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2017/04/25 17:27 |
1章  若月小次郎 ⑪






『――10万人のファンが、私が、そしてテレビをご覧の皆様がその姿を待ちわびておりました。前哨戦の阪神大賞典を制して復活を遂げた、二冠馬ジャムシード、淀に見参! 今ふたたびふき始めた、黄金の風!』
 熱を帯びたアナウンスが電波に乗せられて日本中を駆け巡る。
 本馬場入場を果たしたジャムシードと小次郎を落雷と歓声が迎えた。たくさんの傘、観衆が押し合いながら丸めた予想紙を振っている。
 各馬が返し馬に入っていくなか、スタンドの熱狂に茫然としながら小次郎はその端から端までを見つめた。
「ジャムシードは…」
 ずっと無言で馬を引いていた徳永翁がふと、口を開いた。
「ジャムシードはわしらだけの宝ではないんやな。こんなにも多くの人に愛されとる」
 その気持ちが引き手を通して痛いほど伝わってくる。
 まるで気遣うように、栗毛は老厩務員の頬に鼻先を近づけた。
 小次郎は奥歯を噛みしめた。
「徳ジィ、安心しろ。今日は絶対に勝たせてやる、相手が誰だろうとな。コンマ一秒でも速く勝って――」
勝って、優歌の元へ。
この俺が、みんなを守ってみせる――。
グッと顎をあげて雨空を見上げると、小次郎の瞳には猛々しい闘志が戻っていた。







