5
長門厩舎は美浦の厩舎村でも比較的、奥まった西側に位置する。
運転手のエスコートで車を降りた舜としづかは、新緑を生やした木々のこずえから差し下ろす陽光を感じつつ、歩いてものの数分の所にある目的の厩舎へと向かった。
「うふ、舜クン」
舜の左腕に自分の腕をからめたしづかはご満悦のようだった。
すっかり困った顔をしている舜のことなどお構いなしで、つい先だって訪れたオランダのアムステルダムについて喋っている。
車を降りるなり下駄の具合がよくないと言って、「腕を貸してくださる?」などと聞いてくるあたりはいつものことだった。
トレセンなど歩いていればそこら中に関係者や知り合いがゴロゴロしているのが当然だというのに、これではどんな噂が立つかわからない。以前に一度だけ面と向かって断ろうとしたことがあったのだが、一瞬で両目に涙を浮かべた娘の前になすすべもなく諦めてしまった。
それ以来、まったくペースを握られたと言っていい。最初にそういう場面に出くわした時に毅然とした態度をとれなかったことを舜は後悔していた。
そんな2人の耳に離れた場所から突如、
そんな2人の耳に離れた場所から突如、
「バ、バケモノ!!」
という悲鳴が飛び込んできた。
緊張で表情を硬くした舜は周囲に目を凝らした。
という悲鳴が飛び込んできた。
緊張で表情を硬くした舜は周囲に目を凝らした。
「ぎゃあぁぁ!」
すぐそばの厩舎の建物の向こう側から、叫び声とともにもんどりを打って人間が転がってきた。
うずくまったまま嗚咽し、腹をおさえるその男に舜は見覚えがあった。
すぐそばの厩舎の建物の向こう側から、叫び声とともにもんどりを打って人間が転がってきた。
うずくまったまま嗚咽し、腹をおさえるその男に舜は見覚えがあった。
「長門先生っ!」
関東調教師リーディング10位の長門博明は砂にまみれた顔に脂汗を浮かべて苦悶の表情を浮かべていた。
数年前まで現役ジョッキーだった長門は自らも騎乗して調教をつける。彼ほど馬の扱いに長けた人間に何が起こったのか、舜には理解できなかった。
駆け寄ってきた舜としづかの姿を見て、長門は声をしぼりだした。
数年前まで現役ジョッキーだった長門は自らも騎乗して調教をつける。彼ほど馬の扱いに長けた人間に何が起こったのか、舜には理解できなかった。
駆け寄ってきた舜としづかの姿を見て、長門は声をしぼりだした。
「し、舜、お嬢さんを連れて逃げろ……! 危ない」
その言葉を聞くや厩舎の建物の向こう側から不気味な気配を察して、舜は反射的にしづかの盾になった。
地面に長く伸びた影がこちらに近づいてこようとしていた。
乾いた蹄の音と、荒い息遣いが聞こえてくる。
獰猛な狂気の光を双眸に宿した魔物は、長い鎌首をもたげるようにして人間たちを静かに見下ろした。
目眩だろうか。ものの10メートルの空間がいびつに歪んだように感じた。
その灰色の体には血糊がべったりとついており、無口頭絡につけられた2本の引き手が力無くゆらゆらと揺れていた。
地面に長く伸びた影がこちらに近づいてこようとしていた。
乾いた蹄の音と、荒い息遣いが聞こえてくる。
獰猛な狂気の光を双眸に宿した魔物は、長い鎌首をもたげるようにして人間たちを静かに見下ろした。
目眩だろうか。ものの10メートルの空間がいびつに歪んだように感じた。
その灰色の体には血糊がべったりとついており、無口頭絡につけられた2本の引き手が力無くゆらゆらと揺れていた。
興奮の度合いを示すようにその口からは白い泡の塊がこぼれ落ち、全身から噴出した汗もまたしずくとなって流れ落ちていた。
舜はかつて、これほどの妖気をまとった馬に出会ったことがない。
