先生、と呼んでいるのだろうが、顔をくしゃくしゃにして言葉にならない叫びを放っている。<br />
「うお……」<br />
　やっとの思いで砂地に辿り着くと小次郎はそのまま草むらに崩れ落ちた。<br />
　子供も無事だった。<br />
「ふぇぇぇぇ……無事でよかったぁ」<br />
　へたりこんで大粒の涙を流している楓に、<br />
「おい、おれはいいからガキんちょに怪我はないか見てやってくれ」<br />
　と言って小次郎はポケットからびしょ濡れになったタバコを取り出して、大きく息をついた。<br />
　丸刈りの少年はＴシャツに短パン、履きつぶした灰色の運動靴といった格好で、ぐったりとしていたが、支えて上体を起こし少し経つと意識がしっかりとしてきたようだった。<br />
　大きなくしゃみをすると鼻から青っ洟が飛び出た。<br />
　楓はこのままでは風邪をひいてしまうと思って、着ているものをいったん全部脱がせ、それを雑巾しぼりの要領で水を切った。<br />
　有り合わせようにもタオル１枚持っていなかったのでとりあえず服を着せて３人は車の場所に戻った。<br />
「ボーズ、名前は？　あと、送ってやるから家を教えろよ」<br />
　車の陰で濡れた服を着替えている間に、小次郎は少年に訊ねた。<br />
　楓は離れた場所で背中を向けている。<br />
「……ヒデヨシ」<br />
　黙っていた少年の口から小さく発せられた声に、<br />
「ん、めずらしい名前だな……はて？　何か聞き覚えがあるぞ」<br />
　小次郎は首をかしげた。<br />
「む～う」<br />
　こぶしを顎にあてて考える。<br />
　しばらくして思いあたる人物を思い出した小次郎は子供の顔をまじまじと見つめた。<br />
「お、おまえ……霧原ゲンの息子の、秀吉か！？」<br />
「うん」<br />
　なるほど、とばかりに手をポンと叩く。<br />
「先生、もういいですかぁー？」<br />
「ああ、いいぞ」<br />
　歩み寄ってきた楓は足もとに脱ぎ捨てられていたシャツを拾い、水を切った。<br />
「この子どこの子か、わかったんですか？」<br />
　小次郎は笑いながらその質問に答える。<br />
「ああ。つーか、コイツ、おれの幼馴染のせがれだ」<br />
「へ？」<br />
　楓の目がテンになる。<br />
「おじさん、誰なの？　父ちゃんの友達？」<br />
「そういうことだ」<br />
　安堵した様子で、小次郎は携帯をかけようと取り出した。<br />
「どうしたんですか」<br />
「……壊れてる。ま、とりあえずコイツを家に届けるか。ここから車で１５分くらいだ」<br />
「先生ってこの辺の人だったんですね」<br />
　車を運転しながら楓が言った。<br />
　太陽はもう新冠の丘陵の向こうに沈み、外はだいぶ暗くなっている。<br />
　車道には車の姿はほとんどない。<br />
「生まれは静内よりもっと奥の浦河ってとこなんだけどな。おれが小さい頃に静内に移ってきたんだ」<br />
「ご両親の仕事の関係でですか」<br />
「そうだな。親父が厩務員やってて。中学卒業して家を出るまではずっと静内」<br />
「へえぇぇぇぇ」<br />
　楓は不思議とうれしい気持ちになった。<br />
　昼間に見た美しい牧場の風景のなかで、数人の友達と遊び戯れている幼い小次郎の姿が目に浮かんだような気がした。<br />
「あ、それじゃご両親は今この辺にいるんですか？」<br />
　続いて投げかけられたその質問には、答えるまでに少しの間があった。<br />
「両親はおれが小さかった時に離婚したんだ。おれは親父に引き取られて、お袋とはずっと会ってない。噂じゃ札幌の方で再婚したらしいけどな。親父とは競馬学校に入る時に大喧嘩して家を出てそれ以来。音信不通ってやつだな」<br />
　内心でマズイと思った楓に対して、めずらしく小次郎は自嘲的だった。<br />
「そ、そうなんですかぁ」<br />
　沈黙の空気が流れるのが不安になって、<br />
「ならお父さんはまだ静内に？」と訊ねてから楓は後悔した。<br />
「親父は、当時働いていた牧場が潰れてからどうなったんだか……。いいかげんな奴だったから、どっかでのたれ死んでてもおかしくねぇよ」<br />
　そういう親子関係ってどうだろう、と楓は思った。<br />
　自分はふつうのサラリーマンの家に生まれ育ったのでよくわからないが、聞いているだけで無性に悲しくなる話だ。それと同時に何てこの男は強いのだろうと思った。<br />
　小次郎は軽い感じに喋っているが、同じ立場だったら果たして自分は耐えられるだろうか。<br />
　いや、たぶん無理だ。<br />
　それはきっと血のつながった家族の、愛情とか、思い出とか、数え切れないほどのそれらが自分という人間の多くの部分を構成する要素だからだろう。<br />
「おっ、そろそろ着くぞ」<br />
「は、はい」<br />
　薄暮の中に佇む、空にむかって大きく幹を伸ばした巨大ケヤキの手前で楓は現実世界に引き戻された。<br />
　霧原ファーム、と太い毛筆体で書かれた看板が牧柵の前に立っており、そこからさらに車を走らせてじきに現れた牧場の入口を入っていく。<br />
「おい起きろ、秀吉。着いたぞ」<br />
　短い間に眠りに落ちていた後部座席に座った少年に声をかける。<br />
　個人牧場にはめずらしく洒落た外国を思わせる厩舎脇を通り抜けると、背の高いスギに囲まれるようにして建てられたログハウス風の家が見えた。<br />
　車を停めて小次郎たちが外に出ると、すぐそばに繋がれていた柴犬が大きく吠え立てた。<br />
「コジロー」<br />
　秀吉という少年の声に反応して犬は興奮して飛びかかる。<br />
　ぎょっとして小次郎は、<br />
「あれ、こいつ、ムサシじゃねぇの？」といった。<br />
「ムサシはコジローのお父さんだよ。去年、死んじゃったんだ」<br />
　二本足で立ち上がってじゃれている犬をよく眺めて小次郎は唸った。<br />
「ゲンの野郎、よりによっておれと同じ名前を犬につけやがって……」<br />
　気がつくと楓は吹き出していた。<br />
　さっきは少し暗い気持ちになってしまっていたが、どうやらこの牧場の主人は冗談を好むようだ。<br />
「ヒデ坊！！」<br />
　厩舎の中から出てきた、つなぎの作業着を着た小柄な老婆が声をあげてこちらに走ってきた。<br />
「あんた、裏の川で遊んでてその後どこ行ってたんだべ！？　父ちゃんが心配して探しに行ったよ！」<br />
　秀吉は祖母に抱きかかえられて、「ごめん」と言った。<br />
「んで、あんたたちは…こ、小次郎ちゃんかい！？」<br />
　驚いた顔をしている老婆に、<br />
「久し振りだな、おばぁ」と小次郎は笑顔をみせた。<br />
「あれぇぇ、今日は心配したりビックリしたり忙しい日だよ……。秀吉がいなくなったと思ったら今度は小次郎ちゃんが現われて、あれあれ！　こっちのお嬢さんはあんたのお嫁さん！？　いいやぁ、どうして連絡してから来なかったのさぁ。びっくりするべ！」<br />
　よく喋る老婆はしわだらけの顔についた大きな瞳をさらに大きくして言った。<br />
　あまりの驚きっぷりに小次郎も楓も返す言葉が見つからず、<br />
「話はとにかく、家にあがんなさい！　さあさあ！　あ、何だ秀吉、びしょ濡れじゃないかい、あんた一体なーにやってんのさぁ…」<br />
　そのまま２人とも手首をつかまれて引きずられるように家に引かれていった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A4</link>
    <pubDate>Mon, 31 Mar 2008 03:54:55 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>2章　　中央デビュー！　④</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
【　　　　阪神　　　　　　新馬　　　　1200m      　芝　　　良　　　　　】<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　宝塚記念（Ｇ１）当日。<br />
　正午すぎて阪神競馬場の観客人数は８万人と発表された。<br />
　上半期の締めくくりとなるオールスター戦を目当てに、好天にも恵まれて多くの人々が競馬場に足を運んでいる。<br />
メインレースが始まる午後３時にはスタンドも立ち見も埋まっているだろう。競馬人気が衰えたとも言われているが、今日はひさびさに大入りが見込めそうだ。<br />
　午後一番のレース開始時刻にあわせて検量室周辺はあわただしくなっている。<br />
　ひととおり馬具の確認をして、神薙舜はパドックの横にあるジョッキー控室に移動した。<br />
　パドックでは新馬戦に挑む８頭の若駒たちが周回をはじめている。<br />
　すり鉢状になったパドックにはファンがどっと押し寄せていた。立錐の余地もないほどで、Ｇ１直前のそれと遜色ない。<br />
　数頭の馬の後に続いて、５枠５番シャイングロリアが厩務員２人引きで登場すると観衆は大きくどよめいた。<br />
灰色の堕天使の名前と噂は各メディアを介し、もはや日本中に知れ渡っている。<br />
　どうやって仕入れたのか不明だが、ネットでは先ごろ行われたシャインクウガとの公開調教の様子が動画で配信され、もっか来年のクラシック本命として話題をさらっている。<br />
　本格的な一眼レフカメラや携帯電話での撮影の光にさらされながら、シャイングロリアは首を下げた状態で周回する。<br />
５４２キロと発表された巨漢は新馬のなかでは群を抜いて大柄である。まわりの馬がまるで子供のように映った。鋼のごとき筋肉に何層も覆われた馬体は類をみない完成度を誇り、大きな後脚が踏み込むたびに気合いが伝わってきた。<br />
馬券投票締め切り２０分前にして単勝オッズ１．１倍。<br />
元返しがなくなって以来、もっとも低い配当だ。<br />
　パドックに周回停止命令の声が響く。<br />
　整列を終えたジョッキーたちが小走りに馬に駆け寄り、騎乗していく。<br />
　シャイングロリアの背中に神薙舜がまたがると、競馬場には場違いな黄色い声援があがる。よくみると一般の競馬ファンに紛れて多くの若い女性の姿があった。<br />
　少数ながら、神薙バカヤロー、という声援（？）も聞こえる。<br />
　赤い下地にたすき状に黒い模様のはいった勝負服姿の舜はあぶみの具合を確かめつつ、愛馬の背中から好調を感じ取っていた。<br />
　ダービー馬たちとの追い切りで、現状での目一杯の時計が出せたことで欲求不満が解消されたのか、いつになく馬が落ち着いている。<br />
　ふとパドックの電光掲示板に、控え室の外に立っていた美しい和服姿の女性のアップが映し出された。<br />
　オーナーの娘、二条院しづかの若々しく優美な姿に今度は男性諸氏の間にいくつも声がもれる。「誰だ？」<br />
「女優だろ、たしかあの…」<br />
「馬主なのか？」<br />
　憶測の声が飛び交う。<br />
掲示板に自分の姿が映っていることに気づいたしづかは柔らかな微笑みを浮かべた。<br />
　本馬場に移動するために各馬が地下馬道を歩いていくと、パドックに押し掛けていたファンたちも一斉に本馬場にむかって走り出した。<br />
<br />
<br />
　眩しい日差しを浴びてコースに現れたシャイングロリアは、灰色の身体を蹄の先からゆっくりとのばして準備運動、返し馬に入っていく。<br />
　昨夜ふたたび小雨が降ったために芝は湿っていたが、適度なクッションが効いていて問題なさそうだ。前面がびっしりと観客で埋まったスタンド前を抜けて、スタンドから見て反対側、向こう正面にある１２００ｍのスタート地点に向かって流していく。<br />
「花山さーん、お弁当買ってきましたよぉ」<br />
　身長１６０センチに８０キロの体をもてあました野口という後輩の競馬記者が汗をかきかきしながらビニール袋片手に記者席にやってくる。<br />
「おう、すまねぇ。釣りはとっとけよ」<br />
　日刊紙・関西スポーツのベテラン競馬記者、花山一はそう言ってタバコの煙を吐き出しながら両目に当てていた双眼鏡に下ろした。<br />
