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2024/04/27 08:05 |
1章  若月小次郎 1 - ③






                                                        3

 

 
「小次郎先生にあんなビッグな知り合いがいるなんて、知らなかった」
 バイクで一足先に帰った小次郎とは別に厩舎への道すがら、原付を押していた楓が言う。その隣にはあいかわらず両手をポケットに突っ込んだ犬介と安物のママチャリに乗った翔太がいる。
「おまえは知らなさすぎんだ。あの人はなぁ……ま、いっか」
「なによ、少しくらい付き合いが長いからって。教えてくれていてもいいじゃん」
「小次郎先生って元々は関西所属のジョッキーだったんですよね?」
 翔太の質問に、犬介は「ああ」と答える。
「今度しらべてみよ―っと。でも先生は牧さんと同い年だから、あの年齢で厩舎をもっていること自体が凄い事じゃないですか! 僕も将来は調教師をめざす者としてがんばらないとだぁ」
 “競走馬優先”と書かれた標識と背の高い木々の立った角を曲がり、見慣れた若月厩舎が見えてくる。
等間隔に並んだ馬房から顔を出した馬たちがこちらに気がつく。
楓たちを見つけて首を上下にふっていた1頭の馬が、短くいなないた。
 
 
 厩舎の朝は早い。
 調教コースの開門は5時。1000頭を超すサラブレッドと厩務員や調教助手がいっせいに入り乱れるわけではないが時間帯によってはかなり混雑をする。
「おつかれさん!」
 数頭の馬とすれ違いながら、坂路調教コースから戻ってきた犬介の跨る黒鹿毛の無口頭絡に引き手と呼ばれる金属製の止め具がついた縄紐をつけると、楓はその太い首筋を二度ほど大きくたたいて馬をねぎらった。
 息を荒くした馬はブフーと体にたまった空気を大きな鼻穴から吐きだした。
 馬は鼻から息をしているので、運動の後はとくに鼻息が荒い。
走る馬は鼻の穴が大きいというのは、体内に取り込む酸素量が多くなると同時に余分な二酸化炭素をより効率的に体外へと排出する機能が優れているためである。
猫科の動物を思わせるしなやかな身のこなしで下馬した犬介は、そのまますぐにスタンバイしていた翔太の引いてきた馬に乗り移った。
「オオノトレジャー、さっきも言ったがこいつは軽めのキャンターで一本目は流す。二本目は全体にやや強め、終いは13で行ってくれ」
 終い13というのは最後の1ハロン(約200m)を13秒の走破時計でまとめてくれという意味である。
 黒いキャップをかぶった小次郎は言いながら馬の四肢を目視、蹄鉄などの異常がないかを確かめた。
 2頭の馬がじゃれ合おうとするのを引き離して楓は黒鹿毛を別の場所へ引いていった。
 楓の仕事はここからである。
 馬を厩舎に連れて帰りそこで引き続き“引き馬”を行う。
若月厩舎ではコースでの調教の後には必ず1時間の引き馬をして馬をクールダウンさせる決まりとなっており、これが地味ながらキツイ。
なにせ馬にしてみればクールダウンだが付き合う人間にとってはクールどころではない。
 引き馬はただ馬を引っ張っていればいいのではなく決められた姿勢と速度で人間が馬を引っぱることではじめて成立する、れっきとした調教だ。
メンタルトレーニングとしての恩恵も高く、最近では長時間の引き馬は決して珍しいことではない。
調教用のゼッケンにはこの黒鹿毛の名前である『プリシア』という印刷がされている。
その下っ腹には汗がしずくとなって流れ落ちていたが、この後でシャワーで洗い流すためとくに何もしない。
馬の顔の真横に立ち、キビキビと引く姿はなかなか様になっていた。
「楓ちゃん、おはよう」
「おはようございま―っす」
「きょうは暖かくなりそうだね」
「おはよう」
 厩舎のそばで引き馬していると近所の顔ぶれに何度も顔を合わせるものである。赴任してからもう丸1年にもなるので周辺に顔見知りは多い。
中には挨拶をしても返さないような人間もいるが、それはほんの一部のこと。
総じてトレセンの人間は人懐っこくて親切だ。
