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2017/06/29 23:02 |
2章  中央デビュー! ⑥







 40インチはありそうな大型プラズマテレビのある応接間兼リビングに通された楓の前に、淹れられたばかりの熱い紅茶が出される。
 革製のソファの坐り心地はふだん厩舎で使っているものとは比べ物にならないほど良かった。
 小次郎と秀吉は一緒に風呂に入っていき、霧原キクと名乗った先ほどの老婆は仕事がまだあるからと厩舎の方へと戻っていった。
 楓に紅茶を運んできてくれたのは小次郎の親友、霧原弦人の妻・和那である。
 若くて清潔感があり、長い黒髪の美女だ。
 キクとは違ってあまり北海道訛りがなく、話し言葉は標準語そのままに近い。
 玄関先では小次郎の訪問に和那もまたかなり驚いた様子だったが、おおよその話を聞いてからバタバタした様子で2人分の着替えを用意し、リビングに戻ってきて楓にお茶を淹れてくれた。
「ごめんなさいね。突然のことだったからほったらかしにして」
「いえ、そんなことないです。紅茶、いただきます」
 上品なカップに注がれた紅茶はよい香りのするダージリンティーで、添えられていた陶器のミルクポットに入っていた牛乳は丁寧に温められていた。
「おいしい」
 体の内側に染みわたる感じに癒され、自然に言葉がこぼれた。
「あたし、木下楓と申します。小次郎先生の下で厩務員をやっています」
「楓ちゃんね。わたしは和那、ここの牧場主の妻です。よろしく」
 そう言って微笑む顔に思わず見とれてしまいそうになりながら楓も笑みを返した。
「それにしても、すごい数ですね……トロフィーに盾に賞状とか」
 リビングの奥側のガラス棚に整然と置かれた、競馬関係の優勝賞品と思われる品々を見て、楓は言った。
 軽く見積もって二十はあるだろうか。
 そのうちのひときわ強い輝きを放っているトロフィーに目を奪われる。
「これって東京優駿……だ、ダービー!!」
 黄金のプレートに刻まれた文字を読み上げて楓は絶句した。
 自分の紅茶を淹れて戻ってきた和那が口角を歪める。
「わたしがここに来る二年前くらいなんだけどね。強い馬がいたのよ。でも最近はそれほど成績があがらないから旦那によく『おまえのせいだ』って言われるわ」
「いや、すごいですよ。ダービーを勝ってるなんて…」
 はじめて見る本物の優勝トロフィーを前に楓はまじまじと見つめた。そして、ふとそばに置かれている大きな口取り写真に気がつく。「あれ?」
「小次郎、先生……」
 真っ赤な優勝レイを掛けられた栗毛に跨って満面の笑みを浮かべていた騎手は、見間違えるはずもない、若月小次郎だった。
 写真の中の小次郎はまだ幼い面影を残しており、楓の知らない多くの人々に囲まれていた。
 吸い込まれるように見つめていると背後のドアが開いて、あわてて楓はソファに戻った。
「おかあさん」
 パジャマ姿の秀吉が母親のもとに駆けより、そのあとを白いシャツとグレイのスウェットを着た湯上りの小次郎が入ってくる。
「小次郎っちはコレっしょ?」
 気を利かせた和那がよく冷えた缶ビールを持ってくると、ニッと小次郎は笑った。
「ゲンはまだ帰ってこないのか」
 うちわを片手にビールを一口飲んだ小次郎が言う。
「さっき連絡ついたからそろそろ帰ってくると思うけど…」
 まるで我が家にいるようにリラックスしている小次郎を、楓は不思議そうに見た。
 テレビをつけて道内ニュースを見ているその姿は自分の家でくつろいでいるようにしか思えない。和那とは当たり障りのない会話をしているようだったが、おたがい面識があるらしく肩の力が抜けている。
 小次郎の肩越しについさっき見た日本ダービーの記念写真が見えて、楓は無意識に唾を飲み込んでいた。
「二歳馬を探しにねぇ……。いまの時期だとたいがい問題のある仔しか残っていないから、難しいっしょ。うちもとねっこ(当歳)と一歳はまだ行き手が決まっていないのが結構いるから、明日にでも見ていったら?」
 そう言いながら和那は、
「あ、そういえば売れてない二歳、いたわ」といった。
「脚がちゃんと四本ついてるなら預かるぜぇ」
 冗談めかして小次郎はビールを流し込んだ。
 いつも酒を飲んでいる姿を見ないため、それも不思議な感じがする。
 和那はかぶりを振った。
「ううん、その仔は育成までいったんだけど、骨折して帰ってきたの。そしたら馬主さんがいらないって突然言い出して、大変だったのよ。馬体も血統もよくて、うちのエース候補だったんだから」
「ほう」
 興味があるんだか、ないのだか、小次郎はうちわで顔を煽ぎながら目を閉じた。
「どんな馬なんですか?」
 話に割り込むつもりはなかったのだが、ようやく少しだけ見えた光明に楓は目を輝かせていた。
「えーと、たしか初仔でね。お父さんが香港で国際G1を勝ったスピアヘッド(父サンデーサイレンス)、母親はクトネシリカって言ってうちでは期待している繁殖牝馬なの。シリカの父親ダンシングブレーヴは母の父としても優秀だわ」
「ダンシングブレーヴ……」
 はっきり言って血統に疎い楓にとっても、どこかで聞いた響きのある名前だった。
「80年代のヨーロッパ最強馬と言われている名馬だ。母父としては宝塚記念のマリスクレイドルや二冠ダービー馬ヒダノスティールあたりが有名だな。スピアもG1こそ香港の1勝だけだがサンデーの後継としてはなかなかって話だ」
「そ、そんな馬が売れ残っているんですか」
「まあ、ちょっとしたクセがあるんだけど…」
 そう言って和那は言葉を濁しぎみに笑った。
「何だったら今、厩舎にいるから見てみる?」
「うわぁ、ホントですか!?」
 興奮した楓は思わず立ち上がって言った。