 鋼鉄のゲートが開かれ、日本競馬の最高峰、天皇賞のスタートが切って落とされた。
 17頭は隊列をつくりながら向正面の芝コースを突き進む。
 スタンドから、どよめきがあがる。
『――な、な何と、ジャムシードが先頭を切る勢いでハナ(先頭)を主張します!』
 好スタートというわけでもない平凡な発馬から、疾風の勢いで先頭に立ったジャムシードは力一杯に四肢をのばして雨馬場を切り裂いた。
 小次郎の鞭が飛ぶ。
 3200mという長丁場、春の天皇賞はここ数年、スタミナに自信の無い馬達によるスローペース化が懸念されるレースのひとつである。
 ジャムシードはこれまでの勝ち鞍のそのほとんどが中団後ろからの差し戦法によるものだった。レースの終盤、3~4コーナーから徐々に進出して、直線で豪快に他馬を差しきる大味な競馬が身上である。
 2番人気ヌミノバズラムを駆る斎藤平馬は最後方に控えながら舌打ちした。
「あのガキ……」
 長く手綱を張ったまま、みるみるジャムシードと二番手以下との差が開いていく。
 先頭を奪ったら馬に息を入れさせるためにペースダウンするのが長距離レースのセオリーだが、小次郎はスタンドの前、一周目の直線に入っても逃げのペースを落とす様子は無かった。
 気がつけば最後方のバズラムとは約25馬身の距離が開いていた。
 縦長になった馬群が一周目のゴール前を過ぎていくと、大観声があがる。
 二周目に入り、先頭から10~12馬身ほど離れて2番手を追走する江尻はただならぬ空気をまとって単騎逃げを打った人馬の背を見やった。
「このまま逃げ切るつもりか……無謀だぞ」
 独りごちて濡れたゴーグルを拭う。
――それともすでに何か仕掛けているのか。
 天才と呼ばれる牧と違って、小次郎の騎乗は策というより勘である。
 それゆえに読みづらい。
 (これは暴走ではないのか……?)
 ある独特の嫌な感覚が、江尻の脳裏に浮かんだ。
 単純に若月がペースを読み違えているとは考えにくい。ジャムシードが、いわゆる折り合いを欠いて『かかった』状態なのでもない。
 ならば意図的に時計を縮めてペースを吊り上げているのは明らかである。さりとて、いかにダービー馬と言えど無尽蔵のスタミナを有しているわけでもない。
 必ず何かがあるのだ。
 答えのない疑問に焦りが生まれ、体に力が入った。
 レース終盤、京都名物の3コーナー上り坂をジャムシードが駆け上がっていく。
 すでにジャムシードはだいぶ息があがりかかっているが、充分な気配を股の下から感じつつ小次郎は口の端をあげた。
 まさか――
 ゴール前の鮮明なイメージが浮かんだ江尻の脳に突然、鋭い電流が走る。
「ま……まずい!」
 肩鞭を入れて馬を追う体勢に入ると、登り坂が馬のスピードを殺ぎ落とした。雨でぬかるんだ馬場もその進出を拒むように邪魔をする。
 江尻の異変に、追走する馬群も一呼吸遅れて反応した。
 本来、差し馬であるジャムシードの大逃げは、誰の目から見ても無理をしているようにしか映らない。スタート後の加速っぷりからしてなおさらだ。
 しかし小次郎にとってハイペースでレースを作っていくフリをするのはせいぜい最初の2ハロン(400m)もあれば十分だった。
 なぜか。
 その答えは京都3200mという天皇賞の特殊なコース形態にある。
 鍵を握ったのはスタート後、じきに訪れる『坂』――。
 平坦な場所に比べて、上りの坂では物理的にスピードが殺がれて時計がかかる。ここで小次郎は密かにペースを抑えて登っていた。
 後続の騎手たちはジャムシードの『大逃げ』に錯覚し、むしろ自分たちの馬が速度を上げたように勘違いをしていた。
 二番手を追走する江尻騎乗のグランブルーが重馬場を苦手にしていることも小次郎の作戦にとっては好都合だった。名手と呼ばれる江尻のペース判断は他の騎手にとって教科書のようなものである。
 江尻が抑えたことにより、馬群は粛々とそれに従った。
 坂を下りきると小次郎はふたたび拳を当てるくらいのわずかな力でジャムシードにゴーサインを出していた。そうすることによりまたジワジワと後続馬群を引き離した。
 ここにもう一つの『罠』があった。
 長距離のレースにありがちなことだが、一周目の直線で馬がゴール板に反応して勝手に疾走してしまうことがある。実際の勝負は二周目の直線なので、ここでいかに折り合いをつけスタミナの浪費を抑えるかが勝敗を大きく分けるのだ。
 小次郎の狙いはそんな騎手心理やセオリーを逆手に取ることだった。
 案の定、何頭かの馬がハミをとって加速しかけたが、鞍上が手綱を引くやそれを阻止された。
 先頭との差はそれだけで開いていく。
 こうしてジャムシードは自らの生み出したスローペースのなかを他馬に干渉されることなく10馬身ものリードを持ったまま二度目の坂の頂上に辿り着いていた。
 痛恨のミスに気づいた江尻に反応した三番手以下の集団が一気にペースをあげて追いつこうとするが、追いかければ過酷な上りの坂が、さらに追いつこうとすれば際限なくスピードを加速させてしまう魔の下り坂が、追走する各馬に立ちはだかった。
 坂の下りに入ったジャムシードは荒れた呼吸を正して、内ラチにぴったりと張り付いた状態から徐々にラストスパートの体勢に入ろうとしていた。
 小次郎は馬上でそっと囁いた。
「見えるかジャム」
 規律的なストライドを刻み続けるジャムシードの耳がかすかに動く。
「あのゴールが、俺たちの帰る場所だ」
 遠く見えるゴール板は、静かに勝利を手にする者達を待っていた。
 10万の観衆がスタンドから熱狂の声をあげる。
「行ぃっけぇ――――っっっっ!!!」
 二番手を大きく引き離したジャムシードが、最後の直線に入ってくる。
 地鳴りとも、怒号ともつかぬ大歓声が空気を震わせた。
 鉄のハミを噛んだジャムシードは苦しみながらも必死に脚を伸ばした。
 残り1ハロンを過ぎても後ろからやってくる馬はいなかった。
 そう思われたその時だった。
「待ちやがれい!!!」
 悪鬼のごとき形相で尻鞭を叩きまくる斎藤平馬を背に、最強馬ヌミノバズラムが驚異的な末脚で馬場の中央を切り裂いて追い上げてきた。
「もう少しだ、ジャム!」
 勝負は完全に2頭に絞られた。
 1完歩、1完歩と若き黒鹿毛が栗毛の二冠馬を追い詰める。
残り100mを切って前走、阪神大賞典の再現フィルムのように2頭の馬体が合わさった。
 大歓声のスタンドから、徳永は祈っていた。
 熊五郎も、神薙厩舎の仲間達も、10万のファンとともに叫んでいた。
 小次郎は感覚のなくなった腕で、ジャムシードの首筋を押した。
「そりゃ、そりゃ、そりゃ――っっっ!!」
 泥まみれの斎藤が吼える。
 小次郎も雄たけびを上げた。
 もう少し、あと一歩だ。
 勝てる……、絶対に、勝つ!
「………うぁ」
 しかし次の瞬間、小次郎の口からこぼれたのは小さな悲鳴だった。
 深く踏み込んだジャムシードの右後脚がぬかるんだ地面を滑り、支えを失った馬体が腰砕けにバランスを崩した。
 宙に放り出された小次郎の体が芝生に叩きつけられ、放り投げられた人形のように転がった。
“あ……”
 斎藤とバズラムの背中は見えなかった。激しい勢いで地面に打ちつけられ、芝生に前のめって小次郎は失神した。
『あ―――っ、な、なんということだ! ジャムシード落馬!! 競走中止!!!』
 一瞬の静寂を置いて、場内から悲鳴と金切り声があがる。
 各馬が決勝ゴールラインを越えたのを皮切りに数人の係員がコース内に飛び込んできた。
 小次郎の身体が仰向けにされ、呼吸が確認される。
 真っ暗だった。
 何も見えない視界の向こう側で誰かが叫んでいる。「タンカ…早く持ってこい!」
 何が起きたのか、わからない。
 俺はどうしたんだ?
 何をしていた?
 ドロドロになった意識が次第に明けてくると体中が軋んだ。
 とくに右腕はひどく鋭く痛んだ。
「が…ごほっ」
 瞼が開き、ぼんやりとした視界にレインコートを来た係員達が叫びあっていた。
「タンカ持ち上げるぞ、ゆっくりだぞ!」
 小次郎を乗せた担架が持ち上げられ、そばにつけられていた救急車へと運ばれる。
「おい……ジャム、ジャムはどこだ!?」
 朦朧とする意識と苦しい呼吸の下で、小次郎は折れていない左手で係員のそでを掴んだ。
 顔も知らないその係員は、つらそうな表情を浮かべ、その目線で示した。
 観客席に目隠しするように張られた青いビニールシートに囲まれたジャムシードは、鞍をつけたままこちらに背を向けて芝生に横たわっていた。
 そのそばには白衣の医師が家畜用の注射を手に膝をついている。
「……やめろ」
 まだ生きているだろ、と小次郎は顔を歪めた。
「……やめてくれ、そいつは……ジャムは俺たちの宝物なんだ……宝物なんだよ」
 懇願する小次郎の瞳から涙がこぼれた。
「やめてくれ……頼むから」
 静脈に注射を打たれた栗毛はのたうつこともなく、小さく震えながら前脚で二度宙をかいて、静かに事切れた。
「あ…ぅあああぁあ―――っっっ!!! ジャム、ジャムッッ!! …」
 暴れ始めた小次郎の体は医師たちの腕に押さえつけられ、救急車の扉がバタンという音とともに閉ざされた。