 引き馬を終え、プリシアを洗い場につないでシャワーを当てていると、
「楓~っ!」
「あ、鏡子さん……また昨夜飲んでたの!?」
調教コースの方から帰ってきたらしい、芦毛の馬にまたがった美女が大きく手を振っていた。
関東騎手リーディング8位の遠野鏡子もまた三軒隣の大友宗人厩舎に所属するご近所さんである。
「ダハ~、なんでバレてるの」
 調教焼けした小麦色の肌にたっぷりとした長い黒髪。切れ上ったその瞳は力強く輝き、見るものを惹きつけた。
 上半身は萌黄色のポロシャツに下半身は黒のキュロットと皮製の長靴というごくありがちな騎乗衣だが、身長も160そこそこあって小顔でほっそりしたタイプなので非常に見栄えする。
 今年で26歳になるが楓にとって姉のような存在であり、尊敬するホースマンの一人だ。
「……でさ、今週はあんた競馬場に行くの?」
「はい。まぁ……また午前様ですけど」
 競馬に出走する馬に帯同していくが、午前中にレースを終えて帰るということだ。
この時期は午前中にはまだ一度もレースを勝っていない最下級クラスの馬たちが出走する未勝利戦しか番組がない。
「ねぇ、その仔は? はじめて見ますね」
 くりっとした黒瞳をした芦毛のメス馬だった。
運動の後なのでその体からは熱気がたっているが、表情は凛然としていてなかなかに落ち着きがある。
「チャチャヒメ、ってんだけどさ。大友厩舎に昔いたラインカールトン(GⅡ毎日王冠の勝ち馬)の妹だよ。上とは馬主が変わってだいぶフザケた名前になったわ」
 笑いながら言うと後ろ手に馬の大きな尻をポンとたたく。
 当の馬は人間の会話など、どこ吹く風といった佇まいだった。
 芦毛はもともと白いわけではなく、体の成長にともなって徐々に白い毛の量がふえていく。なので生まれた当初は真っ黒なんてことはざらにあるのだが、チャチャヒメは未出走ながらすでに3歳の春なので、どちらかといえば黒っぽい灰色に近かった。
「重賞勝ち馬の妹かあ、いいなぁ、あたしもそんな仔の面倒みてみたい!」
「アハハハ、コジコジの厩舎にいるうちは難しいかな。雑草血統が大集合だもんねぇ」
「こないだもオグリキャップの仔でGⅠ勝ったって、ゲームで子供みたいに喜んでました」
 はあぁ、というため息をもらす。
「大馬主を相手に営業トークって柄じゃないもんね。関係者エリアで大喧嘩したことならあるけど」
「そうなんです。やっぱりビジネスなんだから意地張ってても仕方ないと思うんですけど。若い先生たちも、後ろ盾がない人たちはペコペコしてるじゃないですか」
「うん、ま、あの人は昔っからあの気性だから」
 微妙な感情を含んだ鏡子の言葉は、まじめに悩む楓には聞こえていないようだった。
「ん~? 誰が美浦で最もかっこよく、キュートでセクシーな調教師だって!?」
 わざわざそう言い放って歩いてきたのは噂話の人物だった。
 細めのグラサンをかけた小次郎はコンビニ袋を片手に肉まんを豪快にほおばっていた。
「よう、鏡子。ほに¥?=:~#“!~@」
「コジコジ、しゃべる前にとりあえずそれ、飲み込もう」
 紙パックの緑茶をグイッと飲む。
「いやぁ、やっぱ調教後の肉まんとお茶は最高だぜ。おまえらも食う?」
 あなたは言うほど動いてないでしょ、という2人の目線ツッコミに小次郎が気づく様子はない。
「んむ?」
 小次郎はチャチャヒメに興味深げな視線を送ると、おもむろに馬体に触れた。
筋肉の質や太さをたしかめるように肩から膝下、尾端のあたりからヨロ、飛節と手を当てていく。チャチャヒメは嫌がることもなく、ときおり尻尾を鞭のように振った。
「こいつぁ……」
 高い鼻筋からずれ落ちたサングラスの下から小次郎の眼が鏡子を見上げた。
 ドキッとした鏡子の頬がみるみる赤みを帯びる。
「こ、この仔は未出走だけど、大友厩舎の期待馬だよ。チャチャヒメっていうの。来週の福島でデビューすんのよ」
「そうか……でも今の状態で出走したら惨敗するな。やめとけ」
「えっ」
 鏡子はさっと表情を曇らせた。
 ずれたサングラスを人さし指で直し、小次郎は紙袋から肉まんを取り出す。
「ふひろふもぉ」
「先生、口が」
 ふたたび緑茶で流し込む。