「どうです、噂の怪物くんと王子は」<br />
「実際にこの目で見るのは今日が初めてだが、とんでもねぇ馬だってことは間違いないな。この仕事も３０年続けてるが、皇帝と呼ばれたシンボリルドルフの新馬戦でさえあんな雰囲気ではなかったぜ。ただひとつ、解せないのは」<br />
　野口は噴き出した汗を拭こうともせずにどっかりと席につくと競馬新聞を広げた。<br />
　シャイングロリアの予想馬柱にはすべて◎が並んでいる。<br />
「……あれほどの馬になぜ、新馬戦で１２００ｍの短距離を選んできたのか、ということですね？」<br />
「そうだ」<br />
　短く答えると花山は低く唸った。<br />
「あの馬の両親はどちらもクラシックの距離（２０００～２４００ｍ）で活躍してきた馬だ。あいつ自身もバランスの整った馬体をしている。とてもじゃないが短距離がいい馬ではないだろうよ」<br />
「じゃあ、あえて無理な条件に挑戦させる、っていうことですか」<br />
「どうだかな」<br />
「ほらこういう時によく言う、タケシバオーって馬が昔いて、強い馬は距離を問わないって話があるじゃないですか」<br />
「おい、そりゃ俺がまだ駆け出しの頃の話だぞ。距離別に特化が進んでいる現代の競馬ではまず無理な話だし、そもそも新馬戦くらいでハクがつくようなもんじゃないだろ」<br />
　じゃあ何で、と言う問いには答えられず、<br />
「とりあえず弁当でも食うか」<br />
　と花山は買ってこさせた幕の内弁当を開いた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　新馬戦のファンファーレが鳴り、場内の視線がスタート地点に注がれた。<br />
　先入れとなった５番枠のなかで舜は他馬の進入を待っていた。<br />
　レースのイメージは鮮明に描かれている。<br />
　股の下にいる相棒はフーッという鼻息を吐いていたが、今日はいたって落ち着いているようだった。<br />
　全馬が枠におさまり、スタートが切って落とされた。<br />
　出遅れもない綺麗な発馬でレースは始まった。<br />
抑えのきかない１頭の馬が内側から飛び出して先頭に立つ。<br />
どうやらこの馬がレースを引っ張るらしい。<br />
数頭が気合いをつけられて先頭を追いかけ、馬群が形成されていく。<br />
シャイングロリアはゲートを出たままに、中団を追走しながら４馬身ほど追いかける形になった。<br />
レースは短距離のスプリント戦らしくハイペースでラップを刻み、前半の３ハロン（６００ｍ）で時計は３４．２。開催終了となる馬場では早いほうだ。<br />
そして、レース中盤すぎ。<br />
５番手を追走していたシャイングロリアは鞍上の気合いに応えて、残り６００ｍで大外をマクリながら苛烈な勢いで二番手に立ち、そのまま並ぶ暇もなく先頭に立った。<br />
大勢が決したことが明らかになり、スタンドが大きな歓声に包まれる。<br />
　しかし。<br />
ほぼ勝利を手中にした芦毛馬の馬上で、体を折っていた神薙舜は右手に持っていた鞭を後方にふりかざした。<br />
　―――常識を超える。<br />
　そんな決意の込められたステッキが大きな後肢をしたたかに打ちつけると、すでにスピードに乗っていたはずのサラブレッドがその瞬間、ここまで『溜めていた』末脚を一気に開放した。<br />
　ドン、という炸裂音を残して馬場の中央を銀色の蜃気楼がのびていく。<br />
　空気という壁を突き抜け、シャイングロリアはさらに己の能力を解き放っていった。<br />
　場内の歓声は水を打ったように静まり、誰もが茫然としながらその光景に見入っていた。<br />
　緑のターフの上を、ただ一頭の馬が駆け抜けていく。<br />
　何物もそこに入り込む余地のない無音の世界がそこにあった。<br />
　そしてレースという概念を否定するほどの差をつけて、それはゴールを過ぎて行った。<br />
『シャイングロリア、ゴールイン！　せ…戦慄とともに降臨！　シャイングロリア！！！』<br />
　静寂に包まれた競馬場に、遅れて場内実況の声が届くと、さらに遅れて熱狂の嵐が沸き起こった。<br />
　まるでＧ１の直後のような馬鹿騒ぎのなかで花山は立ち尽くしていた自分に気がついた。<br />
「すごい！　すごいっす！　こんなの見たことないっっっ！」<br />
　同じように立ち上がり、興奮した野口は小躍りしていた。<br />
花山は高まる胸の鼓動を抑えるのが精いっぱいだった。<br />
　しばらくの間、二の句が出ず、くわえていたタバコのフィルターだけが前歯に挟まれてキリキリと音を立てていた。<br />
　ゴールのはるか先で馬を返した舜は、ファンの声援に応えるようにスタンド前までシャイングロリアを導いた。<br />
　祝福と喝采を受けながら、馬上で右手を突き上げて人差し指を立ててみせると場内はさらに盛り上がる。<br />
自然と舜の口元には笑みがこぼれていた。<br />
　シャイングロリアが地下馬道に下り姿を消しても場内の興奮は収まらない。<br />
　コースに設置された大型電光掲示板、ターフビジョンに映し出された着順とタイムに再びどよめきが起こった。<br />
　赤い文字で『レコード』という表示が点灯している。<br />
「上がり３ハロン（６００ｍ）、３２．６！！？」<br />
　勝ち時計１分６秒８は、日本記録を更新していた。<br />
「ただの記録じゃねぇ……後半６００ｍだけでこれだけの記録をつくりやがったんだ」<br />
「ていうか、直線コースの競馬でもないのに３２秒台の上がりだなんて、なんかもう感覚狂っちゃいますね」<br />
　そう言いながら野口は呆れ笑いを漏らした。<br />
「こりゃ、とんでもないことになったな…」<br />
　ハンチング帽の下の坊主頭を掻きながら、花山は一人つぶやいた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A3</link>
    <pubDate>Mon, 24 Mar 2008 04:50:12 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>2章　　中央デビュー！　③</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
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「『ついにヴェールを脱いだネオ・ブラッド』かぁ。扱いも大きいですねぇ」<br />
　月曜のスポーツ新聞を両手で広げた翔太が、競馬記事の真ん中に大きく書かれた見出しを読み上げる。<br />
　窓外では雨が降り注いでいた。<br />
　もう梅雨である。今年はカラ梅雨ではなさそうだ。<br />
「『今後はステップレースを一戦して暮れの朝日杯に向かう予定。早くも2歳の頂点はこの馬で決まりではないか』だそうですよ。一度くらい自分の管理してる馬をこんなふうに書かれてみたいですよねぇ」<br />
　それを聞いて、向き合ったソファに腰を下ろしていた熊五郎が笑った。<br />
　ペティナイフを片手に林檎をむきながら、<br />
「そういうことは厩務員人生に一回あるかどうかの話じゃて」と言う。<br />
「しょせん競馬は血統なんですかねぇ。ダービーを勝つって言ったって、これじゃいつになるか分かりませんよ」<br />
「果報は寝て待てというか、焦らないことじゃ」<br />
「は～い……」<br />
　翔太は背もたれにもたれかかって目をつぶった。<br />
　ガラリと、入口のドアがスライドして小次郎が休憩所に入ってきた。<br />
　そのままソファに座るなり手に持っていた煙草に火をつけて、<br />
「翔太おまえ、免許持っているか」<br />
　と聞いてきた。<br />
「え、原付しかないですけど」<br />
　そうか、と言って小次郎は両足を投げ出し、頭の後ろで腕を組む。<br />
「クルマの免許なら、あたし持ってますよ」<br />
丸めた引き手をもった楓が開けっぱなしのドアの向こうから顔を出す。<br />
馬のブラッシングをしていたらしく、白いシャツには抜け落ちた馬毛がいくつも付いていた。<br />
　細っそい目で、小次郎は娘の顔を見る。<br />
「ちゃ、ちゃんと運転できますから！　……卒険5回、落ちましたけど」<br />
「電車でいくかぁ……」<br />
　ぼそっと言って卓上に置かれていた競馬ブックをおもむろに読み始めた。<br />
「ていうか、どうしたんです？　いきなり」<br />
　怪訝な顔で翔太が訊ねると、小次郎の口から輪っか状の煙が吐き出される。<br />
　休憩所に入ってきた楓は自分のマグカップにコーヒーを入れて向かい合わせのソファに腰を下ろした。<br />
「北海道に馬を仕入れにいくんだよ。足が必要だろう。ん？　なんか顔についてるか？」<br />
　一同の視線を一身に集めていたことに気がつく。<br />
「驚いたぞい……」<br />
「先生が自分から馬を探しに行くなんて……」<br />
「いや、普通に考えればかなり当たり前のことですけど……」<br />
「オイ、そんなにおかしいか」<br />
　休憩所の窓の外を、他厩舎の厩務員たちが馬を引いていく。<br />
「いつ、行くんです？」<br />
「とりあえず来週だな。知り合いの牧場をしらみつぶしに当たってみる」<br />
「はい、はーい。前もって連絡とかってしないんですか」<br />
　楓が手をあげて質問した。<br />
「そんなもん、いるか。相手は馬屋だぞ」<br />
　適当にパラパラめくっていたブックの、巻頭のグラビアにふと、その手が止まる。<br />
そこには記念写真とともに『神薙舜騎手　史上最速200勝』という文字が踊っていた。<br />
　一瞬、楓は緊張したが、小次郎は別段、興味なさそうにふたたび紙面をめくっていった。<br />
　ほっとしながらも、ふと、この男は何も想いながら現在を過ごしているのだろうかとその顔を見つめる。<br />
　小次郎は変わらない表情で記事に目を落したまま、ときおり煙草の煙を細長く吐き出していた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　滋賀県・栗東トレーニングセンター内、坂路コース。<br />
　朝露のついた路傍の木々が、日の光を浴びて輝いている。<br />
　週末の競馬開催に向け、レース前の総仕上げともいえる追い切り時計を出す各馬が蹄音を立てながら次々と駆け上がっていく。<br />
「そろそろ、かなぁ」<br />
　お目当ての馬の追い切りを心待ちにしていた関西スポーツ競馬担当の若手記者・亀岡進はストップウォッチを片手にコースを見つめていた。<br />
瘦せぎすの男で、安そうなグレーの背広に折れ目のついた赤いネクタイをしている。<br />
　少し垂れ気味の両眼の下には深いクマが刻まれており、髪の毛はぼさぼさ、清潔感のない不精ひげは青く茂っている。<br />
　今年２６歳になった青年とは思えないほど異様な外見をしているが、とにもかくにも栗東の坂路時計取りは彼の仕事である。<br />
　三流大学で、のべ２年留年して、男ばかり８人ほど集まった競馬サークルでは通算４年間、代表をつとめた。<br />
　断じてミーハーではないと自認しつつも、好きな馬はディープインパクトと真顔で言いきる男は今、恋する乙女のように心が躍っていた。<br />
　坂路時計班の一員として正式に配属されてからまだ３か月だが、その予想家人生のクライマックスは早々に訪れていた。<br />
　双眼鏡のレンズのはるか向こう、遠くから、その馬の姿が見えてくる。<br />
　亀岡は瞬間、言葉を失った。<br />
　複数併せになるとは聞いていたが、５頭併せとは聞いていなかった。<br />
　デビュー戦に臨む、噂の怪物・シャイングロリアの調教は圧巻だった。<br />
　調教馬群の先頭を走っていたのは、今週の宝塚記念にファン投票で堂々の一位に輝いたエルムスウィーパー。<br />
その青鹿毛の左後一白は、まさしく昨年のダービー馬である。<br />
　続いて１馬身離れて追走するのが、春のドバイに遠征し、見事にシーマクラシック(Ｇ１・芝２４００ｍ)を制したフェニックスロード。ファン投票二位。<br />