 京都府内のとある病院の一室に、柔らかな風が訪れてカーテンを揺らしている。
 穏やかに晴れた空はまるで嘘のように深い青さをしていた。
 昏睡状態に陥っていた小次郎はレースから3日経った水曜の朝に目を覚ました。
 病室のベッドから仰向けに見える天井は、無機質に白い。
 右腕は緊急手術が行なわれ、肩口にまで及ぶ見たこともない長さのギプスに包まれていた。その他にも打撲の痛みなどあったが、とりあえず命に別状はないようだ。
 ジャムシードが死んだ――。
 途切れる前の記憶をぼーっとしながら思い出す。
 抑えたい思いとは裏腹に、目尻に溜まった涙がこめかみを伝った。
 病室のドアが開き、見覚えのある女性が入ってくる。
「小次郎、おはよぉ~☆」
 婉然と微笑む、妻の優歌だった。
 妻は涙を流している小次郎にむかって、意地悪そうに、「何泣いてるん?」といって枕元に置かれた椅子に座った。
 柔らかなその手が小次郎の頭を撫でる。
「なにを泣いてんねん。あんたは精一杯、がんばったやんか」
「でも……俺」
 優しい言葉に、小次郎は声を詰まらせた。
 優歌はクシャクシャになったその顔を覗き込んで目を細めた。
「ウチな……いつでも一生懸命な小次郎が好きやねんで。いっぱい、いっぱいがんばる小次郎のことが好きや。ウチは何でも適当やからね……だから、どんなに今が辛くても、くじけんといて、小次郎」
「ああ……」
 小次郎は頷いた。
 窓から入ってくる風は山の匂いがした。
 しばらく時間を置いて、ふと言いにくそうに優歌が切り出した。
「あんなぁ、ウチ……もう行かなあかん」
「何、言ってんだ……」
 そういえば、交通事故に遭ったはずの優歌がどうして自分を見舞いに来られる――。
 狼狽する小次郎の額に静かにキスをして、優歌は立ち上がった。
「ホンマはね、ごめんやねん。ずっとずっと小次郎と一緒にいたかったけど、あかんようになってもうた。ただ最後にお礼が言いたくて……小次郎と出逢って、こんなに好きになって、愛し合えて、ほんまにうれしかった……ありがとう」
 ああそうかと小次郎は思った。
 これは夢、夢なんだと。
 だけど何だろう、胸が苦しかった。
 聖母のように微笑む妻の顔を見上げながら、「おれも…」、小次郎も言いかけた。













