一月が過ぎ、美浦トレセンに初夏の日差しが訪れる。
砂塵を舞い上げて、犬介を背にしたリーサルウエポンがダートコースを豪快に駆け抜けていく。
その後ろを懸命に鏡子が騎乗したツバサオーが追走するも、その差は開く一方だ。
「うーん、リーサルはそろそろ使えっかなぁ……」
コース脇のラチで双眼鏡をのぞいていた若月小次郎がつぶやいた。
競馬界では夏のグランプリ・『宝塚記念』を前にして北海道の函館から2歳馬たちによる新馬戦がスタートしていた。
道営の2歳戦を使われたことがあるツバサオーは未勝利戦からの再出発となるため未出走馬たちの出る新馬戦にはエントリーできない。
まだ馬体も緩く、必要な筋肉もついてないので問題はないのだが、小次郎の思惑としては良血馬たちがデビューを控えている秋開催の中山・東京よりもレベルの低いローカル戦を使いたいということがあった。
ツバサオーの父ミホノブルボンは中央競馬のクラシックレースである『皐月賞(G1)』と『ダービー(G1)』を勝った名馬である。
当時としてはまだマイナーだった坂路調教で、俗に『戸山流』と呼ばれたスパルタ調教で苛烈に鍛えあげられたことでも有名だ。
その武器は強烈な先行力。
デビュー以来、連勝街道をひた走り、無敗でダービーを制した。
後続の末脚を完全に封じ込めるブルボンの、鉄馬のごとき『逃げ』に観衆は酔いしれ、彼を称えた。
血統的背景から長い距離が不安視された三冠の最終関門・菊花賞で本格派ステイヤーのライスシャワーの前に生涯たった一度の敗北を喫し、それ以後は故障とリハビリの繰り返しでふたたびターフに戻ってくることは無かった。
種牡馬としては残念ながらこれといった産駒は出していないが、小粒ながらその仔どもたちは総じて頑健で息の長い競走馬生活を送るといった特徴があり、地方リーディングでは安定した成績を残した良質のサイアー(種牡馬)である。
人間たちの気持ちを知ってか知らずか、ツバサオーは大きな欠伸を漏らした。
「狙い目は札幌か……福島ってとこか」
小次郎の言葉にピンときた様子の翔太が、続けて口を開く。
「いいなあ、北海道に帯同(遠征馬に同行すること)したら、ちょっとした旅行じゃないですかぁ。ああ、ススキノ……わが魂のふるさとよ」
おまえの頭には遊ぶことしかないのかという目線を送りながら楓はツバサオーの小さな四白栗毛の馬体をタオルで拭いていた。
「迷ってても仕方ないしな。よし、決めた! ハルオは八月の札幌開催に使うぞ。来週からは坂路に入れて時計も出していく。ビッシビシ鍛えて、きっちり稼いでもらわないとな」
小次郎の方をチラッと見て、ツバサオーは眉をひそめるような顔をした。
入厩早々にゲンコツを食らったことを根にもっているのかも知れない。
「ちょっとコジコジ、ハルオってネーミングは何なの?」
腕組みした鏡子が言う。
「あはは、この仔の母親がアサノハルカゼっていうんですよ。だからハルちゃん。どっかの映画評論家みたいでいいでしょ」
「アハハハハハハ」
鏡子は棒読み調に笑った。
「でもこう見えて母系は優秀なんです。あの天馬トウショウボーイを産んだ名門ソシアルバターフライ系の出ですから。母父はアメリカ血統のバスタードモア。ちなみに母親は今はなき高崎競馬で2戦して繁殖入りという逆エリートコース出身です」
楓にはチンプンカンプンな薀蓄を、翔太は得意げに披露した。
平たくいえば実績のある血統から枝分かれした、傍流血統の出身ということである。
母の父バスタードモアは自身は米国の中距離G2を1勝しただけ馬だが、米国最大のレース、ブリーダーズカップ・クラシック(G1)を勝ったヴェイルドアンチェインの半弟という血統を評価されて日本に輸入された種牡馬だった。
ただし日本での種牡馬成績はさっぱり。
産駒には総じてスタミナ型の傾向があり、軽快なスピードが要求される現代競馬にはまるでふるわなかった。
種牡馬として一線を退いてからも新冠の獣畜センターで数年間にわたって供用されたが、今となっては行方もわからなくなり、一説には肉屋に売り飛ばされたとか十勝の米農家に買い取られて農耕馬になったとか判断のつかない噂がある。
そんな母系にこれも失敗の印象が色濃いミホノブルボンという血統の馬は、日高の小規模牧場あたりにゴロゴロいて買い手がつかず、牧場主が途方に暮れているようなイメージがある。
そういった意味では地方競馬出身とはいえ、粒ぞろいの良血馬たちが集う中央競馬にツバサオーが所属していること自体、すでに奇跡なのかもしれなかった。
「血統どうこうよりもコイツはもう少しデカくなってもらわないとな。幸い脚元は丈夫そうだから鍛え甲斐あるぜ」
そういって小次郎が首筋を叩くと、馬はまたやる気なさそうにあくびをした。
「食らいついてくような根性がないからねぇ、この仔は。のんびりやるよりもガッツリと教育したほうがいいのかも」
ツバサオーの『女好き』はあいかわらずで、隙を見せると埼京線の親父リーマンも真っ青のおさわりである。
その度に鉄拳制裁をしているものの、一向に懲りないのが楓の悩みの種だった。
牝馬を見たらすれ違うだけでも色目を使うし、かなりの変人ならぬ変馬だ。
この時点では周囲の誰もが、この馬のもつ並々ならぬ潜在能力に気が付きもしていなかったのは仕方ないのだが、それはまだ後の話である。
「あのぅ……」
「今週はプリ(シア)が福島の500万条件に出走しますけど、熊さんにお願いしちゃっていいんですか」
「おう、ジィさんのシーサンダーも一緒の福島だからな」
「あ~あ、あたしは阪神まで出張だよ。新幹線は苦手なんだよなぁ」
「マーメイドSの有力馬に挙げられているフブキディザイアに乗るんですよね? オークスで4着したって言っても3歳で古馬に挑戦なんて強気ですね」
「すぃません……ぁの…」
「陣営としてはずばり、美浦の豪腕・遠野ジョッキーの手綱に期待ってところだな」
「誰が豪腕だ」
腕組みした小次郎に肩パンチを入れる。もちろん鏡子の腕は筋肉質だが細い。
「……んっ? あれ、浅野さん、いつからそこに?」
スーツ姿の小男にようやく気がついた小次郎がそう言うと、みなの視線が集まった。
「ぁの……その、……さっきから、いたんですけど」
楓よりもさらに頭半分ほど小柄な、50代半ばくらいの男性は蚊の鳴くような声で言った。
一見して冴えない、バーコード頭にべっこう縁の眼鏡をしたオッサンである。
(……誰なんですか?)