　父は米国から輸入され、初年度産駒から女傑マリスクレイドルを輩出したレッドフェニックス。<br />
昨夏に早世した父の貴重な後継種牡馬としてすでに今年限りでの引退が決まっている。<br />
　坂路コースの中盤を過ぎ、それらと併走するように内側から昨年の菊花賞馬アクアシェイドが力強く完歩を伸ばせば、負けじと大外から去年の牝馬二冠女王アマテラスが鋭く伸びた。<br />
　超という言葉をいくつつけても足りない豪華メンバーをまとめて相手にしながら一歩もヒケを取らない手応えで、最後方から神薙舜を背にしたシャイングロリアが灰色の馬体を躍動させる。<br />
「おいおい……宝塚記念のド本命たちを相手に追い切る２歳馬があるか」<br />
　亀岡の近くにいた、よその予想紙の記者があきれたように言った。<br />
「新馬戦なんか走らせないで今すぐクラシックを走らせりゃいいんだよ」<br />
　ストップウォッチを持つ手が震え、計時どころではない。<br />
　亀岡の心はただただ歓喜していた。<br />
　菊花賞馬と海外Ｇ１馬の間をこじあけ、２歳年上のダービー馬をクビ差まで追いつめた所でゴール板を通過する。<br />
　トレードマークになったホライゾネット付きの黒い覆面の下にある口は固くハミを噛んで白く泡立っていた。<br />
　オーバーワークにならない程度にまとめたとはいえ、年長馬たちも一様に玉の汗をしたたらせていた。<br />
　各馬キャンターから常足にスピードを落とし、坂路を下りていった。<br />
　いや、ただ一頭残っている。<br />
舜を待っていた牧昇二が、柔和な笑みを浮かべながら鹿毛馬フェニックスロードの鞍上で右手をあげた。<br />
「さすがやなぁ、ホンマにその馬はバケモンやで」<br />
「昇二さん、あまり馬を寄せるとグロリアが興奮するので……」<br />
「アハハ、悪い悪い。ほな、ちょっと離れた場所から失礼しまっせ」<br />
　グロリアを刺激しない程度に離れた場所を並行しながら二頭は木々に囲まれた逍遥馬道を下っていく。<br />
　舜にとって牧の存在は単なる先輩騎手の一人に過ぎない。<br />
日本競馬史に残る名ジョッキーといっても特別に意識している部分はない。<br />
　そのことは牧もよく知っていた。<br />
　競馬の世界に入ってくる新人騎手にとって牧昇二とは雲上人である。<br />
中央競馬では現役最多の２０００勝を誇り、競馬に興味をもたない一般の人々にもその名は知られているほどだ。<br />
　多くの新人騎手は、生き神様を見るような目で挨拶にやってきて、感激して帰っていった。そして実際のレースでこれでもかというほど格の違いを思い知らされる。<br />
　しかし、彼らはそれでも「やられ役」として騎手であり続けるのだ。<br />
そんなものだ。<br />
　生活さえできればイイというくらいの中途半端な覚悟しかない人間を、心の底ではひどく軽蔑しながら牧昇二は表向き寛容な人間を装っていた。<br />
　神薙舜がＪＲＡ新人ジョッキーとしてデビューしたのは二年前のことだ。<br />
　もともと、さほど親交のなかった厩舎の長男坊、古くは自分のライバルと呼ばれていた男の義理の弟といった程度の間柄に過ぎなかったが、数年ぶりに会った舜は牧も驚くほど別人になっていた。<br />
　生来の明るさが消え失せ、他人を遠ざける空気をまとい、瞳の奥には冷たい刃物のようなものを宿していた。<br />
　そして新人とは思えないほど、恐ろしく腕が立った。<br />
　競馬学校を卒業した程度の小僧にはまるで似つかわしくない度胸と卓越した技術。<br />
　男は３年目にしてすでに国内のトップを争うまでに頭角を現している。<br />
　だが傍目にもそのことが舜にとって達成感や満足感を与えているふうには思えないのである。<br />
　出世欲や金欲、支配欲といったものに素直な牧にはよくわかる。<br />
　明らかに自分と違うからだ。<br />
　尊敬も畏怖もない、冷めた瞳に映し出される牧はふとそんなことを考えて苦笑いを浮かべた。<br />
「なあ、舜坊」<br />
　うまくスポンサーを垂らしこんだな、とは言わない。<br />
　そういう事をするのはむしろ自分である。<br />
　気を取り直して言葉をつむいだ。<br />
「おれにとって競馬っちゅうのは、強い馬に乗って勝つ。それだけや。仕事やし。そんなら自分は競馬でいったい何がしたいねん？」<br />
　予想していなかった突然の問いに、舜は少なからず面食らったようだった。<br />
「それは……今、答えろと言われても難しいですね」<br />
「ンまぁ、そうやろな。我ながら不思議な質問してるわ」<br />
　ムチの先端をおのれの鼻先にピタピタとつけながら牧はウームと唸った。<br />
　少し考え込んでから、いやな、と口を開く。<br />
「ダービーを勝ちたいとか、海外で勝ちたいとかそういう気持ちを強く持っている奴らはな、なんというか、目がキラキラしてんねん。夢見てる顔しとる。かといって、競馬をビジネスと割り切っている奴もそうおらん。生き物が相手やし、そういうのには会ったためしがない。察するに舜坊からはカネとか名誉とか、そういうもんを求めているようには感じられへんねや」<br />
　舜は黙ったが、本人にもわかりづらいらしく、馬上にしばらく沈黙が流れた。<br />
「強いて言うなら…」<br />
　木々の隙間から陽光が差し下している場所を抜けると、舜は口を開いた。<br />
「な、なんやって！？」<br />
　急に強い風が吹いて、よく聞こえなかったが、牧の耳にはこう届いたように思えた。<br />
　この悪夢を終わらせたいから、と。<br />
<br />
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]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A2</link>
    <pubDate>Mon, 17 Mar 2008 02:46:27 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>2章　　中央デビュー！　②</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
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　人間の基準でいうなら六畳一間くらいしかない馬房のなかでその馬はじっとしていた。<br />
　４本足とも靴下をはいたような白い毛と顔の真ん中をタテに走る大流星の、小さな栗毛。<br />
　競走馬名アカネツバサオー。<br />
　何も乗せていないその背中にどこから飛んできたのか、テントウ虫が羽根を休めていた。<br />
　馬房では暇らしく、うとうとしたりたまに馬栓棒のうえから首を出して外や厩舎のなかを見たり。<br />
　競走馬は毎朝の運動後、そのほとんどが狭い馬房にいる。<br />
『あの子、こないかなぁ……』<br />
　ツバサオーは眠そうな眼をしながらつぶやいた。<br />
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【　　　　1000万下　　　福島　　1700m　　 ダート　　良　　　　】<br />
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　大地を唸らせる地響きをあげ、若月厩舎のリーサルウエポン（父タヤスツヨシ）が秀峰・会津磐梯山を背に福島競馬場のダートコースを駆け抜けていく。<br />
　鞍上の依田犬介は手綱を通して伝わってくる抜群の気配に内心喜びつつ、足慣らしがオーバーワークにならないよう馬をなだめた。<br />
　歴戦の古馬ということもあり、リーサルウエポンは落ち着いたものだった。<br />
　すでに9歳という年齢ながら馬には傷んでいる様子はまるでない。むしろ今が全盛期といえるような好調さだった。<br />
　鉄製のゲートに１３頭の馬が収まり、前扉が開くと一斉に各馬が飛び出した。<br />
　やや出負け気味になったリーサルウエポンは慌てずに内への進路をとっていく。発走直前の単勝は3番人気（単勝オッズは6.5倍）。<br />
　転入緒戦としてはかなり期待を背負ってしまった感があるが、犬介は気楽に考えていた。<br />
　今回のレースで強力なライバルとなるのは関東のベテラン大道茂雄が手綱をとっているラクエンエース（父フジキセキ）である。<br />
　前走は中山の1000万特別戦で2着に好走、今回は万難を排して『ローカルの鬼』の異名をもつ大道を鞍上に配してきた（単勝オッズ2.8倍）。<br />
　大道はローカルに強く大レースでは用なしという、いわゆる一流と呼ぶには至らない騎手だが、乗った馬の持ち味を引き出す技術には定評がある。<br />
　ベテランならではの政治力があり、実力馬の騎乗を集めるのが得意で、彼が乗る人気馬はたいてい順当に首位を争う。<br />
　若手もその威光を恐れて無理にレースをかき回すことはしないため、ここ数年来、福島や新潟という東のローカル開催は彼にとって格好の稼ぎ場所になっていた。<br />
「おい、依田ぁ！」<br />
　隣を併走する鹿毛の馬上で騎手が言った。<br />
「人気馬に乗ってるからって余計なことはするなよ。ここもきっちり大道さんを勝たせろ！」<br />
　あまり人気のない馬に乗っている、犬介よりやや年上の若手騎手が大声で言う。<br />
　デビュー5年目の脇田寛という男だ。これといった成績もない地味な騎手である。眼が細く、いつもつまらなそうな顔をしている。<br />
　そんな男を犬介はゴーグルの下の眼で一瞥した。<br />
「うるせーな。そんなに先輩様が好きなら、汚ねぇケツでもなめまわしとけ、バカヤロウ」<br />
「なんだと―っ！」<br />
　脇田は怒り狂ったが、なにしろレース中だ。<br />
　犬介はさっさと頭を切り替えて先頭から二番手を追走しているラクエンエースを見やった。さほど離されてはいないし、十分に射程圏内である。<br />
　犬介には秘策があった。<br />
　たまたま以前から噂話に聞いていたのだが、それを試してやろうと3コーナーを過ぎたあたりでリーサルウエポンに進出を促した。<br />
　リーサルはやはり道営の猛者である。小回りの器用さは折り紙つきだった。スルスルと内側を加速して第4コーナーが終わる直線の入口で、1番人気、大道のラクエンエースに追いついた。<br />
　大道はぎょっとして後ろを確認する。超大型のリーサルが内側をあがってくるとは思っていなかったようだ。<br />
「コラ、とっつぁん！」<br />
　ぶしつけな言葉が犬介の口から発せられた。<br />
「腰痛が悪化してるらしいなぁ、おれと追い比べしようぜ」<br />
　2頭は併せ馬の形になって、騎手同士の追い比べがはじまった。<br />
　余力を残した馬がしのぎを削って前へ前へと突き進む。<br />
　後方からも末脚を温存していた馬たちが続々と押し寄せてくるものの、ゴールまでに飲み込まれる勢いではなかった。<br />
　そもそも1番人気を勝たせるお膳立てだったのだから、犬介にとってはベテラン1人の鼻をへし折るだけで充分だった。<br />
　残り50m地点でラクエンの脚色が怪しくなり、鞍上は力ない尻鞭をぺしぺしと叩いた。<br />
　余裕綽々の表情でリーサルウエポンは中央緒戦を飾った。<br />
「チキショ―ッ！」<br />
　検量室の前で大道が地面にむかって投げつけたヘルメットを、慌ててバレットが拾いにいった。<br />
　あの人どうしたの、と楓は犬介に尋ねる。<br />
「知らね……」<br />
　物凄い表情でこちらを睨み付けるその視線を浴びながら、涼しげな顔に玉の汗をかいた犬介は後検量のために検量室へと入っていった。<br />
　リーサルウエポンもまた全身に大汗をかきながら鼻の穴を大きくしている。<br />
「おつかれさん」<br />
　広く大きな鼻筋をナデナデしてやると、こちらのベテランは首を上下させ、誇らしげに鼻を鳴らした。<br />
<br />