 いつも、ありがとう。
















 まばゆい光が転回し、ふいに漆黒の闇が訪れる。








 今一度、目を覚ますと枕元の椅子には深くうつむいた舜が座っていた。
 夕焼けに赤く染まったカーテンがたなびいている。
「舜……」
 先ほどよりも体の痛みが尋常ではない。
「義兄さん……」
 詰襟姿の舜の表情は、見たこともないほど暗かった。
「―――姉さん、死んだよ。お腹の赤ちゃんも。最後まで苦しみながらずっと義兄さんの名前を呼びつづけてた……結局、来てくれなかったね」
「舜……」
「かわいそうだよ、姉さん……かわいそうだと思わないか?」
 肩を震わせて舜は言った。
 ――コレハ、現実ダ。
「絶対に、許さない……。姉さんを見捨てたお前を、絶対に許さないからな……!」
 舜の瞳からこぼれた涙が病室の床にいくつもの染みをつくっていった。
 窓外の夕暮れの空に、家路を往く子供達のにぎやかな歌声が溶けていく。








 数日後、若月小次郎は誰にも行き先を告げずに消息を絶った。
















 若月厩舎の脇道を一台のオートバイが音を立てて通り過ぎていく。
「……ぶえぇぇ……いぎっ、いっ」
「楓さんの泣き顔、ほんとにブサイクですね」
 話の終盤から耐えられずに泣き出していた楓に、ソファの隣に座った翔太が冷静に言った。
「う、うるひゃいっっ!!」
 顔に押し当てていたタオルに涙で落ちたファンデーションやらマスカラやら何やら色々と付着してたしかに……見た目はひどい。
 コーヒーを飲み干したマグカップの底に目線をおとしていた熊五郎は眼鏡を直して小さくため息をついた。
「テキ(調教師)がまた競馬界に帰ってこれたのは奇跡じゃよ。病院から勝手に退院して以来、数年間ずっと誰とも音信不通じゃった。それがある日ひょっこり調教師試験に合格したから力を貸してほしいと、わしに連絡をよこしたんじゃ」
 翔太はめずらしく沈んだ表情で頭を掻いていた。
「それじゃ、今でも先生はかつての義弟さんに恨まれたままで……何だかやりきれないですね」
「ぞ、ぞんながわいぞぅ…」
「楓さん……鼻水出てますから」
 鼻をかんだティッシュペーパーを楓がゴミ箱に捨てていると、煙草を吸いにきた犬介がステンレスのドアをガラッと開けた。
「うほっ……なんだその汚ねぇツラ」
「う、うるひゃいっ!!」
 休憩室の天井に犬介の吐き出した煙草のケムリが悩ましげな形で滞留する。
「犬介さんは先生のこと知ってたんですか」
「何となくはな。俺が初めて小次郎先生に会った頃にはもうだいぶ落ち着いていたようだったし、何回か話してくれたことはあったぜ」
「初めて会ったのっていつ頃です?」
「さあ……旭川で中坊やってた頃だからかれこれ6年前かな」
 失踪していた間のことは犬介もあまり知らないらしく、また興味なさそうだった。
「過去がどうこうなんて俺たちにゃ関係ねぇ。小次郎先生は、小次郎先生だ。今まで通りうまくやってきゃいいんじゃね―か?」
「そうじゃの……」
 熊五郎がうなずくと、それまで黙っていた楓がソファを立ち上がった。
 その表情は強い決意に満ちていた。
「あのさ、こんなこと言い出して笑われるかもしれないけど。勝とう……勝とうよ、ダービー。勝ちたい。いつになるか分らないけど、先生が目指したダービーをまたみんなで勝って、表彰台に立たせてあげようよ」
 まるで夢のようなことを楓は言い出したが、その場に居合わせた者には誰一人としてそれを笑う者はいなかった。
 漠然とした希望ではなく、勝つ――。
「ま、俺は最初っからそのつもりだけどな」
「いいですね。僕も本気で勝ちたいですから、ダービー。やりましょう」
「よーし、わしもやるぞい。世間をアッと言わせてくれる」
 おお――っ、と意気上がるその傍ら。
休憩室の外の壁に立つ、男の気配に気付く者はいなかった。
 いや、いた。
 寝わらを踏む音がして馬房からプリシアが首をのばした。
 ムフーッという鼻息を立てて寄せてきた鼻先に、そっと手が触れる。
「ダービーを勝つ、か……」
 小さなつぶやきとともに小次郎は目を細めた。





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2007/12/07 16:22 | Comments(0) | TrackBack(0) | 未選択

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