「へぇ、そんなことがあったんですかぁ」
オレンジ色の夕日が差し込む薄暗い厩舎内。
夕飼いの飼い桶を馬房に配り終え、水道につないだホースで飲み水を足して回っていた翔太が言う。
「ま、でも僕らが何かできることじゃないですよね」
小柄な青年のまるっきり他人ごとといった口ぶりに、隣の馬房で乾草の塊をまいていた楓は何やらカチンときた。
「そ、そうだけどさ!」
楓には舜の言葉、立ち去り際の小次郎の寂しげな後ろ姿を思うと、どうしてもいたたまれない気持ちになった。
何があったのかも気になるが、かといって自分には何もできない。
当の小次郎は厩舎に戻ってからずっと自分の居室に引き篭もっていた。
「神薙ジョッキーもあんな人だとは思わなかった……。クールなだけじゃなくてもっと優しくて素敵な人だと思ってたのに」
「いやいや。モテ男さんはこう!ですからね」
といって翔太は握りこぶしを自分の鼻先にくっつけてみせた。
「こう?」
同じように拳を鼻のあたまにくっつける。
「そうです、こう!なんです」
「なに、天狗ってこと?」
「その通り」
翔太は大きくうなずいてみせた。
「勢いにノッている人間なんてみんな自分が正しいと思っていますよ。他人の気持ちなんかお構いなしなんです、きっと」
「そうかなぁ……なんか二人の間には深い事情があったみたいだけど」
楓は天井の梁を見上げて眉根を寄せた。
自然とため息が漏れる。
「ホッホ、すまんの」
長靴の裏が砂を噛む音がして、厩舎の中程の入り口に熊五郎が立っていた。
「テキ(調教師)のことじゃが……二人にも話しておかねばならんことがあるんじゃ」
あれから数時間しか経っていないせいか、いつもの好々爺たる笑みが影を潜めて、すこしやつれた表情で熊五郎はそう言った。
「先生の昔のこと、ですか」
察した楓の言葉に老厩務員はこくりと頷いた。
「いずれ知っておく必要のあることじゃて。ホホ……休憩室でコーヒーでも淹れながら話そうかの」
横に長い厩舎の東側にあるその居室は暗く、雑然としていた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか―――。
カーテンの隙間から差し込む夕日が、テーブルに置かれていた飲みかけのグラスに滲んでいた。
今しがた大きく吐き出した煙草のけむりが、細い光のなかを悩ましげに漂う。
「……」
雑誌や新聞が散乱した畳の上で小次郎は仰向けに身を横たえていた。
数年ぶりに再会した舜の眼は、以前と全く変わらない憎しみに満ち満ちていた。
『お前を許さない』
あの時もたしか……そう言ってたな。
ズキズキと胸が痛む。
【 1997年 3月 弥生賞 (G2) 中山 2000m 13頭 芝 良 】
早春の風が舞い込む中山競馬場に、クラシック本番を待つ桜の蕾が揺れていた。
荘厳な緑麗しいターフの上を駆け出した13頭各馬が、一斉に返し馬に入っていく。
3コーナーの中間ほどの外ラチ沿いに馬を停め、2番人気の黒鹿毛アンダーワールドに跨った牧昇二は、巷で流行りの歌を口ずさみながらあぶみの具合を確かめていた。
「さよならはぁ~、言わない~約束ぅ~やでぇ」
「あいかわらず音痴だな、おまえは」
後ろを振り返るとそこには競馬学校時代から寝食をともにし、華の同期と誉高い男の姿があった。
「ぁ、どれだけぇ~遠くにぃ、離れぇてもぅ~」
「何事もなく続けるな(笑)」
「なんやねん、精神統一のまっ最中やがな、こっちはぁ」
牧昇二は、デビュー4年目の若手ジョッキー・若月小次郎がまたがる1番人気ジャムシードの逞しい馬体を細くした眼で見やりながら言い返した。
460キロそこそこの栗毛の馬体が今日はいつにもまして盛り上がって見えた。陽光に照らされた体毛は黄金色に輝いている。
―――王者は休み明けでもぬかりなし、かい。
ジャムシードは前年、デビューから2戦は敗れたものの、その後は破竹の5連勝で暮れの朝日杯(GⅠ)まで登り詰めた2歳チャンピオンである(当時の年齢表記では3歳)。