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【　　　　　新馬　　　　　　函館　　1200m      　芝　　良　　　　　】<br />
<br />
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<br />
　翌日、函館競馬場。<br />
　快晴の良馬場発表となった開催に多くの競馬ファン、家族連れが訪れていた。<br />
「パパァーッ！」<br />
　広々とした馬主席の端から手を振る幼い息子に苦笑しながら、ネオブラッド・ジャパン東洋エリアマネージャー・鷹司忍は本馬場の大型ビジョンに目を移した。<br />
　そこには１頭の青鹿毛が、青地に黒い縦じまの勝負服をまとったジョッキーを背に佇んでいる姿が映し出されていた。<br />
　父は欧州の短距離王バーンズアロウ、母はフランスのディアヌ賞(G1)馬クレオパトラ。<br />
　超良血馬である。<br />
　調教と前評判からすでに単勝オッズは1.4倍となっている。<br />
　しかしスレイプニルと名付けられた馬は黒くつややかに見える馬体以外とくにこれといった特徴をもたない馬だった。鍛え上げられた強靭な筋肉もなく、雄大な馬格もない。<br />
「函館競馬場の雰囲気はいかがですかな、鷹司さん」<br />
　離れた席で数人の同じような馬主たちと話していた四谷和夫という老紳士が、仲間たちの輪を抜けて、競馬新聞を片手にやってきた。<br />
　四谷は大阪で菓子商を営む古株の馬主である。そして次の新馬戦には彼の持ち馬であるレザンウォーカーという馬も出走する。<br />
　レザンウォーカーは父サクラバクシンオーの快速血統馬である。調教の動きがよく、2番人気に評価されている(3.3倍)。<br />
　筋肉豊富な鹿毛の馬体は重量感があっていかにも走りそうだ。<br />
「ええ。とても見晴らしがよくて爽やかなところですね」<br />
「そうでしょう。札幌もいい所だが、あちらは都会ですからな。毎年、最初に新馬をおろすのは函館と決めているんですよ」<br />
　丁寧な言葉とは裏腹にその眼の奥は冷ややかに座っていた。<br />
　アラブの犬め、とでも思っているのだろうか。<br />
　産油国という巨額の資本を背景とした競馬組織『エクリプス』は各国にその名をはせている反面で多くの軋轢を抱えている。<br />
　競馬とは所詮、資本力の優れた者が勝つスポーツである。アラブの王侯貴族が圧倒的な資金にモノをいわせて他を屈伏させているように映るのは仕方ないことだ。<br />
　個人の財産で馬を走らせている者からすればさぞ鬱陶しく思えるのだろう。<br />
「ま、お互い楽しみましょう。もしかするとこのレースあたりは私の馬もがんばってくれるかもしれないからね」<br />
「ええ。好レースを期待しましょう」<br />
　嫌な顔のひとつせず、鷹司は答えた。<br />
「ところでね、あの馬はスレイ…なんとかっていうのはそちらの軍団では何番手くらいなのかね？　こう言ってはなんだが、あまり見栄えしない風に見えるんだが」<br />
　四谷は少し変わった質問をした。<br />
「おっしゃる通り、まだまだ仕上がり途上ですよ。だいぶ人気に祭りあげられてしまいましたが……しかし彼はクラシック路線のカテゴリーで言えば5本の指に入る実力者です。ああ見えてなかなかやります」<br />
「ほ、ほお……ではダービーが楽しみな存在ですな」<br />
　老馬主の言葉に鷹司は、いえ、と首を振った。<br />
「彼には年末の朝日杯とNHKマイルカップを獲らせる予定です。ダービーはまた別の馬が獲る予定ですので」<br />
　ゲートが開いた。<br />
「むう。ご存じかとは思うが、ならばあなたの元にはあの神薙厩舎のバケモノ馬を倒す実力をもった馬がいるということですな」<br />
　鷹司はさも当然という表情で「ええ」と答えた。<br />
　馬場ではスタートから熾烈なスピード比べが行われていた。<br />
　先頭を走ろうと懸命にレザンウォーカーが疾走する。しかし、そのすぐ外から黒い影が楽な手ごたえで易々とレザンのハナを叩いて先頭に立った。<br />
「現状で戦わせても勝てる馬は……おそらく2頭。ただし私のボスは気まぐれなので、気に入った馬なら海外で使うことも考えられますがね」<br />
　口元にこぶしを当てて鷹司は唸った。<br />
　その間にもスレイプニルは2番手以下を引き離していく。<br />
「しかし、あのシャイングロリアという馬もダービーまでに今より成長しているでしょうから、こちらもまたベストを尽くす必要があるでしょうね」<br />
　短距離戦だというのに快速が自慢の愛馬がすでに何馬身も千切られ、四谷は指を震わせていた。<br />
「な、なんだね、あれは」<br />
　場内のテレビ放送には１頭の馬しか映し出されていない。<br />
　馬主席がオオオという声に包まれる。<br />
　カメラがいっぱいに引いて撮影しても間に合わないほどの大差でスレイプニルは静かにゴールを駆け抜けていった。<br />
　出走制限がかかるタイムオーバーまでたっぷり3秒以上たって後方の馬群がゴールに到達する。その頃にはレザンウォーカーは最下位についていくのがやっとだった。序盤でスピードを出しすぎたのが禍したようだった。<br />
　四谷は癇癪ぎみにまくし立てた。<br />
「あれが、あれが5番手だと!?　大言壮語にしか聞こえんわ」<br />
「いえ、2400では間違いなくそんなものですよ。2000の中距離なら3番。そしてマイル以下ならば無敵です」<br />
　馬場にある電光掲示板に、赤いランプで『レコード』という表示がされていた。<br />
　無意識なのか、四谷の口から糞、という言葉が漏れた。そして、<br />
「皆が思っているぞ。おまえたちは、恥を知らない、し、侵略者だとっ！」<br />
　しわ顔を紅潮させて言い放った。<br />
「ご批判の気持ちは重々。たしかにこれではフェアな勝負とは呼べない」<br />
　馬とスタッフをねぎらいに行くために立ち上がった鷹司は小さな老人を見下ろした。<br />
　その瞳は冷たい井戸の底のような色をしていた。<br />
「だがね、踏みつぶされる者の気持ちをいたわって、こちらもいちいち勝負などできないでしょう？」<br />
「あ、あ……ぁ」<br />
　有無を言わせぬ迫力に気圧された四谷は、ただ恐怖に言葉を失った。<br />
<br />
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    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A1</link>
    <pubDate>Thu, 17 Jan 2008 02:58:02 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>2章　　中央デビュー！　①</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
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　一月が過ぎ、美浦トレセンに初夏の日差しが訪れる。<br />
　砂塵を舞い上げて、犬介を背にしたリーサルウエポンがダートコースを豪快に駆け抜けていく。<br />
その後ろを懸命に鏡子が騎乗したツバサオーが追走するも、その差は開く一方だ。<br />
「うーん、リーサルはそろそろ使えっかなぁ……」<br />
　コース脇のラチで双眼鏡をのぞいていた若月小次郎がつぶやいた。<br />
　競馬界では夏のグランプリ・『宝塚記念』を前にして北海道の函館から2歳馬たちによる新馬戦がスタートしていた。<br />
　道営の2歳戦を使われたことがあるツバサオーは未勝利戦からの再出発となるため未出走馬たちの出る新馬戦にはエントリーできない。<br />
　まだ馬体も緩く、必要な筋肉もついてないので問題はないのだが、小次郎の思惑としては良血馬たちがデビューを控えている秋開催の中山・東京よりもレベルの低いローカル戦を使いたいということがあった。<br />
　ツバサオーの父ミホノブルボンは中央競馬のクラシックレースである『皐月賞(G1)』と『ダービー(G1)』を勝った名馬である。<br />
　当時としてはまだマイナーだった坂路調教で、俗に『戸山流』と呼ばれたスパルタ調教で苛烈に鍛えあげられたことでも有名だ。<br />
　その武器は強烈な先行力。<br />
　デビュー以来、連勝街道をひた走り、無敗でダービーを制した。<br />
後続の末脚を完全に封じ込めるブルボンの、鉄馬のごとき『逃げ』に観衆は酔いしれ、彼を称えた。<br />
　血統的背景から長い距離が不安視された三冠の最終関門・菊花賞で本格派ステイヤーのライスシャワーの前に生涯たった一度の敗北を喫し、それ以後は故障とリハビリの繰り返しでふたたびターフに戻ってくることは無かった。<br />
　種牡馬としては残念ながらこれといった産駒は出していないが、小粒ながらその仔どもたちは総じて頑健で息の長い競走馬生活を送るといった特徴があり、地方リーディングでは安定した成績を残した良質のサイアー(種牡馬)である。<br />
　人間たちの気持ちを知ってか知らずか、ツバサオーは大きな欠伸を漏らした。<br />
「狙い目は札幌か……福島ってとこか」<br />
　小次郎の言葉にピンときた様子の翔太が、続けて口を開く。<br />
「いいなあ、北海道に帯同(遠征馬に同行すること)したら、ちょっとした旅行じゃないですかぁ。ああ、ススキノ……わが魂のふるさとよ」<br />
おまえの頭には遊ぶことしかないのかという目線を送りながら楓はツバサオーの小さな四白栗毛の馬体をタオルで拭いていた。<br />
「迷ってても仕方ないしな。よし、決めた！　ハルオは八月の札幌開催に使うぞ。来週からは坂路に入れて時計も出していく。ビッシビシ鍛えて、きっちり稼いでもらわないとな」<br />
　小次郎の方をチラッと見て、ツバサオーは眉をひそめるような顔をした。<br />
　入厩早々にゲンコツを食らったことを根にもっているのかも知れない。<br />
「ちょっとコジコジ、ハルオってネーミングは何なの？」<br />
　腕組みした鏡子が言う。<br />
「あはは、この仔の母親がアサノハルカゼっていうんですよ。だからハルちゃん。どっかの映画評論家みたいでいいでしょ」<br />
「アハハハハハハ」<br />
　鏡子は棒読み調に笑った。<br />
「でもこう見えて母系は優秀なんです。あの天馬トウショウボーイを産んだ名門ソシアルバターフライ系の出ですから。母父はアメリカ血統のバスタードモア。ちなみに母親は今はなき高崎競馬で２戦して繁殖入りという逆エリートコース出身です」<br />
　楓にはチンプンカンプンな薀蓄を、翔太は得意げに披露した。<br />
　平たくいえば実績のある血統から枝分かれした、傍流血統の出身ということである。<br />
　母の父バスタードモアは自身は米国の中距離G2を1勝しただけ馬だが、米国最大のレース、ブリーダーズカップ・クラシック(G1)を勝ったヴェイルドアンチェインの半弟という血統を評価されて日本に輸入された種牡馬だった。<br />
　ただし日本での種牡馬成績はさっぱり。<br />
　産駒には総じてスタミナ型の傾向があり、軽快なスピードが要求される現代競馬にはまるでふるわなかった。<br />
　種牡馬として一線を退いてからも新冠の獣畜センターで数年間にわたって供用されたが、今となっては行方もわからなくなり、一説には肉屋に売り飛ばされたとか十勝の米農家に買い取られて農耕馬になったとか判断のつかない噂がある。<br />
　そんな母系にこれも失敗の印象が色濃いミホノブルボンという血統の馬は、日高の小規模牧場あたりにゴロゴロいて買い手がつかず、牧場主が途方に暮れているようなイメージがある。<br />
　そういった意味では地方競馬出身とはいえ、粒ぞろいの良血馬たちが集う中央競馬にツバサオーが所属していること自体、すでに奇跡なのかもしれなかった。<br />
「血統どうこうよりもコイツはもう少しデカくなってもらわないとな。幸い脚元は丈夫そうだから鍛え甲斐あるぜ」<br />
　そういって小次郎が首筋を叩くと、馬はまたやる気なさそうにあくびをした。<br />
