「……ごめん」
馬優先と書かれた標識の立った欅並木の道を歩いていると、すぐ後ろを歩いていた優歌がつぶやいた。
「あ?」
「だから、ごめんて。仕事の邪魔して怒ってるんやろ?」
「別に」
「どっちやねん……」
怒ってねぇよ、と苛立った口調で小次郎が言い返すと優歌は幼女のように頬を膨らませた。
「なんやねん」
その目元がじわっとゆるみ出して、前へ進むべき足が止まった。
「ウチかてな、家のなかでずっと1人やったら寂しいなんねん。赤ちゃんおるけど、まだお腹の中でしゃべられへんやんか……」
小次郎の背中に向けて絞り出したその声は、か細かった。
乾いた土の地面にはらはらと涙がこぼれて落ちる。
「最近の小次郎、ウチに冷たい……」
動揺した小次郎が、しゃがみこんだ妻のもとに駆け戻ってきた。
小次郎は下唇を噛みしめて厳しい表情を浮かべた。
優歌はひとしきりグズって、小次郎はその間ずっとしゃがんでいた。
どのくらい経っただろう。
「ごめん」
優歌は赤くなった鼻に手の甲を当ててチン、と鳴らした。
「……いや、オレの方こそ悪かった。謝るよ」
沈痛な面持ちで頭を垂れる。
優歌はむすっとした顔で小次郎を見ていたが、急に両腕をつかんだ。
「じゃ、おんぶしてや」
「はぁ~?」
ニッと笑って両手を振り始める。
「おんぶ、おんぶ、オ・ン・ブ☆☆」
「ま、待て、トレセンでそれはマズイだろ。そんなの見られたら…」
――立場がなくなる。
いや、キャラが変わる。
みるみる小次郎の顔は青ざめていった。
「……ちっ」
アパートまでもうすぐだが、優歌はまた頬を膨らませて口を尖らせている。
小次郎は相変わらず前を黙々と歩いていた。
ただし、その後ろ手には人差し指同士をつないでいた。おんぶはNGだったが『手をつないで帰る案』で小次郎が妥協したのだ。
「ていうか、指やんか」
というツッコミも、嫌ならやめるぞという一言でしぶしぶ優歌も承諾した。
「小次郎」
歩きながら鼻歌を歌っていた優歌がふと夫の名前を呼んだ。
「ん?」
「うちらの子供が歩けるようになったら、3人で琵琶湖いこ。ピクニックや」
「……そだな」
小次郎は背中越しに答えた。
「ウチな、めっちゃうまいサンド作るで。んで、水筒と敷く物もってってやなぁ。わっはぁ、これホンマ、ただのオバハンの発想や」
ププッと笑い出す。
「……だったら、その場にいる俺もただのオッサンやなぁ」
もともと関西人ではない小次郎は優歌の訛りを真似してそう言った。
「あははっ、そう! そやね。楽しみやわぁ、めっちゃ楽しみ」
玄関のドアのところまで辿り着いて、鍵を探してポケットに手をつっこむ。
―――あちゃ、鍵、厩舎に忘れたな。
「おい、鍵…」
呼びかけて振り返ったその瞬間、小次郎の目前でたった今まではしゃいでた優歌がスローモーションで、水鳥の羽毛のような軽さで土のうえに横たわった。
「ゆっ…」
声にならない叫びが小次郎の口からあがった。
【 199-年 5月 天皇賞・春 (G1) 京都 3200m 17頭立て 】
列車はのんびりとした田舎風景の中をゆっくりと走り抜けていく。
「舜、ごめんやで。ほんまやったら一人で大津くらい行けるのに」
優歌は大きなため息をついて肩をすぼめた。
産婦人科の定期検診のため、栗東から大津の病院にむかう車中である。
姉と弟は横に並びながら座っていた。
「いいってば。こないだ家の前で倒れちゃったんでしょ。何かあったら大変だろ」
「小次郎にめっちゃ心配かけたしなぁ、軽い貧血やってんけど。マイベイビーになんかあったら取り返しつかんし……ふがいない姉でスマン」
と言って優歌はうなだれた。
日曜の車内は明るく賑わっていた。
行楽に向かう家族づれに、学生とおぼしき私服集団、街に買い物にむかうでろう老夫婦。それを見ていた優歌がふと、こんなことを言った。
「なあなあ、これって家族ちゃうか?」
「え、どういうこと」
けげんな表情で舜は尋ね返す。
「ほら、この電車の中にはおじいさんとおばあさんがおって、オトンとオカンがおるやろ。おにいとおねえがいて、おチビちゃん達もおるで。これって家族やんか」
「あ、そうか」
車内をあらためて見回して、舜は姉の言っていることを何となく理解した。
「きっとみんな、家族やねんな」
優歌は優しげに微笑んで、膨らんだ自分のお腹をさすった。
大津駅の改札を出て、姉弟は穏やかな人の流れの中をロータリーへと歩く。
「バス停は……」
腕時計を見ながら舜はバスの時刻を確かめる。次のバスにはまだ少し時間があった。
古びた木製のベンチに座った優歌は、ロータリー脇の公園ではしゃいで遊んでいる子供たちを見ているようだった。
「姉さん、ちょっとトイレ行ってくる」
「あいよ」
ついでにお茶でも買ってこよう、などと考えながら舜は駅の公衆便所に向かった。
用をたして建物から出てくると、
「嫌な雲だな……」
先ほどまで快晴だった空の端に黒い雲が見えていた。
「ボク、あんまり道路の方いったら危ないで」
小さなサッカーボールを蹴っていた4、5歳の男の子。ボールの扱いに慣れていないらしく、その動きがおぼつかない。
やや心配して優歌は声をかけた。
周りの子供たちは自分たちの遊びに夢中である。近くに親の姿もなかった。
子供を一人でほっといたら危ないやんか、と心の中で思う。
「あっ…」
不安が的中して、蹴り間違えたボールがバウンドしながら転がっていくのを少年が追いかけていく。
ちょっと―――
その先は悪いことに車の走っている道路だ。
アカンて――!!