「……左のトモにだいぶ疲れが溜まってる。たぶん蹄鉄が合ってないんだな。早いとこ打ち直したほうがいい。このまま競馬に使ったらそのまま放牧せにゃならなくなるぜ」
 顔色を変えて言葉をなくした鏡子があわてて下馬する。
 気を利かせた楓が手綱をもち、クイと引っ張るとチャチャヒメは四肢の姿勢をなおした。
「ほんとだ。今日初めて乗ったからこんな感じなのかって思ったけど」
 左のトモ全体を押したり感触をたしかめて鏡子は納得したようだった。
「大友調教師に言う。こんなの、アタシが気が付くべきなのに…」
 鏡子は落胆の色を隠せずに肩を落とした。
「まあ、普通は厩務員が最初に気づくべきとこだ。無理にでも出走させる気なら言わねぇだろうけど」
 若月厩舎では毎朝、毎晩と小次郎が一頭一頭の馬体をチェックする。それに倣って犬介も30分ほど早く出勤して全馬をチェックするのが習慣になっていた。
むろん厩務員たちも担当馬を中心に毎日、朝昼晩と確認を欠かさない。
 おかげで開業以来、小次郎の厩舎から予後不良(安楽死)におよぶほどの大事故は起きてなかった。
「気が付かなかったのはアタシの責任だよ。こんなことしてられない、戻らないと」
「だから、オマエはすぐそう……自分を責めるのはな…」
 鏡子を諭す小次郎の姿を横で見ていて、楓はまるで兄妹のようだと思った。
確かにトレセンでは鼻つまみ者扱いの小次郎にとって数少ない友人の1人である。
だが楓が知るかぎり、その少ない友人達は皆一様に小次郎のことを強く慕っているようだった。
厩舎番頭の熊五郎や、犬介などもそうだが、彼らの信頼関係はあきらかにビジネスの枠を超えている。
小次郎に知り合ってから1年そこいらの自分はまだそこまで思えないだけに、どこかしら羨ましさがあった。
「じゃあね…」
 少し無理しながら笑みをつくった鏡子は、下馬したまま馬を引いていった。
 ふと楓は素朴な疑問を小次郎にぶつけてみたくなった。
「先生、どうしてさっきあんな簡単に馬の故障がわかったんですか」
 そう言われると、肉まんの生地がくっついた指先をなめながら、小次郎はウームと唸った。
「……脚だ、脚」
「へ?」
「遠くからおまえらを見つけてから、不自然にあの馬が何回か同じ脚を地面から持ち上げてたんだ。気になっているか、もしくは悪いもの抱えている可能性があるってことだ。そんくらいは一応疑わないとな。プロとして」
「はぁ……勉強になります」
「他人事じゃないぞ。つか、プリシアに水かけたままじゃねぇか! 早く拭かないと風邪引いちまうだろ!」
「ああ――っ! すいませんっ!」
 すっかり忘れていた。プリシアはずぶ濡れの状態で、「早ク拭イテ……」と言いたげな顔をしていた。
 金属の水こきを動かす手を早めながら楓は馬に何度もあやまった。
「楓」
「はい、はい?」
「3時に馬運車が来る。地方のホッカイドウ競馬から2頭ばかし転入してくるから、そのうちの1頭はおまえに面倒みてもらうことにした」
「へ???」
 たまたまではあったが、楓の担当だった馬が先週から長期の放牧に出されていた。
「わかりました。どんな仔が来るんですか」
「おまえに任すのは2歳だ。向こうですでに出走してるが、まだ未勝利だ。しかしダービー候補になるかもしれねぇぞ」
 洗い場の手すりにもたれかかった小次郎の口元がニヤリと歪む。
 そのくらいの気持ちでやれということだと頭の中で楓は解釈した。
「なんせ、クラシック二冠馬の息子だからな」
「ええぇぇぇぇええええ――っっっ!!!!!」
 厚手のタオルにくるまれるようになっていたプリシアのふたつの耳が蓋をするようにパタッと倒れる。
「先生、なんかドキドキしてきました」
「ま、大きなチャンスだと思って精進しろよ」
「はい!! はいはいはーい、はい、はい、はい!!!!」
「ハイは一度でいい……」
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2007/07/04 18:21 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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