「食らいついてくような根性がないからねぇ、この仔は。のんびりやるよりもガッツリと教育したほうがいいのかも」<br />
　ツバサオーの『女好き』はあいかわらずで、隙を見せると埼京線の親父リーマンも真っ青のおさわりである。<br />
　その度に鉄拳制裁をしているものの、一向に懲りないのが楓の悩みの種だった。<br />
　牝馬を見たらすれ違うだけでも色目を使うし、かなりの変人ならぬ変馬だ。<br />
　この時点では周囲の誰もが、この馬のもつ並々ならぬ潜在能力に気が付きもしていなかったのは仕方ないのだが、それはまだ後の話である。<br />
　　　　　　　　　　　　　　「あのぅ……」<br />
「今週はプリ(シア)が福島の５００万条件に出走しますけど、熊さんにお願いしちゃっていいんですか」<br />
「おう、ジィさんのシーサンダーも一緒の福島だからな」<br />
「あ～あ、あたしは阪神まで出張だよ。新幹線は苦手なんだよなぁ」<br />
「マーメイドＳの有力馬に挙げられているフブキディザイアに乗るんですよね？　オークスで4着したって言っても3歳で古馬に挑戦なんて強気ですね」<br />
　　　　　　「すぃません……ぁの…」<br />
「陣営としてはずばり、美浦の豪腕・遠野ジョッキーの手綱に期待ってところだな」<br />
「誰が豪腕だ」<br />
　腕組みした小次郎に肩パンチを入れる。もちろん鏡子の腕は筋肉質だが細い。<br />
「……んっ？　あれ、浅野さん、いつからそこに？」<br />
　スーツ姿の小男にようやく気がついた小次郎がそう言うと、みなの視線が集まった。<br />
「ぁの……その、……さっきから、いたんですけど」<br />
　楓よりもさらに頭半分ほど小柄な、50代半ばくらいの男性は蚊の鳴くような声で言った。<br />
　一見して冴えない、バーコード頭にべっこう縁の眼鏡をしたオッサンである。<br />
（……誰なんですか？）<br />
　楓がそっと聞くと、<br />
「リーサルとハルオの馬主、浅野さん」<br />
「えええ～っっっ！！！」<br />
　一同は声をあげた。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「……すぃません…」<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　厩舎の休憩室に通された浅野は楓に出したお茶に、「熱っ…」と小さなリアクションをした。<br />
　向かい掛けのソファにどっかりと腰をおろした小次郎の背後から、楓はその姿を見ていた。<br />
　湯気で眼鏡がくもっていた。<br />
「きょうは2頭の様子を見にいらっしゃったんですか」<br />
　無言を回避するように小次郎が口を開いた。<br />
「は、はぃ……仕事で近くまで来たものですから……」<br />
「札幌からだと美浦はだいぶ遠かったでしょう」<br />
「は、はぃ……」<br />
「……きょうは暑いですね」<br />
「はぃ…」<br />
「………」<br />
「……………」<br />
　ときたま胸ポケットからハンカチをだして汗をぬぐったりして、浅野は視線を床におとした。<br />
　黙っていても威圧感のある小次郎がその相手をしていると、まるで『実録・闇金の取り立て現場』だ。<br />
　浅野は札幌で不動産業を営む事業主で、ホッカイドウ競馬の馬主資格は以前から持っていたのだが、この度、中央競馬の馬主資格も取得したので持ち馬を走らせることになったのだ。<br />
　といっても中央の調教師にコネがあるわけでもなかったので、道営競馬の盟主・伊達辰人調教師の紹介で小次郎が馬を預かることになったのである。<br />
「リーサルウエポンはいいですよ、徐々に調子をあげていますし、あと二週くらい追い切って中央デビューさせる予定です」<br />
「そぅですか、よかった。ぁの……ツバサオーの方はいかがですか」<br />
「ハル…ツバサオーの状態はこれからといった段階ですが、丈夫そうなのでレースを使いながら仕上げていくことにしました。札幌の未勝利戦を使う予定なので少しずつ調教量を増やしていきます」<br />
「札幌ですか…。でしたら家族で観戦にぃきたいですね」<br />
　そう言って浅野はにっこりと笑った。<br />
「ちょっと厩舎を見せていただぃてよろしいでしょうか…？」<br />
　ぎこちない笑顔を返しながら、小次郎はうなずいた。<br />
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【　　　マーメイドS　(GⅢ)　　阪神　　2000m    　芝　　良　　　】<br />
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　……正直いって、遠野鏡子は迷っていた。<br />
　リニューアルされた阪神競馬場の直線は長い。<br />
　ポンと好スタートをきったフブキディザイア(父ダンスインザダーク)は行き脚もついてそのままハナに立ち、向こう正面を依然として二番手以下に三馬身ほどの差をつけていた。<br />
　見た感じでは非常に小気味いい『逃げ』である。<br />
　しかしフブキディザイアは本来、ジワッと先行してそのまま好位抜け出しを図るのが理想的な先行馬だった。これからさらにペースがあがり、４コーナー過ぎて直線に入っていつもどおりの脚を使ってくれるかはわからない。<br />
　幸いなことに馬は走ることに集中している。<br />
　逃げが悪いわけではないらしい。<br />
　後ろから他馬が来てからがどうかだが、早めに仕掛けるよりギリギリまで粘って仕掛けを遅らせたほうがいい。<br />
　しかしそうすると……。<br />
　ちらと後方に見ると後方集団から人気の両頭、カヴァークラフト(父エンドスウィープ)とジェネティック(父スペシャルウィーク)がいい手応えでがこちらの様子をうかがっていた。<br />
　鞍上は牧昇二と若手の榊銀河。<br />
　そのさらに後方馬群にいる３番人気のシャインミドラーは明らかに調子が悪く、流れについていくのが精一杯といった様子で、騎乗する神薙舜も負担にならない程度にしか追っては来ないように思えた。<br />
　―――勝つためには１番人気、２番人気の両馬の末脚を封じ込めること。<br />
　だがこのままただのスローペースでは瞬発力に劣るぶん、長い直線でおそらく差し切られてしまう。<br />
　残り800mの標識を確認すると同時に、意を決して鏡子は鞭をかざした。<br />
「やぁぁっ！」<br />
　尻鞭と叱咤に応えて、フブキディザイアはグングン馬群を引き離しにかかった。<br />
　重複するが同馬の得意とする戦法は先行、粘り込みである。<br />
　実際にその先行策でオークスを４着した実績があり、今日もおおかたの予想では二、三番手を追走すると思われていた。<br />
　しかしスタートから先頭に立ったフブキディザイアは想像したよりもご機嫌なようで、それを後方のポジションにいる牧や有力ジョッキーが見逃すはずもない。<br />
　ならば、と鏡子が下した命令が『さらに突き放せ』だった。<br />
　後ろからのプレッシャーがかかる前に、攻めに転じることで撹乱させる。幸いなことにフブキディザイアは３歳馬のために背負っているハンデも５２キロと、おあつらえ向きだ。<br />
　滑らかなカーヴを生来の器用さを利して加速していく鹿毛馬に、スタンドの観衆がどよめいた。<br />
　6馬身、7馬身とみるみるその差が開いていく。<br />
「あンのネェちゃん、やってくれるわ……。昇二兄さん！　そろそろ１番人気が行かんとこのレース、あの関東馬に持ってかれまっせ！」<br />
　ジェネティックに騎乗する榊銀河が外側を併走する牧に言った。<br />
「あか～ん！　オレの馬は一瞬しか脚が使えへんからココいったら終いやで！」<br />
　ゴーグルの下で牧はニヤッと笑う。<br />
　この古ダヌキが、と榊は笑みを返しながら密かに悪態をついた。<br />
　差し馬同士が牽制しあうことも鏡子の策である。<br />
　一度、勢いをつけた馬は何度も加速できるものではない。先頭でゴールを駆け抜けるためには先行馬の粘りを考慮してラストスパートしなくてはならない。<br />
　むろん前の馬を差したからといって後ろから来た馬に差しきられては元も子もない。<br />
　そんなことをしている間にも先頭をひた走るフブキディザイアは早くも最終コーナーを回りきって直線に踊り出ようとしていた。<br />
　二番手との差はおよそ4馬身。<br />
　スタンドから割れんばかりの喝采と歓声が上がる。<br />
　鏡子はふたたび後ろを見て、両腕で馬の首筋を押し込んだ。<br />
　フブキディザイアは精一杯の力をふりしぼって後続に追いつかれまいと疾走した。<br />
　いわゆる早仕掛けであったにも関わらず、その勢いはまだ落ちない。<br />
　鏡子の作戦は狙いどおりのドンピシャだった。<br />
　後方馬群も追走に脚をいくらか使わされており、多くの馬がペースを乱してもがいていた。<br />
　残り200mを過ぎるとさすがにフブキディザイアもバテる様子をみせたが、あと少しだ。<br />
「もう少しだよ、がんばって！」<br />
　鋭い声とともに鞭が飛ぶ。<br />
　鞍上に応えるように馬はもう一度伸びた。<br />
　残り50……40……20……10……5……<br />
　逃げ切った！<br />
　と、確信したその時。<br />
　内と外、鋏まれるようにしてほぼ同時に後方から馬体が合わさった。<br />
「ご苦労サン♪」<br />
　ゴールライン上、獲物をきっちりクビ差だけ交わした牧の口元が不敵に微笑む。<br />
「………！！！」<br />
　少なからぬショックを受けながら鏡子は悠然としたその背中を見送った。<br />
　また、だ――。<br />
　目一杯の競馬をして馬の力を引き出した。<br />
　会心の騎乗だったはずなのだ。しかしそれでも届かない。<br />
　関西に遠征して、これまで鏡子は一度も重賞レースを勝ったことがなかった。どんなに強い馬に乗せてもらっても必ずその先には同じ背中があった。<br />
　悔しさのあまり奥歯を噛み締めていると、すぐそばで、<br />
「ああああ――っ、またや！　また負けてもぉた――ぁっっっ！」<br />
　と大きな声が上がった。<br />
　声の主は２番人気ジェネティックに騎乗していた榊銀河である。<br />
　馬上で頭を抱えてもだえている。<br />
　榊はデビュー2年で関西所属騎手の十傑入りした若手のホープで、実家は大阪天王寺で有名な懐石料理屋を営み、自身も日本料理の調理師免許を持つという変り種だ。<br />
　よくしゃべる大きな口と柳眉に吊りあがった眼が特徴的な青年である。<br />
　鏡子はハッとして馬場の中央にある電光掲示板を振り返った。<br />
　フブキディザイアはアタマの差で３着の表示がされ、２着は榊騎乗のジェネティック。<br />
　どうやら２頭同時に交わされていたらしい。<br />
　神薙舜が手綱をとったシャインミドラーは５着。不調を思えばまずまずといったところだろうか。<br />
　鏡子は陰鬱な気持ちになりながら地下馬道にある検量所におりていった。<br />
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]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/2%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%E3%80%80%E2%91%A0</link>
    <pubDate>Sun, 06 Jan 2008 13:51:48 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>1章　　若月小次郎　⑪</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
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『――10万人のファンが、私が、そしてテレビをご覧の皆様がその姿を待ちわびておりました。前哨戦の阪神大賞典を制して復活を遂げた、二冠馬ジャムシード、淀に見参！　今ふたたびふき始めた、黄金の風！』<br />