スーツの下の身体がじんわりと嫌な汗で湿っていくのがわかった。
長門厩舎のほかのスタッフはどうしたのかと思ってみるが、現実じみた想像が浮かんでやめた。
「グロリア……」
背中から小声でしづかがそう言う。
「じゃ、この馬が!?」
「そう。グロリアススカイの06、父は国際GⅠ7勝のドミニオン。あまりにも激しい気性と強靭な身体能力からアメリカの牧場でついたあだ名が『灰色の堕天使』……」
騒ぎを聞きつけたらしい人間の声が遠くから聞こえてくるが、もはや一瞬の油断もならない状況だ。
額を伝う汗を感じつつ、舜は冷静だった。目を逸らさずにじりじりと後退していく。
背中にふれた手から、しづかの震えも伝わってくる。
「生まれた頃はあんなにかわいかったのに」
「お嬢様、ここは僕が何とかします。このまま向こうの建物に向かって逃げてください」
「でもそれじゃあ、舜クンはどうするの!?」
「大丈夫……馬乗りですから。相手が馬ならどんな奴にだって負けません」
放馬した馬を御したことはこれまで何度もあるが、今回は相手が違う。
ただの強がりだな、と思いながら舜は、「さあ、早く!」と促した。
「舜クン……」
駆け出す前にその後ろ姿を一顧して、しづかは胸がしめつけられた。
逃げ出したしづかを見た馬の瞳がひときわ禍禍しい光を放つ。2、3度、地面を前がきして首を上下にふった。
――来る!
そう思ったとき、すでに瞬時に体が反応していた。
少なくとも5メートルは前にいたはずの灰色の馬体が空気を切り裂いて目前に突進してきた。
恐怖と同時にスーツが袈裟懸けに破れた。掻きこむ前脚の蹄がかすめる。
灰色の巨体と舜の体がその刹那、交差していた。
1/10000の1秒の世界――舜はそこにいた。
伸ばした左手で引き手の一本をたしかにたぐし寄せ、同時に柔道の奥襟をとるような動きとともに右手が馬の太い首のたてがみをつかむ。
「む、うおおおおおおっっっっ!!!」
右足を蹴り上げ、体を捻りながら内回りに跳躍した。生暖かい馬の体のぬくもりが下半身に伝わってくる。
「暴れ狂う裸馬にまたがった、だと――っ!!!」
ようやくかろうじて立ち上がった長門博明が目にしたのはそんな信じがたい光景だった。
足の指先から脳天までの全身に震えが走っていた。
“グロリアススカイの05”は怒り狂い、己にまたがった邪魔者を振り落とさんと後ろの二本脚で立ち上がる。咆哮と呼べる激しいいななきが鼓膜をつんざいた。
それでも舜は絶妙なバランスで下半身を絡みつかせ、右手でもう一本の引き手を捕まえた。スチール製のリングハミががっちりと馬の口に嵌る。
猛り狂っていた馬が、ガツンと前脚を地面に降ろした。
「よーし……よーし」
ハミは万能の道具ではない。実際、馬体に触れている両足から伝わってくる溶岩のような熱はまったく衰えなかった。
さてここからどうするかと思ったそのとき、
「うわっ!!」
突然、脱兎のごとく巨馬が全力で駆け出した。
必死に引き手を引っ張るが、やはり鞍もあぶみもなければ力が伝わらず持っていかれてしまう。
「退いてくれ!!」
土が剥き出しになったトレセンの道を荒々しい蹄の音を響かせて、駆け抜ける裸馬とそれにまたがった破れたスーツ姿の男の姿を、道行く人々は唖然として見送った。
いつしか舜はどっかりとまたがる、カウボーイのやるウエスタン乗りから競馬の騎手の騎乗法『モンキー乗り』になっていた。
いや、強引に膝で支えている状態だが。
両脚の扶助がきかないのなら同じだとばかりに変えたのだが、そうしてみて意外なことに気づいた。
「この馬の背中は…」
ブレない!
