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2024/03/29 17:03 |
1章  若月小次郎 ⑧









「どうなんですか」
 双眼鏡ごしに見ている小次郎に隣から楓が訊ねた。
 素人目にみても相当に厳しいブロッキングだとわかる。
「どうにもならねぇよ、あれじゃ」
 少しして小次郎は首をふった。
「デビューもしてない新馬をオープン馬が本気で包むなんて、ありえないね」
 常軌を逸した多頭数併せに、鏡子がつぶやく。
 サラブレッドの2歳は人間で言えばまだ中学生である。
精神的にも肉体的にもまだ子供だ。皐月賞、ダービー、菊花賞といった、いわゆる『クラシック三冠レース』を走る3歳時ですらようやく高校生並でしかない。
 血統による差はあっても、アスリートとして充実するのは一般的に4歳以降。俗に言う古馬と呼ばれるカテゴリーに移ってからである。
 鬼童シャイングロリアはまさしく、3人の大人を同時に相手にしていた。
 しかもそのうちの1頭はダービー当日に行われる伝統のGⅡ、目黒記念を快勝した名うての先行馬だ。
 直線を向いた4頭が一杯に追われながら疾走する。
 鞍上の激にこたえて、オープン馬たちは四肢を伸ばしてそのトップスピードに上り詰める。
 誰の目にも真ん中のシャイングロリアの劣勢は明らかで、いずれ走る気力をなくしてやめてしまうように思われた。
「このままじゃ……」
 固唾を飲んで見守る人々にざわめきが広がった。


 激しく行きたがる馬の手応えを感じながら、舜はその時を待っていた。
 ――まだだ。
 前、左右を完璧にふさがれたまま、すでにはるか前方には白いゴール板が見えていた。
 とくに両サイドから挟まれてというもの、右から左から何度も馬体をぶつけられて、芦毛の我慢も限界にある。今にも火を噴きそうな気迫がふっつりと切れてしまう前に、温存した末脚を使わなければならない。
 しかし……。
 舜が狙っているチャンスは一度しかなかった。
 地鳴りのごとく鳴り続ける蹄音。
 風を切る馬上で舜は静かにその目を閉じた。
 全身の神経を研ぎ澄ませ、空間を把握する。
 4頭の馬の四肢の動き、騎手たちのアクション、その一部始終が極めて正確な映像として浮かび上がってくる。
 疾走する馬の最高速度はそれぞれ異なるものだ。
 一瞬の鋭い脚を使う者がいれば、ジリジリと渋太い脚を使う者もいる。 それら個性の異なる馬同士が長く走り続けることでいずれ差が現れ、そこに抜け出す隙間が生まれてくるのは道理である。
 だが、すでにゴールに辿り着くたった数十秒の間、その個々のスピードの違いから生まれる誤差のような隙間に突っ込んで追い抜かすのはGⅠ馬とて並大抵ではうまくいくまい。
 だからこそ舜は待ち続けていた。
 直線を向いて必ず訪れる、『その瞬間』を。
 お互いに鎬を削り合いながら4コーナーを回りきり、大きく脚先を伸ばしながら1完歩、2完歩、3完歩。
 そして、もう1完歩。
「……こっ、こだぁぁあっっっ!!!」
 双眸を見開き、渾身の力をこめて尻鞭を振り下ろし、もう一本の手でたてがみを掴むと力まかせにその長い首を押しこんだ。
 猛禽を思わせる猛々しい咆哮をあげ、灰色の獣は金属製のハミをがっちりと噛み込んだ。
 刹那、後方に蹴り上げられていたウッドチップが倍ほどの高さにまで飛びあがり、その馬体が人々の視界から消えた。
「何だ!?」
 先頭を走っていたシャインクウガの鞍上・森嶋武志調教助手は、その瞬間、背後からのしかかる殺気を感じた。
 悪寒が身体を突き抜けていく。
 それと同じ感覚を、馬も感じたのだろう。
 ヒン、という短い悲鳴をあげて両目をつぶり、ストライドがわずかにブレた。そのほんの拳ひとつほど先を闇色の塊が信じられない速度で駆け抜けていく。
 全身の毛穴から噴出する汗と、早まる鼓動を感じながら森嶋は体勢を保とうと必死だった。
「がっ! ぐああっっ!」
 突如として散弾のごとく飛来する木片。それは尋常な痛みではなく、口をついて悲鳴があがった。
 あっと言う間に先頭を奪われ、GⅡ目黒記念の覇者シャインクウガがなす術もなくズルズルと後退していく。
 残ったオープン馬2頭も必死に食い下がるものの、もはや7馬身、8馬身と差を広げられて競走どころではなかった。
 赤子の手をひねったような差をつけて、芦毛が猛然とゴール板を通過した。