　熱を帯びたアナウンスが電波に乗せられて日本中を駆け巡る。<br />
　本馬場入場を果たしたジャムシードと小次郎を落雷と歓声が迎えた。たくさんの傘、観衆が押し合いながら丸めた予想紙を振っている。<br />
　各馬が返し馬に入っていくなか、スタンドの熱狂に茫然としながら小次郎はその端から端までを見つめた。<br />
「ジャムシードは…」<br />
　ずっと無言で馬を引いていた徳永翁がふと、口を開いた。<br />
「ジャムシードはわしらだけの宝ではないんやな。こんなにも多くの人に愛されとる」<br />
　その気持ちが引き手を通して痛いほど伝わってくる。<br />
　まるで気遣うように、栗毛は老厩務員の頬に鼻先を近づけた。<br />
　小次郎は奥歯を噛みしめた。<br />
「徳ジィ、安心しろ。今日は絶対に勝たせてやる、相手が誰だろうとな。コンマ一秒でも速く勝って――」<br />
勝って、優歌の元へ。<br />
この俺が、みんなを守ってみせる――。<br />
グッと顎をあげて雨空を見上げると、小次郎の瞳には猛々しい闘志が戻っていた。<br />
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　鋼鉄のゲートが開かれ、日本競馬の最高峰、天皇賞のスタートが切って落とされた。<br />
　17頭は隊列をつくりながら向正面の芝コースを突き進む。<br />
　スタンドから、どよめきがあがる。<br />
『――な、な何と、ジャムシードが先頭を切る勢いでハナ(先頭)を主張します！』<br />
　好スタートというわけでもない平凡な発馬から、疾風の勢いで先頭に立ったジャムシードは力一杯に四肢をのばして雨馬場を切り裂いた。<br />
　小次郎の鞭が飛ぶ。<br />
　3200mという長丁場、春の天皇賞はここ数年、スタミナに自信の無い馬達によるスローペース化が懸念されるレースのひとつである。<br />
　ジャムシードはこれまでの勝ち鞍のそのほとんどが中団後ろからの差し戦法によるものだった。レースの終盤、3～4コーナーから徐々に進出して、直線で豪快に他馬を差しきる大味な競馬が身上である。<br />
　2番人気ヌミノバズラムを駆る斎藤平馬は最後方に控えながら舌打ちした。<br />
「あのガキ……」<br />
　長く手綱を張ったまま、みるみるジャムシードと二番手以下との差が開いていく。<br />
　先頭を奪ったら馬に息を入れさせるためにペースダウンするのが長距離レースのセオリーだが、小次郎はスタンドの前、一周目の直線に入っても逃げのペースを落とす様子は無かった。<br />
　気がつけば最後方のバズラムとは約25馬身の距離が開いていた。<br />
　縦長になった馬群が一周目のゴール前を過ぎていくと、大観声があがる。<br />
　二周目に入り、先頭から10～12馬身ほど離れて2番手を追走する江尻はただならぬ空気をまとって単騎逃げを打った人馬の背を見やった。<br />
「このまま逃げ切るつもりか……無謀だぞ」<br />
　独りごちて濡れたゴーグルを拭う。<br />
――それともすでに何か仕掛けているのか。<br />
　天才と呼ばれる牧と違って、小次郎の騎乗は策というより勘である。<br />
　それゆえに読みづらい。<br />
　(これは暴走ではないのか……？)<br />
　ある独特の嫌な感覚が、江尻の脳裏に浮かんだ。<br />
　単純に若月がペースを読み違えているとは考えにくい。ジャムシードが、いわゆる折り合いを欠いて『かかった』状態なのでもない。<br />
　ならば意図的に時計を縮めてペースを吊り上げているのは明らかである。さりとて、いかにダービー馬と言えど無尽蔵のスタミナを有しているわけでもない。<br />
　必ず何かがあるのだ。<br />
　答えのない疑問に焦りが生まれ、体に力が入った。<br />
　レース終盤、京都名物の3コーナー上り坂をジャムシードが駆け上がっていく。<br />
　すでにジャムシードはだいぶ息があがりかかっているが、充分な気配を股の下から感じつつ小次郎は口の端をあげた。<br />
　まさか――<br />
　ゴール前の鮮明なイメージが浮かんだ江尻の脳に突然、鋭い電流が走る。<br />
「ま……まずい！」<br />
　肩鞭を入れて馬を追う体勢に入ると、登り坂が馬のスピードを殺ぎ落とした。雨でぬかるんだ馬場もその進出を拒むように邪魔をする。<br />
　江尻の異変に、追走する馬群も一呼吸遅れて反応した。<br />
　本来、差し馬であるジャムシードの大逃げは、誰の目から見ても無理をしているようにしか映らない。スタート後の加速っぷりからしてなおさらだ。<br />
　しかし小次郎にとってハイペースでレースを作っていくフリをするのはせいぜい最初の2ハロン(400m)もあれば十分だった。<br />
　なぜか。<br />
　その答えは京都3200mという天皇賞の特殊なコース形態にある。<br />
　鍵を握ったのはスタート後、じきに訪れる『坂』――。<br />
　平坦な場所に比べて、上りの坂では物理的にスピードが殺がれて時計がかかる。ここで小次郎は密かにペースを抑えて登っていた。<br />
　後続の騎手たちはジャムシードの『大逃げ』に錯覚し、むしろ自分たちの馬が速度を上げたように勘違いをしていた。<br />
　二番手を追走する江尻騎乗のグランブルーが重馬場を苦手にしていることも小次郎の作戦にとっては好都合だった。名手と呼ばれる江尻のペース判断は他の騎手にとって教科書のようなものである。<br />
　江尻が抑えたことにより、馬群は粛々とそれに従った。<br />
　坂を下りきると小次郎はふたたび拳を当てるくらいのわずかな力でジャムシードにゴーサインを出していた。そうすることによりまたジワジワと後続馬群を引き離した。<br />
　ここにもう一つの『罠』があった。<br />
　長距離のレースにありがちなことだが、一周目の直線で馬がゴール板に反応して勝手に疾走してしまうことがある。実際の勝負は二周目の直線なので、ここでいかに折り合いをつけスタミナの浪費を抑えるかが勝敗を大きく分けるのだ。<br />
　小次郎の狙いはそんな騎手心理やセオリーを逆手に取ることだった。<br />
　案の定、何頭かの馬がハミをとって加速しかけたが、鞍上が手綱を引くやそれを阻止された。<br />
　先頭との差はそれだけで開いていく。<br />
　こうしてジャムシードは自らの生み出したスローペースのなかを他馬に干渉されることなく10馬身ものリードを持ったまま二度目の坂の頂上に辿り着いていた。<br />
　痛恨のミスに気づいた江尻に反応した三番手以下の集団が一気にペースをあげて追いつこうとするが、追いかければ過酷な上りの坂が、さらに追いつこうとすれば際限なくスピードを加速させてしまう魔の下り坂が、追走する各馬に立ちはだかった。<br />
　坂の下りに入ったジャムシードは荒れた呼吸を正して、内ラチにぴったりと張り付いた状態から徐々にラストスパートの体勢に入ろうとしていた。<br />
　小次郎は馬上でそっと囁いた。<br />
「見えるかジャム」<br />
　規律的なストライドを刻み続けるジャムシードの耳がかすかに動く。<br />
「あのゴールが、俺たちの帰る場所だ」<br />
　遠く見えるゴール板は、静かに勝利を手にする者達を待っていた。<br />
　10万の観衆がスタンドから熱狂の声をあげる。<br />
「行ぃっけぇ――――っっっっ！！！」<br />
　二番手を大きく引き離したジャムシードが、最後の直線に入ってくる。<br />
　地鳴りとも、怒号ともつかぬ大歓声が空気を震わせた。<br />
　鉄のハミを噛んだジャムシードは苦しみながらも必死に脚を伸ばした。<br />
　残り1ハロンを過ぎても後ろからやってくる馬はいなかった。<br />
　そう思われたその時だった。<br />
「待ちやがれい！！！」<br />
　悪鬼のごとき形相で尻鞭を叩きまくる斎藤平馬を背に、最強馬ヌミノバズラムが驚異的な末脚で馬場の中央を切り裂いて追い上げてきた。<br />
「もう少しだ、ジャム！」<br />
　勝負は完全に2頭に絞られた。<br />
　1完歩、1完歩と若き黒鹿毛が栗毛の二冠馬を追い詰める。<br />
残り100mを切って前走、阪神大賞典の再現フィルムのように2頭の馬体が合わさった。<br />
　大歓声のスタンドから、徳永は祈っていた。<br />
　熊五郎も、神薙厩舎の仲間達も、10万のファンとともに叫んでいた。<br />
　小次郎は感覚のなくなった腕で、ジャムシードの首筋を押した。<br />
「そりゃ、そりゃ、そりゃ――っっっ！！」<br />
　泥まみれの斎藤が吼える。<br />
　小次郎も雄たけびを上げた。<br />
　もう少し、あと一歩だ。<br />
　勝てる……、絶対に、勝つ！<br />
「………うぁ」<br />
　しかし次の瞬間、小次郎の口からこぼれたのは小さな悲鳴だった。<br />
　深く踏み込んだジャムシードの右後脚がぬかるんだ地面を滑り、支えを失った馬体が腰砕けにバランスを崩した。<br />
　宙に放り出された小次郎の体が芝生に叩きつけられ、放り投げられた人形のように転がった。<br />
“あ……”<br />
　斎藤とバズラムの背中は見えなかった。激しい勢いで地面に打ちつけられ、芝生に前のめって小次郎は失神した。<br />
『あ―――っ、な、なんということだ！　ジャムシード落馬！！　競走中止！！！』<br />
　一瞬の静寂を置いて、場内から悲鳴と金切り声があがる。<br />
　各馬が決勝ゴールラインを越えたのを皮切りに数人の係員がコース内に飛び込んできた。<br />
　小次郎の身体が仰向けにされ、呼吸が確認される。<br />
　真っ暗だった。<br />
　何も見えない視界の向こう側で誰かが叫んでいる。「タンカ…早く持ってこい！」<br />
　何が起きたのか、わからない。<br />
　俺はどうしたんだ？<br />
　何をしていた？<br />
　ドロドロになった意識が次第に明けてくると体中が軋んだ。<br />
　とくに右腕はひどく鋭く痛んだ。<br />
「が…ごほっ」<br />
　瞼が開き、ぼんやりとした視界にレインコートを来た係員達が叫びあっていた。<br />
「タンカ持ち上げるぞ、ゆっくりだぞ！」<br />
　小次郎を乗せた担架が持ち上げられ、そばにつけられていた救急車へと運ばれる。<br />
「おい……ジャム、ジャムはどこだ！？」<br />
　朦朧とする意識と苦しい呼吸の下で、小次郎は折れていない左手で係員のそでを掴んだ。<br />
　顔も知らないその係員は、つらそうな表情を浮かべ、その目線で示した。<br />
　観客席に目隠しするように張られた青いビニールシートに囲まれたジャムシードは、鞍をつけたままこちらに背を向けて芝生に横たわっていた。<br />
　そのそばには白衣の医師が家畜用の注射を手に膝をついている。<br />
「……やめろ」<br />
　まだ生きているだろ、と小次郎は顔を歪めた。<br />
「……やめてくれ、そいつは……ジャムは俺たちの宝物なんだ……宝物なんだよ」<br />
　懇願する小次郎の瞳から涙がこぼれた。<br />
「やめてくれ……頼むから」<br />
　静脈に注射を打たれた栗毛はのたうつこともなく、小さく震えながら前脚で二度宙をかいて、静かに事切れた。<br />
「あ…ぅあああぁあ―――っっっ！！！　ジャム、ジャムッッ！！　…」<br />
　暴れ始めた小次郎の体は医師たちの腕に押さえつけられ、救急車の扉がバタンという音とともに閉ざされた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　京都府内のとある病院の一室に、柔らかな風が訪れてカーテンを揺らしている。<br />
　穏やかに晴れた空はまるで嘘のように深い青さをしていた。<br />
　昏睡状態に陥っていた小次郎はレースから3日経った水曜の朝に目を覚ました。<br />
　病室のベッドから仰向けに見える天井は、無機質に白い。<br />
　右腕は緊急手術が行なわれ、肩口にまで及ぶ見たこともない長さのギプスに包まれていた。その他にも打撲の痛みなどあったが、とりあえず命に別状はないようだ。<br />