まるで超高級車に乗っているかのように、その背中は心地よさを感じさせた。
「あははっ!」
思わず笑いを漏らす行く手に調教コースが見えてくる。
「グロリア、おまえ最高だな!!」
汗まみれになりながら恍惚の表情で、舜は大声で言い放った。
下半身はすでにつりそうなほど疲労し、両腕も棒のようだ。両手は皮がずたずたに破れておびただしい血が流れていた。
それでもなお馬は立ち止まることなく砂塵を舞い上げてダートコースに進入していった。
「あはははははっ、あははははっ!!」
堕天使の背中に陶酔する、舜の笑い声は子供のようだった。
「なんやとぉ!?」
都内の超高級ホテルの一室。
ジャグジーのついた風呂からあがってきた天才騎手・牧昇二の声がほの明るい部屋のなかに響いた。腰には赤いタオル一枚。首には純金のペンダントが下がっている。
牧はしばらく言葉を失っていたが、少ししてくぐもった笑い声を発した。
「あの舜坊がな……そんなハチャメチャやらかすなんて傑作やなぁ。うん、そら凄いわ」
携帯電話の向こう側の声が音漏れして聞こえてくる。
『おまえにもそんな芸当ができるのか?』
「アッホか。仮にやれたとしても、そんな命がけの一発芸は願い下げや」
『………』
「記者っちゅうのは、いつも耳ダンボにして想像力ふくらましてなアカンくて、たいへんやなぁ。けどそういう質問はナンセンスやで。今のオレにどないせぇっちゅうねん」
そういってゲラゲラと笑い、くわえた煙草にジッポーで火をつける。真鍮製のハンマーが部屋の中に心地よい響きを残した。
「……ああ思い出した。昔な、よう似たアホやらかした奴がおったで。まだ競馬学校時代の頃やな。手ぇつけられんようなった裸馬に飛び乗ってそのまま御してみせた、大馬鹿なのか怪物なのか…」
『そいつの名は?』
「アホゥ、それ調べるんがオマエら記者様の仕事やろが。それじゃワシ、これから両手が塞がる用事があるんで、切りまっさ~☆」
『オイッ! 昇二…!』
牧は携帯を電源ごと切って、部屋のはしにむかって放り投げた。
分厚くて柔らかい絨毯のうえを携帯は弾んで転がった。
キングサイズのベッドに腰をおろして長い息をつく。だらりと下りた前髪のしたの瞳が二度ほど、まばたきした。
「昇ちゃんたら……こんな時間にもお仕事の話? ユミにも聞かせてぇ」
背後から両腕を体に絡めて、さきほどからベッドの上で待っていた女が甘い声とともにしなだれかかってくる。
「う~ん? まどろっこしい話やねん。ゆみたんにはおもろないでぇ。それよりも…」
ぐるっと体を反転させて正面をむくとそのままベッドに女の体を押し倒す。
女は何も身にまとってなかった。
「今夜もまた、オレたちの愛をたしかめるでぇ~!」
「昇ちゃん……来て」
知り合ってまだ一ヶ月ばかりの新人女子アナの体をむさぼりながらも、牧の脳裏には古い記憶が鮮明に蘇っていた。
『――どうだ! 俺はこの程度じゃ落とされねぇ!』
ロデオのように暴れまわる馬のうえでその少年は己の腕を誇示するかのごとく馬をさらにあおってみせた。その場に居合わせた教官をはじめ、生徒たちはみな声を失っていた。
若き日の牧もまたその光景に肝を潰していた。
馬乗りの才能とは結局、根本的には恵まれているか、そうでないかでしかない。
デビュー以来、周囲やマスコミが自分のことをいくら天才だ鬼才だと賞賛しても牧は知っていた。自分がただの凡人であることを。
だからこそ誰も見ていない場所で人知れず他人の数倍も努力を重ねてきた。
“その男”との日々は、どれほどの月日が経とうとも色あせることはない。
『おい、牧。見せ鞭っちゅうのは……こうして…こう!』
数え切れない言葉を交わし、
『やったな、おたがい初勝利だ。俺たちの伝説のはじまりだぜ!』
たがいの拳を突き合わせて喜び合い、
『……ダービーが獲りてぇ……俺ぁ、ダービーを勝ちてぇんだよぉ…』
人知れず涙を流しあった。
ふたりの伝説は続いていた。
あの、死神の鎌が振り下ろされた豪雨の日まで。
傷だらけの戦友は激しい雨が降りそそぐ中、暗雲たれこめた空に向かって悲痛の叫びを放った。
『……ジャム、ジャムシードォォォォォォォォォオオオ、雄雄おおぉあああおおおぉぉ!!!!!』
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