耐えがたい衝動にかられて優歌は駆け出していた。
「ちょっと何してんのんっ! コラッ!」
身重の体では思うように動けない。
少年の背中にむかって叫ぶと、今度は息が上がって苦しくなった。
視界がくらくら揺れて、倒れこむようにして男の子を捕まえると、その子は驚いた声をあげた。
「ハァ…あ、危ないから……む、向こうで、遊びや」
優歌が息切れしながら言うと、男の子は凍りついた目線で、こちらへ走ってくる軽自動車を見つめていた。
「えっ…」
すでに車道に飛び出していた。
優歌は状況を飲み込む間もなく、目を見開く。
軽自動車を運転している主婦は、携帯電話を片手に大笑いしていた。
短い間だが、全身が硬直して毛穴が開いていくのがわかった。
ドンという鈍い音が鳴るまでの、ほんの数秒のことだったが。
電話口の舜は泣いていた。
ボロボロになった声で何を言っているのかわからない。
JRAの職員に呼ばれ、パドック裏で電話を受けた小次郎はただならぬ雰囲気に頭の芯が締め付けられた。
まさか――。
『義兄さん……ね、姉さんが……』
やっと絞り出した言葉は、最悪の知らせだった。
舜は嗚咽しながら、見知らぬ子供を助けようとして姉が交通事故に遭ったこと、そしてすでに病院に搬送されて現在は手術中であることを伝えた。
受話器を持つ小次郎の手が震える。
心臓の破れそうなほどの鼓動が止まらなかった。
『義兄…さん、早く来て……姉さん、いっぱい血を吐いてた……無理かもしれない』
小次郎と話すことで少しずつ平静を取り戻してきたようだが、その言葉は弱々しかった。
『義兄さん?』
黙っていた小次郎に訊ねる。
「……わかった。舜、親父とオレが行くまでそこで待ってろ」
『いつ来るの? すぐ来れるの?』
いや、と短く答えて沈黙する。
決意して小次郎は口を開いた。
「オレは、天皇賞が終わったらすぐに向かう」
『な、なに言ってるんだよ!』
舜は明らかに困惑していた。
『こんな時にそんな、そんな……たかが競馬じゃないか! 何言ってるんだよ!』
「たかが、じゃない!!」
小次郎の怒声に周りの人間が驚いて振り返る。
「たかがじゃねぇ……」
体の中で感情が濁流のごとく暴れ、小次郎の心を揺さぶっていた。
だがそれでも今、自分がいる場所を忘れるわけにもいかなかった。
ジャムシードが走る天皇賞まであと数時間もない。
その後、何を話したのか小次郎は覚えていなかった。
電話を切ると目眩がして、よろめきながら小次郎は地下通路へと向かっていった。
朝方の五月晴れが嘘のように、午前中のレースが終わったあたりから、のしかかるような黒雲が空を覆い隠していた。
東側の山から遠雷が聞こえる。
ほどなく叩きつけるような大粒の雨が京都競馬場に降り始めた。
「こりゃあ、だいぶ芝が滑るかもな」
パドックに隣接したジョッキールームから雨模様の空を見上げ、関東若手NO.1ジョッキー・斎藤平馬は渋い表情を浮かべた。
親しみやすそうな大きな瞳と日に焼けた彫りの深い顔。顎に整ったひげを生やしている。騎手として理想的な小柄な身体は騎乗に必要な筋肉が隆起し、まったく無駄がない。
29歳、脂が乗りはじめた中堅騎手である。
「ブライアンズタイム産駒のバズラムは雨が苦手なのかい?」
「正直いうとあまり良くないな。この雨じゃ極上のキレ味が発揮できないかもしれねぇ。まあ、それは他所様もだいたい一緒なんだがよ」
隣で腕組みしていた男、関東騎手リーディング4位・江尻雅樹はフーンと鼻を鳴らした。
「こちとらリアルシャダイ産駒で雨はからっきし。願わくば今すぐにでもレースをしてもらいたいもんだね」
ひょろりとした長身の男だ。
狐を思わせる細面に切れ長の眼、ヘルメットからはウェーヴのかかった長い金髪がのぞいている。