　ジャムシードが死んだ――。<br />
　途切れる前の記憶をぼーっとしながら思い出す。<br />
　抑えたい思いとは裏腹に、目尻に溜まった涙がこめかみを伝った。<br />
　病室のドアが開き、見覚えのある女性が入ってくる。<br />
「小次郎、おはよぉ～☆」<br />
　婉然と微笑む、妻の優歌だった。<br />
　妻は涙を流している小次郎にむかって、意地悪そうに、「何泣いてるん？」といって枕元に置かれた椅子に座った。<br />
　柔らかなその手が小次郎の頭を撫でる。<br />
「なにを泣いてんねん。あんたは精一杯、がんばったやんか」<br />
「でも……俺」<br />
　優しい言葉に、小次郎は声を詰まらせた。<br />
　優歌はクシャクシャになったその顔を覗き込んで目を細めた。<br />
「ウチな……いつでも一生懸命な小次郎が好きやねんで。いっぱい、いっぱいがんばる小次郎のことが好きや。ウチは何でも適当やからね……だから、どんなに今が辛くても、くじけんといて、小次郎」<br />
「ああ……」<br />
　小次郎は頷いた。<br />
　窓から入ってくる風は山の匂いがした。<br />
　しばらく時間を置いて、ふと言いにくそうに優歌が切り出した。<br />
「あんなぁ、ウチ……もう行かなあかん」<br />
「何、言ってんだ……」<br />
　そういえば、交通事故に遭ったはずの優歌がどうして自分を見舞いに来られる――。<br />
　狼狽する小次郎の額に静かにキスをして、優歌は立ち上がった。<br />
「ホンマはね、ごめんやねん。ずっとずっと小次郎と一緒にいたかったけど、あかんようになってもうた。ただ最後にお礼が言いたくて……小次郎と出逢って、こんなに好きになって、愛し合えて、ほんまにうれしかった……ありがとう」<br />
　ああそうかと小次郎は思った。<br />
　これは夢、夢なんだと。<br />
　だけど何だろう、胸が苦しかった。<br />
　聖母のように微笑む妻の顔を見上げながら、「おれも…」、小次郎も言いかけた。<br />
<br />
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　いつも、ありがとう。<br />
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　まばゆい光が転回し、ふいに漆黒の闇が訪れる。<br />
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<br />
<br />
<br />
　今一度、目を覚ますと枕元の椅子には深くうつむいた舜が座っていた。<br />
　夕焼けに赤く染まったカーテンがたなびいている。<br />
「舜……」<br />
　先ほどよりも体の痛みが尋常ではない。<br />
「義兄さん……」<br />
　詰襟姿の舜の表情は、見たこともないほど暗かった。<br />
「―――姉さん、死んだよ。お腹の赤ちゃんも。最後まで苦しみながらずっと義兄さんの名前を呼びつづけてた……結局、来てくれなかったね」<br />
「舜……」<br />
「かわいそうだよ、姉さん……かわいそうだと思わないか？」<br />
　肩を震わせて舜は言った。<br />
　――コレハ、現実ダ。<br />
「絶対に、許さない……。姉さんを見捨てたお前を、絶対に許さないからな……！」<br />
　舜の瞳からこぼれた涙が病室の床にいくつもの染みをつくっていった。<br />
　窓外の夕暮れの空に、家路を往く子供達のにぎやかな歌声が溶けていく。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　数日後、若月小次郎は誰にも行き先を告げずに消息を絶った。<br />
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　若月厩舎の脇道を一台のオートバイが音を立てて通り過ぎていく。<br />
「……ぶえぇぇ……いぎっ、いっ」<br />
「楓さんの泣き顔、ほんとにブサイクですね」<br />
　話の終盤から耐えられずに泣き出していた楓に、ソファの隣に座った翔太が冷静に言った。<br />
「う、うるひゃいっっ!!」<br />
　顔に押し当てていたタオルに涙で落ちたファンデーションやらマスカラやら何やら色々と付着してたしかに……見た目はひどい。<br />
　コーヒーを飲み干したマグカップの底に目線をおとしていた熊五郎は眼鏡を直して小さくため息をついた。<br />
「テキ(調教師)がまた競馬界に帰ってこれたのは奇跡じゃよ。病院から勝手に退院して以来、数年間ずっと誰とも音信不通じゃった。それがある日ひょっこり調教師試験に合格したから力を貸してほしいと、わしに連絡をよこしたんじゃ」<br />
　翔太はめずらしく沈んだ表情で頭を掻いていた。<br />
「それじゃ、今でも先生はかつての義弟さんに恨まれたままで……何だかやりきれないですね」<br />
「ぞ、ぞんながわいぞぅ…」<br />
「楓さん……鼻水出てますから」<br />
　鼻をかんだティッシュペーパーを楓がゴミ箱に捨てていると、煙草を吸いにきた犬介がステンレスのドアをガラッと開けた。<br />
「うほっ……なんだその汚ねぇツラ」<br />
「う、うるひゃいっ!!」<br />
　休憩室の天井に犬介の吐き出した煙草のケムリが悩ましげな形で滞留する。<br />
「犬介さんは先生のこと知ってたんですか」<br />
「何となくはな。俺が初めて小次郎先生に会った頃にはもうだいぶ落ち着いていたようだったし、何回か話してくれたことはあったぜ」<br />
「初めて会ったのっていつ頃です？」<br />
「さあ……旭川で中坊やってた頃だからかれこれ６年前かな」<br />
　失踪していた間のことは犬介もあまり知らないらしく、また興味なさそうだった。<br />
「過去がどうこうなんて俺たちにゃ関係ねぇ。小次郎先生は、小次郎先生だ。今まで通りうまくやってきゃいいんじゃね―か？」<br />
「そうじゃの……」<br />
　熊五郎がうなずくと、それまで黙っていた楓がソファを立ち上がった。<br />
　その表情は強い決意に満ちていた。<br />
「あのさ、こんなこと言い出して笑われるかもしれないけど。勝とう……勝とうよ、ダービー。勝ちたい。いつになるか分らないけど、先生が目指したダービーをまたみんなで勝って、表彰台に立たせてあげようよ」<br />
　まるで夢のようなことを楓は言い出したが、その場に居合わせた者には誰一人としてそれを笑う者はいなかった。<br />
　漠然とした希望ではなく、勝つ――。<br />
「ま、俺は最初っからそのつもりだけどな」<br />
「いいですね。僕も本気で勝ちたいですから、ダービー。やりましょう」<br />
「よーし、わしもやるぞい。世間をアッと言わせてくれる」<br />
　おお――っ、と意気上がるその傍ら。<br />
休憩室の外の壁に立つ、男の気配に気付く者はいなかった。<br />
　いや、いた。<br />
　寝わらを踏む音がして馬房からプリシアが首をのばした。<br />
　ムフーッという鼻息を立てて寄せてきた鼻先に、そっと手が触れる。<br />
「ダービーを勝つ、か……」<br />
　小さなつぶやきとともに小次郎は目を細めた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://kaedeikki.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/1%E7%AB%A0%E3%80%80%E3%80%80%E8%8B%A5%E6%9C%88%E5%B0%8F%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%80%80%E2%91%AA</link>
    <pubDate>Fri, 07 Dec 2007 07:22:16 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>1章　　若月小次郎　⑩</title>
    <description>
    <![CDATA[<br />
<br />
<br />
「……ごめん」<br />
　馬優先と書かれた標識の立った欅並木の道を歩いていると、すぐ後ろを歩いていた優歌がつぶやいた。<br />
「あ？」<br />
「だから、ごめんて。仕事の邪魔して怒ってるんやろ？」<br />
「別に」<br />
「どっちやねん……」<br />
　怒ってねぇよ、と苛立った口調で小次郎が言い返すと優歌は幼女のように頬を膨らませた。<br />
「なんやねん」<br />
その目元がじわっとゆるみ出して、前へ進むべき足が止まった。<br />
「ウチかてな、家のなかでずっと1人やったら寂しいなんねん。赤ちゃんおるけど、まだお腹の中でしゃべられへんやんか……」<br />
小次郎の背中に向けて絞り出したその声は、か細かった。<br />
　乾いた土の地面にはらはらと涙がこぼれて落ちる。<br />
「最近の小次郎、ウチに冷たい……」<br />
　動揺した小次郎が、しゃがみこんだ妻のもとに駆け戻ってきた。<br />
　小次郎は下唇を噛みしめて厳しい表情を浮かべた。<br />
　優歌はひとしきりグズって、小次郎はその間ずっとしゃがんでいた。<br />
　どのくらい経っただろう。<br />
「ごめん」<br />
　優歌は赤くなった鼻に手の甲を当ててチン、と鳴らした。<br />
「……いや、オレの方こそ悪かった。謝るよ」<br />
　沈痛な面持ちで頭を垂れる。<br />
　優歌はむすっとした顔で小次郎を見ていたが、急に両腕をつかんだ。<br />
「じゃ、おんぶしてや」<br />
「はぁ～？」<br />
　ニッと笑って両手を振り始める。<br />
「おんぶ、おんぶ、オ・ン・ブ☆☆」<br />
「ま、待て、トレセンでそれはマズイだろ。そんなの見られたら…」<br />
　――立場がなくなる。<br />
いや、キャラが変わる。<br />
　みるみる小次郎の顔は青ざめていった。<br />
「……ちっ」<br />
　アパートまでもうすぐだが、優歌はまた頬を膨らませて口を尖らせている。<br />
　小次郎は相変わらず前を黙々と歩いていた。<br />
ただし、その後ろ手には人差し指同士をつないでいた。おんぶはＮＧだったが『手をつないで帰る案』で小次郎が妥協したのだ。<br />
「ていうか、指やんか」<br />
　というツッコミも、嫌ならやめるぞという一言でしぶしぶ優歌も承諾した。<br />
「小次郎」<br />
　歩きながら鼻歌を歌っていた優歌がふと夫の名前を呼んだ。<br />
「ん？」<br />
「うちらの子供が歩けるようになったら、3人で琵琶湖いこ。ピクニックや」<br />
「……そだな」<br />
　小次郎は背中越しに答えた。<br />
「ウチな、めっちゃうまいサンド作るで。んで、水筒と敷く物もってってやなぁ。わっはぁ、これホンマ、ただのオバハンの発想や」<br />
　ププッと笑い出す。<br />
「……だったら、その場にいる俺もただのオッサンやなぁ」<br />
　もともと関西人ではない小次郎は優歌の訛りを真似してそう言った。<br />
「あははっ、そう！　そやね。楽しみやわぁ、めっちゃ楽しみ」<br />
　玄関のドアのところまで辿り着いて、鍵を探してポケットに手をつっこむ。<br />
　―――あちゃ、鍵、厩舎に忘れたな。<br />
「おい、鍵…」<br />
　呼びかけて振り返ったその瞬間、小次郎の目前でたった今まではしゃいでた優歌がスローモーションで、水鳥の羽毛のような軽さで土のうえに横たわった。<br />
「ゆっ…」<br />
声にならない叫びが小次郎の口からあがった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
【　　　199－年　　5月　　　天皇賞・春  (G1) 　　京都　　3200m 　   17頭立て　　　　　】<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　列車はのんびりとした田舎風景の中をゆっくりと走り抜けていく。<br />