「おい、写真撮ったか!?」
「来年のダービーはどうなっちまうんだぁ……アラブの馬に加えてあんな怪物まで混じってやがるたぁ……」
「それにしてもあの囲みをどうやって抜け出したんだ?」
「知るかぁ。けっ、ヤラセなんじゃねーのか」
 様ざまな声が飛び交う中、舜を乗せたシャイングロリアがダク足を踏みながら戻ってくる。
 天に向けてぱっくりとあけた口と鼻は呼吸を荒げ、全身から大量の汗を流して疲労感を漂わせていた。
 しかしその禍禍しいばかりの黒い闘気は衰えるどころか、なお激しさを増していた。
 二人の厩務員に馬を任せて下馬した舜もまた疲労困ぱいの様子だった。
 それでも鋭い表情と確かな足取りで馬主と調教師のもとを訪れて拍手をうける。
 とくにシャイングロリアのオーナーである二条院英悟は、満足げにその手を何度も握りしめていた。
「凄い……」
 楓は無意識につぶやいた。
 その横で熊五郎が眼鏡を触りながら、目を白黒させて言う。
「あの厳しいマークをどうやって抜け出したんじゃ? 内から抜けてきたからわからんかったぞい。先頭の馬がすこしヨレたようにも見えたが」
 周囲の無言とともに、まるでマジックを見せられた後のような錯覚がその場には残っていた。
 沈黙を破ったのは小次郎だった。
「ヨレたこともあるだろうが……おそらく『手前』だな」
 小次郎のこめかみを汗が伝った。
「直線で内の馬が手前を変える瞬間、そこにできるわずかな隙間に馬を突っ込ませたんだ。しかも、最初からそれを狙っていた」
「そんな!」
「!」
 現役の騎手である犬介と鏡子が、驚愕のあまり声をなくした。
 馬の走る仕組みはわかりやすい。
 人間でいうなら跳び箱を飛ぶ要領と同じで、2本の前脚(腕)を支えにして後ろ脚で蹴って走るのである。
 馬は基本的に人間のようにぴったりと前脚をそろえているわけではないので、必然的に片方の脚で体重をささえて連続して飛びつづけていかなければならない。
 片方ばかりで体重を支えて飛びつづけていれば単純に疲れてくる。
 だから交互に逆の脚に切りかえて走るのだ。
 この動作のことを『手前を変える』という。
 そして手前を替える一瞬、両前脚が完全に地面から離れるタイミングが存在する。その瞬間だけは前に推進するスピードが落ちるのである。
「手前を変える瞬間を狙ってって、……それじゃ神がかりだよ」
 鏡子の声に、ツバサオーが不思議そうに振り返った。
「いや、追い抜いてからあれだけの脚が使えるなら一旦後方にさげてからでも楽に差しきれたはずだ。手前の変化自体は騎乗している人間のクセと馬の脚色から判断できないことはない。ただ、隙間のない場所に突っ込むリスクを考えれば正気の沙汰じゃないがな」
 小次郎の手は微かに震えていた。
「けど……」
 続く言葉に誰かが唾を飲み込んだ。
「けど、……やっぱりウチには関係ねっか」
 急に照れた様子で、小次郎は豪快に頭をかいた。
 一同の間にしらーっとした空気が流れ、熊五郎あたりは思わず腰砕け状態になっていた。
「ま、まぁそうだよね、あんなバケモノ馬が未勝利とか500万条件戦を荒らすことなんてないもん」
「そ、そ―ぉですよねぇ! アハアハ、いいコトなのかな―?」
「けっ……ンなこと言ってて、情けなくねぇのかよ」
 小声で犬介がボヤく。
「とりあえずええんじゃ。わしらにとってはカイバ代をきっちり稼ぐ馬を鍛えることだって大事なことじゃて。のう?」
 そんなことを言い合う傍ら、誰も緊張した様子の小次郎に気づくことはなかった。
 いや。
 ただひとり、楓だけが気づいていた。
 サングラス越しの目線はまっすぐこちらに向かってくるその男の姿を捉えていた。
「舜……」
 そのつぶやきに周囲の声が止む。
 ほんの少し前に驚異の騎乗をみせたばかりのうら若き天才は、調教師としてはまったく無名な男の正面に立った。その全身から、どうしようもないほどの疲労感を漂わせながら。
 先日の牧昇二といい、ウチのボスは有名人の知り合いが多いなと楓は思ったが、友好的だった牧のそれと今回はだいぶ雰囲気が異なるようだった。
 先ほどまでの紳士然とした物腰と打って変わって、眉間にしわを寄せた神薙舜は小次郎の顔を正面から睨みつけていた。
「久しぶりだね、小次郎さん……いつ以来だろう」
 身長差でやや見上げる格好になりながら舜は低い声を放った。
 あまりにも露骨な憎悪のこもった声に、楓は頭痛を覚えた。
「まさか、またアンタがこの世界に戻ってくるとは思わなかったよ。どんな顔をして暮らしているのかと思っていたけど、つくづくアンタは自分を惨めだと思う感覚がないらしいね」
 小次郎は口を閉ざしたまま、じっと舜を見つめていた。
 その瞳には戸惑い、悲しみの色が見えた。
 かまわず、舜は次の言葉を言い放った。
「あの日のことを俺は一日だって忘れたことはないっ! 姉さんを孤独に死なせたオマエを、俺は永久に許さない!」
「!」
「ちょ、ちょっと神薙クンっ!」
 青ざめた鏡子の制止も聞かず、舜は小次郎の横をすり抜けていった。
 後には重苦しい空気だけが残った。
 事情を知っているらしい熊五郎がその肩に触れようとするが、小次郎はそっとサングラスの位置を直し、「……悪ぃ、先、帰るわ」と言ってその場を離れた。
 あまりの突然の出来事に誰もが声を失っていた。
 楓は、胸の鼓動がいつもの倍くらいの速さになっていくのを感じていた。





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2007/09/25 19:31 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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