 外はすっかり日が暮れて、空には鮮やかな月と一緒に数えきれないほどの星が輝いていた。
 都会育ちの楓は思わず足を止めて星空に見入ってしまう。
「すごい……綺麗」
 街灯のない牧場内は文字通り真っ暗だった。ただし今夜は月が明るいのでさほど視界は悪くなかった。
 初夏の夜らしく小さな虫の鳴き声がそこかしこの草むらから聞こえてくる。
「うちの夜空は自慢なの。何もない静内の端っこだからこんなにくっきり星が見えるんだけど」
 懐中電灯を手にした和那はそう言うと秀吉の手を引きながら、先導するように牧場の入口に近い真新しい感じのする厩舎に向かって歩き出した。
 重い厩舎の鉄扉が開けられ、暗い内部から馬の気配が伝わってくる。
厩舎で嗅ぎなれた馬の糞尿の匂いが鼻をつくが、ここにいる誰もそのことは気にもとめなかった。
 入口のそばにあったスイッチをつける。
 厩舎内には左右にズラリと馬房が20弱ほどあるだろうか。
 そのひとつひとつに美浦の若月厩舎と同じように馬名と血統や毛色などが丁寧に書かれたホワイトボードが架かっている。
「小次郎っちがうちにいた頃はまだこの新厩舎は建っていなかったはずよね?」
「そうだな。あの頃はゲンとおばぁと和那とおれで切り盛りしてたんだよなぁ」
「うふふ、懐かしいね。今はこっちが一歳専用で、向こうは肌馬と当歳が使ってる感じなのよ。通いの社員2人とパートさん2人で合わせて7人態勢でやってる。当時に比べたら規模は倍くらいにはなったわ」
「ああ。和那も社長夫人らしくなるわけだ」
 胸を張ってみせる和那にそう言いながら、小次郎はホワイトボードの詳細を興味津々に見て回った。
            「あのぉ…」
 先ほどからさっぱり話が読めない楓は小次郎の肩をチョイチョイと軽くつついた。
(先生、ここで働いてたことあるんですか?)
 何故か小声で聞いてしまう。
「調教師を開業する前にな。2年ばかし」
 何と言うこともない口調でそう言い返す。
(ええぇぇ~)
「扱う血統もだいぶ変わったな。昔は肌馬にもホリスキーだとかメジロティターンだとかいたけど、これは将来を見据えての企業努力が見えるラインナップだ」
と言った。
 たしかに肌馬の父として名を連ねるのは、ダンスインザダーク、コマンダーインチーフ、ブライアンズタイムなどを筆頭に、エリシオ、メジロライアン、リアルシャダイ、ラストタイクーンといったなかなかの顔ぶれである。外国から仕入れたらしい馬の名前もあった。
 繋養している一歳馬の血統も芝の中長距離をイメージさせるものが多く、クラシック戦を意識した馬づくりの方針がはっきりと伝わってくる。
「霧原の血統はどれも元をたどれば日本古来の血である基礎牝馬ユキシロの血が流れているから、外国の血統とケンカしないのよね。全体的な傾向として健康に生まれて、スタミナが豊富で、枝(四肢)の長い綺麗な立ち姿をした仔が多いわ」
「じゃあ、この仔たちはほとんど親戚関係なんですか」
 馬房の中を見ながら歩いていた楓が言う。
「大雑把に言っちゃうとね。でも輸入馬が全盛だった時代もたくさんあった中でなかなかこういう代を重ねたブリーディングをしてる牧場は珍しいのよ」
「たしかにセリに出てくるような最近の馬は流行に合わせてるだけだからな。生産のポリシーだとか言ってられないくらい売れないのはわかるが……グチャグチャのつぎはぎ血統馬ほどつまらんものはないぜ。馬が売れないのは馬主が悪いんでも時代が悪いんでもない。作り手が信用されてないってことだ」
 やや不機嫌そうに小次郎は言った。
「牝が生まれたらロクに種付け料も回収できないような世の中だからね……。それはうちにとっても耳が痛い話だけど。いち生産者の妻として言うなら、メス馬が生まれることによるリスクがあまりにも高すぎるのよ。オトコ馬ほど稼げないのは目に見えているんだからその分、牝馬をもつ馬主には金銭的に優遇してあげないといけないでしょ。預託料の補助金を出すとか、限定レースを増やすとかJRAにできることはたくさんあるはずよ」
 専門的な話になり、楓はだんだんわからなくなってきた。
 一応、競馬の世界にはいるものの、自分の知見の狭さは本人もよく分かっている所だ。
 ただの厩務員といえども物を知って何かしら意見を言える人間にならなくてはならない。
 楓はがむしゃらに馬の世話ばかりしていた自分にちょっと反省した。
「この仔よ」
 一番奥の馬房のまえで立ち止まった和那が指をさして言った。
 馬栓棒と呼ばれる馬房の入口に掛けられたとうせんぼの奥でその馬は、しきりに馬房内を旋回している。
 鹿毛の馬だ。
「シリカの06。育成でつけられていた仮の馬名は『ジーク』」
 己の名前を呼ばれた鹿毛は旋回をやめてゆっくりとこちらに顔を向けた。





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2008/04/03 03:43 | 未選択

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