「舜、ごめんやで。ほんまやったら一人で大津くらい行けるのに」<br />
　優歌は大きなため息をついて肩をすぼめた。<br />
　産婦人科の定期検診のため、栗東から大津の病院にむかう車中である。<br />
　姉と弟は横に並びながら座っていた。<br />
「いいってば。こないだ家の前で倒れちゃったんでしょ。何かあったら大変だろ」<br />
「小次郎にめっちゃ心配かけたしなぁ、軽い貧血やってんけど。マイベイビーになんかあったら取り返しつかんし……ふがいない姉でスマン」<br />
　と言って優歌はうなだれた。<br />
　日曜の車内は明るく賑わっていた。<br />
　行楽に向かう家族づれに、学生とおぼしき私服集団、街に買い物にむかうでろう老夫婦。それを見ていた優歌がふと、こんなことを言った。<br />
「なあなあ、これって家族ちゃうか？」<br />
「え、どういうこと」<br />
　けげんな表情で舜は尋ね返す。<br />
「ほら、この電車の中にはおじいさんとおばあさんがおって、オトンとオカンがおるやろ。おにいとおねえがいて、おチビちゃん達もおるで。これって家族やんか」<br />
「あ、そうか」<br />
　車内をあらためて見回して、舜は姉の言っていることを何となく理解した。<br />
「きっとみんな、家族やねんな」<br />
　優歌は優しげに微笑んで、膨らんだ自分のお腹をさすった。<br />
　大津駅の改札を出て、姉弟は穏やかな人の流れの中をロータリーへと歩く。<br />
「バス停は……」<br />
　腕時計を見ながら舜はバスの時刻を確かめる。次のバスにはまだ少し時間があった。<br />
　古びた木製のベンチに座った優歌は、ロータリー脇の公園ではしゃいで遊んでいる子供たちを見ているようだった。<br />
「姉さん、ちょっとトイレ行ってくる」<br />
「あいよ」<br />
　ついでにお茶でも買ってこよう、などと考えながら舜は駅の公衆便所に向かった。<br />
　用をたして建物から出てくると、<br />
「嫌な雲だな……」<br />
　先ほどまで快晴だった空の端に黒い雲が見えていた。<br />
<br />
「ボク、あんまり道路の方いったら危ないで」<br />
　小さなサッカーボールを蹴っていた4、5歳の男の子。ボールの扱いに慣れていないらしく、その動きがおぼつかない。<br />
　やや心配して優歌は声をかけた。<br />
　周りの子供たちは自分たちの遊びに夢中である。近くに親の姿もなかった。<br />
　子供を一人でほっといたら危ないやんか、と心の中で思う。<br />
「あっ…」<br />
　不安が的中して、蹴り間違えたボールがバウンドしながら転がっていくのを少年が追いかけていく。<br />
<br />
　ちょっと―――<br />
<br />
　その先は悪いことに車の走っている道路だ。<br />
<br />
　アカンて――！！<br />
<br />
　耐えがたい衝動にかられて優歌は駆け出していた。<br />
「ちょっと何してんのんっ！　コラッ！」<br />
　身重の体では思うように動けない。<br />
少年の背中にむかって叫ぶと、今度は息が上がって苦しくなった。<br />
視界がくらくら揺れて、倒れこむようにして男の子を捕まえると、その子は驚いた声をあげた。<br />
「ハァ…あ、危ないから……む、向こうで、遊びや」<br />
　優歌が息切れしながら言うと、男の子は凍りついた目線で、こちらへ走ってくる軽自動車を見つめていた。<br />
「えっ…」<br />
　すでに車道に飛び出していた。<br />
優歌は状況を飲み込む間もなく、目を見開く。<br />
軽自動車を運転している主婦は、携帯電話を片手に大笑いしていた。<br />
短い間だが、全身が硬直して毛穴が開いていくのがわかった。<br />
　ドンという鈍い音が鳴るまでの、ほんの数秒のことだったが。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　電話口の舜は泣いていた。<br />
　ボロボロになった声で何を言っているのかわからない。<br />
ＪＲＡの職員に呼ばれ、パドック裏で電話を受けた小次郎はただならぬ雰囲気に頭の芯が締め付けられた。<br />
　まさか――。<br />
『義兄さん……ね、姉さんが……』<br />
　やっと絞り出した言葉は、最悪の知らせだった。<br />
　舜は嗚咽しながら、見知らぬ子供を助けようとして姉が交通事故に遭ったこと、そしてすでに病院に搬送されて現在は手術中であることを伝えた。<br />
　受話器を持つ小次郎の手が震える。<br />
　心臓の破れそうなほどの鼓動が止まらなかった。<br />
『義兄…さん、早く来て……姉さん、いっぱい血を吐いてた……無理かもしれない』<br />
　小次郎と話すことで少しずつ平静を取り戻してきたようだが、その言葉は弱々しかった。<br />
『義兄さん？』<br />
　黙っていた小次郎に訊ねる。<br />
「……わかった。舜、親父とオレが行くまでそこで待ってろ」<br />
『いつ来るの？　すぐ来れるの？』<br />
　いや、と短く答えて沈黙する。<br />
　決意して小次郎は口を開いた。<br />
「オレは、天皇賞が終わったらすぐに向かう」<br />
『な、なに言ってるんだよ！』<br />
　舜は明らかに困惑していた。<br />
『こんな時にそんな、そんな……たかが競馬じゃないか！　何言ってるんだよ！』<br />
「たかが、じゃない！！」<br />
　小次郎の怒声に周りの人間が驚いて振り返る。<br />
「たかがじゃねぇ……」<br />
　体の中で感情が濁流のごとく暴れ、小次郎の心を揺さぶっていた。<br />
だがそれでも今、自分がいる場所を忘れるわけにもいかなかった。<br />
ジャムシードが走る天皇賞まであと数時間もない。<br />
　その後、何を話したのか小次郎は覚えていなかった。<br />
電話を切ると目眩がして、よろめきながら小次郎は地下通路へと向かっていった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　朝方の五月晴れが嘘のように、午前中のレースが終わったあたりから、のしかかるような黒雲が空を覆い隠していた。<br />
　東側の山から遠雷が聞こえる。<br />
　ほどなく叩きつけるような大粒の雨が京都競馬場に降り始めた。<br />
「こりゃあ、だいぶ芝が滑るかもな」<br />
　パドックに隣接したジョッキールームから雨模様の空を見上げ、関東若手NO.1ジョッキー・斎藤平馬は渋い表情を浮かべた。<br />
親しみやすそうな大きな瞳と日に焼けた彫りの深い顔。顎に整ったひげを生やしている。騎手として理想的な小柄な身体は騎乗に必要な筋肉が隆起し、まったく無駄がない。<br />
29歳、脂が乗りはじめた中堅騎手である。<br />
「ブライアンズタイム産駒のバズラムは雨が苦手なのかい？」<br />
「正直いうとあまり良くないな。この雨じゃ極上のキレ味が発揮できないかもしれねぇ。まあ、それは他所様もだいたい一緒なんだがよ」<br />
　隣で腕組みしていた男、関東騎手リーディング4位・江尻雅樹はフーンと鼻を鳴らした。<br />
「こちとらリアルシャダイ産駒で雨はからっきし。願わくば今すぐにでもレースをしてもらいたいもんだね」<br />
　ひょろりとした長身の男だ。<br />
　狐を思わせる細面に切れ長の眼、ヘルメットからはウェーヴのかかった長い金髪がのぞいている。<br />
　斎藤とは同期のライバルだが、豪腕を誇る『荒武者』斎藤に対し、緻密な計算と他の意表を突く騎乗スタイルから江尻は『暗殺者』とあだ名されていた。<br />
　目線のさきには雨に打たれながら周回する彼の乗り馬グランブルーの姿があった。<br />
　鹿毛がぐっしょりと濡れて黒っぽくなって、腹の下にたまった水滴がとめどなく滴っている。<br />
「これじゃ商売あがったりだ……まったく」<br />
　天皇賞に出走する17頭が周回する、パドックの芝生のうえには傘をさした大勢の調教師、馬主が集まっている。<br />
　年度代表馬ヌミノバズラムもその黒鹿毛の巨体をしなやかに動かしながら、力強く歩く姿を見せていた。<br />
　昨年は菊花賞(G1)と有馬記念(G1)を奪取し、欧州の至宝と名高いスリープフォレストが来日したジャパンカップ(G1)では直線で猛追するもクビ差届かずの2着。<br />
　その実力は現役最強の看板に偽りなし。<br />
　だが――今年の始動戦となった阪神大賞典において、あってはならない大番狂わせが起こってしまった。<br />
　休み明けとはいえチャンピオンホースの称号をもつバズラムが、2年近くも戦列を離れてすでに過去の馬となっていた二冠馬ジャムシードに、だし抜けを食らう格好で敗れてしまったのだ。<br />
　無論、ジャムシードの鞍上はあの若月小次郎。<br />
　二冠馬の奇跡の復活劇に、競馬ファンと世間のボルテージは一気にあがった。<br />
　マスコミもファンも、バズラムと平馬のことなど忘れたかのようにジャムシードの大合唱である。<br />
　人一倍、努力家でプライドの高い斎藤にとって、その屈辱は言語に絶するものだった。<br />
　歯軋りしながら耐えた一ヶ月。<br />
　今、視線の向こうに仇敵の姿がある。<br />
　他馬と同じように濡れたままパドックを周回するジャムシードは長い首を地面すれすれまで伸ばしながら歩いていた。<br />
　パッと見たところあまり活気がないが、馬体のつくりは流石と思わせるものだ。<br />
「やっこさんも神妙な顔して……緊張してるんだな」<br />
　江尻はジョッキールームの端でうつむいている小次郎を一瞥して口笛を鳴らした。<br />
「阪神大賞典で負けたのはこのオレのミスだ。二度同じミスはしねぇ」<br />
　斎藤はそう断じて、こぶしに力をこめた。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
「止まぁーれぇー」<br />
　パドックに停止命令の声が響き渡り、厩務員たちが馬を止めると控え室の前に整列していた勝負服姿のジョッキーたちが小走りに馬へと駆け寄った。<br />
　ジャムシードにまたがった小次郎はレースでの泥対策として透明のゴーグルを二個用意していた。１つはすでにかけており、もう1つはまだ首にかけている。<br />
　ゴーグルの下のその眼は怒りとも焦りともつかない表情をしていた。<br />
「小次郎……」<br />
　下から呼んだのは白いスーツ姿に赤いスカーフを巻き、薄茶色のテンガロンハットをかぶった神薙調教師だった。<br />
　大レースにはいつもの正装である。<br />
　むろんダービーを勝った時も白のスーツだった。<br />
　帽子の下から覗いた眼は落ち着いているようだったが、その内心は窺い知りようも無い。<br />
「オヤジ……」<br />
　義父と目を合わせると小次郎はずっと我慢していた声を震わせた。<br />
「小次郎。この場を放棄しても、誰もお前を責めたりせぇへんぞ」<br />
「わかってる……でも俺」<br />
　溢れ出しそうになる涙を堪えると視界がぼやけて、思わずうつむいた。<br />
　股の下にいる相棒はいつもより静かで、枯れ葉のようだった。<br />
　復帰戦の阪神大賞典の時もそう思ったが、ジャムシードはもはや全盛期の力を維持してはいなかった。　<br />
「どうしても勝たせたいんだ……みんなの宝物であるジャムを、この手でもう一度てっぺんに立たせてやりたい」<br />
　手塩にかけて育てた愛弟子の言葉に、神薙調教師はうつむいた。<br />
「……わかった。わしは一足先に病院に向かうで」<br />
　ジャムシードの引き手をもつ徳永厩務員も、黙ってこぶしに力をこめているようだった。<br />
　雨はしとど降り続く。<br />
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    <pubDate>Sun, 02 Dec 2007 02:17:06 GMT</pubDate>
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