父母ともに地味な内国産馬だが、その実力もさながら北海道日高にある小規模な家族牧場の出身ということもあり、すでに全国的知名度を持つお茶の間の人気者となっていた。
人気なのは馬だけではない。
ジャムシードの手綱を取る新鋭、若月小次郎にも世間の注目は大きく集まっている。
若月はデビュー初年度から同期の『天才』こと牧昇二と互角の評価を受けており、これまでの3年間でも異例のスピードで勝ち鞍を重ね続け、通算200勝をあげている。
華麗なテクニックと抜群のスタートセンスが売りの牧に対し、セオリー無視・野性味あふれる型破りな騎乗を得意とする若月。
冷静沈着な牧を氷とするならば、小次郎は燃え盛る炎だった。
また、いずれも異なるタイプながら、女性好きしそうな端正な顔立ちがブームを後押ししていることは紛れもない事実だろう。
そんな若武者二人が、既存勢力の織田・川嶋・田辺といった名だたる名手たちに挑む図式が競馬を知らない人々にもウケて、にわかな競馬ブームが起きていた。
「なあ牧、憶えているか? オレ達がデビューする前日にしたあの約束」
「……ああ。憶えとるで」
やや幼さの残る顔立ちの牧は苦笑ぎみに答えた。
「オレら二人ともダービージョッキーになるって、あれやろ」
「そうだ」
その表情から笑みが消え、小次郎ははるか遠くのゴール板を見つめた。
「オレはこいつで必ずダービーを獲る。いや、ジャムシードなら三冠だって夢じゃない。小さい頃からいろんな馬に乗ってきて、GⅠ馬の背中がどんなものなのかも知っている。こいつに必要なのは持っている力を発揮させてやることだけだ」
「そやな……ま、だからって道ゆずるほどワシもお人好しやないで。アンダーワールドにだって勝つチャンスはある思ってるし」
わかっている、と言って小次郎は豪快に笑った。
マスコミとファンの間で近頃、その馬体と躍動する走りっぷりから『黄金の風』とあだ名されるようになったジャムシードは、人間同士の会話にはまるで興味なさそうにしながら、黒曜石のような澄んだ瞳で遠くのスタンド席を眺めていた。
人間である牧は、戦友と、その愛馬の顔を見比べた。
「なあ…」
「ん?」
牧が何か言いかけたところを1頭の馬が前を通り過ぎていく。
「おまえたち、遅れるぞ!」
先輩のジョッキーだった。
大観衆の待つスタンドはただならぬ熱気に包まれていた。
ヘルメットのつばの上にあがっていたゴーグルを下ろす。
騎手を乗せた2頭のサラブレッドは弾むような脚取りで彼らを待つスタートゲートに向かった。
『――ジャムシード強い! 強い! 残り200メートルで完全に独走態勢、必死に追いすがる他馬を置き去りにして、今、ゴールイン!
圧巻の内容で皐月賞を制し、ダービーに王手をかけました――!』
連戦連勝の勢いをそのままに、ジャムシードは小次郎とともに、続くクラシック第一弾・皐月賞(G1)を制覇。
そして二冠がかかった運命の日本ダービー(G1)。
新緑の美しい東京競馬場のターフの上を、黄金の風が吹き抜けた。
その年の9月。
小次郎はかねてより交際を重ねてきた同い年の神薙優歌と入籍。
新婦は師匠でありジャムシードを管理する神薙調教師の愛娘だった。
この時、小次郎は確かな幸福の絶頂にいた―――。
しかし……
「どーなってんだっ!!」
激しい怒声とともに小次郎はその拳をテーブルに叩きつけた。
速報を告げる新聞の見出し。
『ジャムシード骨折 三冠、無残…』
帰厩を間近に控えた突然の報に、厩舎スタッフ全員が涙に暮れた。
呆然と立ち尽くす者、嗚咽を漏らす者。
みなに背を向けた神薙調教師の大きな背中もまた、微かに震えていた。
あわや競走能力を喪失するほどの骨折を克服し、ジャムシードがふたたびターフに戻ってくるまでに1年半の時間がかかった。
多くの人々の地道な努力の積み重ねによって、二冠馬は復活の狼煙をあげる。
のちに伝説とまで言われるようになる復帰戦・阪神大賞典(G2)において前年の年度代表馬ヌミノバズラムとの接戦をハナ差で勝利。
この時、3着以下は怪物2騎に15馬身差ちぎられていた。