斎藤とは同期のライバルだが、豪腕を誇る『荒武者』斎藤に対し、緻密な計算と他の意表を突く騎乗スタイルから江尻は『暗殺者』とあだ名されていた。
目線のさきには雨に打たれながら周回する彼の乗り馬グランブルーの姿があった。
鹿毛がぐっしょりと濡れて黒っぽくなって、腹の下にたまった水滴がとめどなく滴っている。
「これじゃ商売あがったりだ……まったく」
天皇賞に出走する17頭が周回する、パドックの芝生のうえには傘をさした大勢の調教師、馬主が集まっている。
年度代表馬ヌミノバズラムもその黒鹿毛の巨体をしなやかに動かしながら、力強く歩く姿を見せていた。
昨年は菊花賞(G1)と有馬記念(G1)を奪取し、欧州の至宝と名高いスリープフォレストが来日したジャパンカップ(G1)では直線で猛追するもクビ差届かずの2着。
その実力は現役最強の看板に偽りなし。
だが――今年の始動戦となった阪神大賞典において、あってはならない大番狂わせが起こってしまった。
休み明けとはいえチャンピオンホースの称号をもつバズラムが、2年近くも戦列を離れてすでに過去の馬となっていた二冠馬ジャムシードに、だし抜けを食らう格好で敗れてしまったのだ。
無論、ジャムシードの鞍上はあの若月小次郎。
二冠馬の奇跡の復活劇に、競馬ファンと世間のボルテージは一気にあがった。
マスコミもファンも、バズラムと平馬のことなど忘れたかのようにジャムシードの大合唱である。
人一倍、努力家でプライドの高い斎藤にとって、その屈辱は言語に絶するものだった。
歯軋りしながら耐えた一ヶ月。
今、視線の向こうに仇敵の姿がある。
他馬と同じように濡れたままパドックを周回するジャムシードは長い首を地面すれすれまで伸ばしながら歩いていた。
パッと見たところあまり活気がないが、馬体のつくりは流石と思わせるものだ。
「やっこさんも神妙な顔して……緊張してるんだな」
江尻はジョッキールームの端でうつむいている小次郎を一瞥して口笛を鳴らした。
「阪神大賞典で負けたのはこのオレのミスだ。二度同じミスはしねぇ」
斎藤はそう断じて、こぶしに力をこめた。
「止まぁーれぇー」
パドックに停止命令の声が響き渡り、厩務員たちが馬を止めると控え室の前に整列していた勝負服姿のジョッキーたちが小走りに馬へと駆け寄った。
ジャムシードにまたがった小次郎はレースでの泥対策として透明のゴーグルを二個用意していた。1つはすでにかけており、もう1つはまだ首にかけている。
ゴーグルの下のその眼は怒りとも焦りともつかない表情をしていた。
「小次郎……」
下から呼んだのは白いスーツ姿に赤いスカーフを巻き、薄茶色のテンガロンハットをかぶった神薙調教師だった。
大レースにはいつもの正装である。
むろんダービーを勝った時も白のスーツだった。
帽子の下から覗いた眼は落ち着いているようだったが、その内心は窺い知りようも無い。
「オヤジ……」
義父と目を合わせると小次郎はずっと我慢していた声を震わせた。
「小次郎。この場を放棄しても、誰もお前を責めたりせぇへんぞ」
「わかってる……でも俺」
溢れ出しそうになる涙を堪えると視界がぼやけて、思わずうつむいた。
股の下にいる相棒はいつもより静かで、枯れ葉のようだった。
復帰戦の阪神大賞典の時もそう思ったが、ジャムシードはもはや全盛期の力を維持してはいなかった。
「どうしても勝たせたいんだ……みんなの宝物であるジャムを、この手でもう一度てっぺんに立たせてやりたい」
手塩にかけて育てた愛弟子の言葉に、神薙調教師はうつむいた。
「……わかった。わしは一足先に病院に向かうで」
ジャムシードの引き手をもつ徳永厩務員も、黙ってこぶしに力をこめているようだった。
雨はしとど降り続く。
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