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2017/09/24 15:33 |
1章  若月小次郎 1 - ①
 


 

       第1章             若月小次郎







                           1
 
 
 
 時間は遡る。
 ちょうど一年前。
 
 茨城県美浦村にあるJRA競走馬トレーニングセンター、通称『トレセン』。
 JRA(日本中央競馬会)に所属する競走馬のおおむね半数が、関東所属の競走馬として登録されこの美浦トレセン内の厩舎村で繋養されている。
 その名のとおりトレセンにはさまざまなトレーニングに対応した専用コースが設けられている。
 実戦と同じ芝生のコース(1800m)に始まり、海砂を敷き詰めたのダートコース(2000m、1370m)、脚への負担を軽減するウッドチップコース(1600m)、高低差18mの坂路コース(1200m)、調教用プール、木々と緑に囲まれ馬をリラックスさせる逍遥馬道、障害練習用馬場などがある。
 それら最新鋭の施設を活用してサラブレッド達は、日の出から各コースで調教助手や現役騎手を背に明日の優駿を目指して土を跳ね上げ、力強く疾走しているのである。
 
 
 
 午後の穏やかな日差しが横長の形をした厩舎の屋根に差しておろして、地面に影を落としている。
 その軒先で竹ぼうきを手にした小柄な娘はのんびりとしたテンポで腕を動かしていた。
 量の多い茶色の巻き毛に若草色のキャップを被り、上はピンクのポロシャツ、下は色落ちしたデニムを穿いている。
 深みのある黒い瞳が、真っ青な空を見上げる。
 厩舎村のはるか上空を翼を広げた1機の旅客機が通り過ぎようとしていた。
 娘は長い睫毛を2、3度しばたかせ、ふたたび何か思索を巡らすように視線を地上に落として黙々と作業を続けた。
 娘の名前は木下 楓。
 今年の4月で厩務員生活2年目になった新米である。
 厩舎ではすでに昼の飼いつけ(エサ)が終わり、10余りの馬房の馬たちは思い思いにくつろいでいた。
 馬栓棒の上から顔を出しているもの。
 食い終わった自分の飼い桶を名残惜しそうになめているもの。
 馬房内の壁にもたれるように立っているもの。
 何故か落ち着かずに狭い馬房内を歩き回っているものもいる。
「楓さんや」
 どこからか名前を呼ばれ、手を止めて見回すとまた声がした。
「ここじゃよ、ここ」
 厩舎の東側にある居室のドアが開いており、そこから見慣れた初老の男がひょっこり顔を出していた。
 ベテラン厩務員、南熊五郎である。
 年齢は楓よりも30歳近く上の大ベテランで、頭髪はとっくに真っ白になっている。
 顔の下半分にはたっぷり口ひげを蓄えており、それは昭和のナイスミドルを自称する熊五郎のトレードマークでもある。また、銀縁の眼鏡を長年愛用しており、その向こうには常に目尻の下がっている眼があった。
「どうしたの」
 そう言ってから楓は思い出した。
 今日の昼は熊五郎が炊事当番なのだ。
「すまんが、飯の用意がそろそろできるからテキを呼んできてくれんかの」
「はぁい。先生って今どこだっけ」
 ここでいう“テキ(調教師)”、“先生”とは彼らの所属する厩舎、若月小次郎厩舎の主こと若月小次郎調教師その人を指している。
「犬介と一緒にウッド(南D)コースに行っているはずじゃ。今日は例のお披露目会があるとか言ってたからのぉ」
「例のって」
「ほほう、知らんのか。今マスコミで大変な話題になっているウン億円馬軍団じゃよ」
「へえ……ぅんオク、うん億ぅ?」
「あ―っ! 知ってます、それ、それ!」
 手前の馬房から大きな声がして、汚れた白いキャップをかぶった若い厩務員が顔を出す。
 青年は、今年から配属された新人厩務員、中原翔太。競馬学校の厩務員課程では楓の一年後輩にあたる。
 翔太は全体的に子供っぽさを残した幼い顔立ちに無邪気な笑みを浮かべていた。
 調教師一家の末息子とあって翔太は馬の扱いが抜群に上手い。
 サラブレッドや競馬の知識も豊富で、海外にも詳しく、こと馬に関しては優等生を地でいくキャラクターである。
ただそのような業界内の環境で生まれ育ったためなのか、ときたま競馬について素人を小馬鹿にした発言をすることがあり、馬社会とはなんの縁もなかったド素人出身の楓には腹の立つことがあったりする。
しかし生来の明るさと、間違っていると思ったことには目上だろうが容赦なくはっきり言い、また自分が間違っていたことに気がつけば素直に非を認める所から、皆から可愛がられる弟分として厩舎に定着している。
「『ネオブラッド・ジャパン』の新馬たちが昨日から一斉に入厩したんですよね。今年から中央の厩舎にも馬を置くとかで。セリに出せば1頭1億円は下らないと言われる馬たちを一挙に20頭っていうんですから、さすがドバイの王様はちがいますよねぇ~!!」
「たしか去年、公営の船橋から南関東の三冠馬を出したんだよね」
「そう、グレイシーザー。今年の帝王賞もきっとあの馬です。秋にはジャパンカップダートで中央最強の砂馬クルワライゼンとの対決がありますよ」
 瞳をきらきらさせて翔太は言った。
「でもさ」
 楓が言いづらそうに口を開く。
「その、ネオブラッドって何なの? 会社?」
「うーん、平たくいえばオーナーブリーダーのようなものですよ。自前の牧場や資金を背景にサラブレッドの競走生活を総合的にプロデュースする会社ですね。世界的な知名度でいえば、ネオブラッドの母体であるドバイのチーム『エクリプス』とアイルランドの『マックガンヘイル』が覇権を争っている形ですかね」 
 翔太にとっては平たく言ったつもりでも楓には半分も理解できなかった。
 残念、と楓は心の中でひとりごちた。
 そしてたぶんこの男もあまり分かってないであろう、熊五郎が続けて言った。
「なら2人で行ってついでに少し見学してきたらどうじゃね。名馬の卵を見るのも勉強のうちじゃ」
「やったぁ! 楓さん、原チャリの後ろ乗せてください!」
「えぇ、ダメ! こないだ見つかって怒られたばっかじゃん」
「ちぇ―っ……なら立ちこぎで行きま~す」
 ブルル、という鼻音をたてて、翔太が出てきた馬房から鹿毛の馬が顔をだしてくる。翔太の管理馬で未勝利馬のスマイルジョン(牡3、父メジロライアン)である。
「牧場の庭先取引で400万円だったおまえには関係ないんだよー」
 背中をなめようとしてきた鼻先をポンと軽く叩いて、翔太は厩舎の奥に小走りで走っていった。
「じゃ熊さん、いってくるね。遅くならないようにするから」
 にっこりと微笑む老厩務員に言う。
「おお、いっといで。気ぃつけてな」

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2007/06/20 03:20 | Comments(0) | TrackBack(0) | 未選択

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