勝利者ジョッキーインタビューで小次郎は、
「休み明けだから無理させる気はなかったけど、馬がその気だった」
と素っ気ないコメントを残した。
「義兄さ―ん!」
中学生になったばかりの、ブレザー姿の舜が大きく手を振って走ってくる。
「おう。今日はサッカー部は休みなのか?」
厩舎の洗い場で、厩務員とともに前脚に熱をもったとある馬の様子を見ていた小次郎が尋ねた。
「うん。週末が試合だから今日は体を休めとけって、監督が。今週の競馬はまたビデオだよ」
少しずつではあるが、舜は大人の階段をあがっていた。
日に日に成長していく義弟の姿に小次郎はたまに気が付く。
小次郎が神薙厩舎に新人騎手としてやってきた頃はまだ、舜は小学校の2年生だった。身長もグングン伸びて、あと数年も経てば肩を並べるようになるだろう。
時が過ぎるのは早いものだ。
後頭部でひとつにまとめた小次郎の長い髪がサラサラと風になびいた。
「ねぇ、今度また乗馬を教えてよ!」
「徳永のじーさんにでも教わったらいいだろ。ジジイ、むっちゃ喜ぶぞ」
いかにも面倒そうに言われると舜はかぶりを振った。
「義兄さんじゃないとダメだよ。ダービージョッキーの直伝じゃないとカッコつかないでしょ」
まっさらな笑顔で言われ、照れくさそうに小次郎は鼻頭をこすった。
「……ま、暇なときにな」
実際、小次郎は2週間後にせまったジャムシードの次の大一番である、天皇賞・春(G1)に向かって神経をとがらせていてそれどころではない。
週末もまた有力馬に騎乗しなければならないし、最近はろくに息をつく暇もなかった。
「そういや姉さんがね、またレモン買って来てって。妊婦さんてほんとに酸っぱいものほしがるんだね」
「いや、あいつは昔からレモンおばはんだからな。単純に好物なだけだろ」
「誰が『レモンおばはん』やねん、コ・ジ・ロー!」
「うおっ!」
突然の声に驚いて振り返ると、大きなユリの花の刺繍が入った桃色のワンピースに黒いカーディガン、そしてつっかけ姿の妻・優歌が両手を腰にあてて立っていた。
茶髪を頭のてっぺんで束ねて垂らし、やや濃いめの化粧の顔立ちは少し目尻の下がった形をしている。活発な印象を受ける娘だ。
優歌は明るい口紅を引いた唇を尖らせて小次郎のことを見ていた。
「ね、姉さん、来月が臨月なのに家から出てきて大丈夫なの?」
慌てて舜が訊ねた。
「えーねん。こないして歩くのも、えくささぁ~いずや、えくささぁ~いず。別にこの辺やったらぶっ倒れとっても誰か見つけるし。部屋でストⅡやりすぎて、目ぇがチカチカすんねやんか」
しれっと優歌は言った。
妊娠八ヶ月、そのお腹はポッコリと出てきている。
「家でおとなしくしとけって言ってるだろうが。ほら帰れ」
まるで邪魔だとでも言わんばかりに小次郎は言った。
「いややぁ、せっかく出てきたんやもん。すぐには帰りたない!」
厩舎から歩いて10分くらいの場所に住まいからどうやら優歌はテクテク1人で歩いてきたらしい。
お~い、という声が聞こえて2人の老厩務員がやってきた。
神薙厩舎の生き仏、御年68になる徳永善吉厩務員とその弟分の熊五郎である。
2人とも小柄で白髪頭だが、熊五郎の方が割合的に黒髪がまだかなり多い。
「ねぇねぇ、徳ジイ聞いたって! このチョンマゲのおっさんがなぁ…」
「チョ、チョンマゲのおっさん……」
ひととおり事情を聞くと、徳永爺はちりめんじわを目じりに集め、ニカッと茶ばんだ歯を見せた。
そして酒とタバコに焼けたしゃがれ声で、
「簡単なことやないか」
といった。
なあ、という徳永老に、隣で熊五郎が相槌をうつ。
「ホッホ、2人で少し散歩でもしながら帰ったらええんじゃよ。優ちゃんは小次郎さんにかまってもらいたくてわざわざ出てきたんじゃからのう」
熊五郎の言葉に優歌は耳たぶまで真っ赤に染めていた。
一同に返す刀で顔を見られ、小次郎は居心地が悪くなった。
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