楓がそっと聞くと、
「リーサルとハルオの馬主、浅野さん」
「えええ~っっっ!!!」
一同は声をあげた。
「……すぃません…」
厩舎の休憩室に通された浅野は楓に出したお茶に、「熱っ…」と小さなリアクションをした。
向かい掛けのソファにどっかりと腰をおろした小次郎の背後から、楓はその姿を見ていた。
湯気で眼鏡がくもっていた。
「きょうは2頭の様子を見にいらっしゃったんですか」
無言を回避するように小次郎が口を開いた。
「は、はぃ……仕事で近くまで来たものですから……」
「札幌からだと美浦はだいぶ遠かったでしょう」
「は、はぃ……」
「……きょうは暑いですね」
「はぃ…」
「………」
「……………」
ときたま胸ポケットからハンカチをだして汗をぬぐったりして、浅野は視線を床におとした。
黙っていても威圧感のある小次郎がその相手をしていると、まるで『実録・闇金の取り立て現場』だ。
浅野は札幌で不動産業を営む事業主で、ホッカイドウ競馬の馬主資格は以前から持っていたのだが、この度、中央競馬の馬主資格も取得したので持ち馬を走らせることになったのだ。
といっても中央の調教師にコネがあるわけでもなかったので、道営競馬の盟主・伊達辰人調教師の紹介で小次郎が馬を預かることになったのである。
「リーサルウエポンはいいですよ、徐々に調子をあげていますし、あと二週くらい追い切って中央デビューさせる予定です」
「そぅですか、よかった。ぁの……ツバサオーの方はいかがですか」
「ハル…ツバサオーの状態はこれからといった段階ですが、丈夫そうなのでレースを使いながら仕上げていくことにしました。札幌の未勝利戦を使う予定なので少しずつ調教量を増やしていきます」
「札幌ですか…。でしたら家族で観戦にぃきたいですね」
そう言って浅野はにっこりと笑った。
「ちょっと厩舎を見せていただぃてよろしいでしょうか…?」
ぎこちない笑顔を返しながら、小次郎はうなずいた。
【 マーメイドS (GⅢ) 阪神 2000m 芝 良 】
……正直いって、遠野鏡子は迷っていた。
リニューアルされた阪神競馬場の直線は長い。
ポンと好スタートをきったフブキディザイア(父ダンスインザダーク)は行き脚もついてそのままハナに立ち、向こう正面を依然として二番手以下に三馬身ほどの差をつけていた。
見た感じでは非常に小気味いい『逃げ』である。
しかしフブキディザイアは本来、ジワッと先行してそのまま好位抜け出しを図るのが理想的な先行馬だった。これからさらにペースがあがり、4コーナー過ぎて直線に入っていつもどおりの脚を使ってくれるかはわからない。
幸いなことに馬は走ることに集中している。
逃げが悪いわけではないらしい。
後ろから他馬が来てからがどうかだが、早めに仕掛けるよりギリギリまで粘って仕掛けを遅らせたほうがいい。
しかしそうすると……。
ちらと後方に見ると後方集団から人気の両頭、カヴァークラフト(父エンドスウィープ)とジェネティック(父スペシャルウィーク)がいい手応えでがこちらの様子をうかがっていた。
鞍上は牧昇二と若手の榊銀河。
そのさらに後方馬群にいる3番人気のシャインミドラーは明らかに調子が悪く、流れについていくのが精一杯といった様子で、騎乗する神薙舜も負担にならない程度にしか追っては来ないように思えた。
―――勝つためには1番人気、2番人気の両馬の末脚を封じ込めること。
だがこのままただのスローペースでは瞬発力に劣るぶん、長い直線でおそらく差し切られてしまう。
残り800mの標識を確認すると同時に、意を決して鏡子は鞭をかざした。
「やぁぁっ!」
尻鞭と叱咤に応えて、フブキディザイアはグングン馬群を引き離しにかかった。
重複するが同馬の得意とする戦法は先行、粘り込みである。
実際にその先行策でオークスを4着した実績があり、今日もおおかたの予想では二、三番手を追走すると思われていた。
しかしスタートから先頭に立ったフブキディザイアは想像したよりもご機嫌なようで、それを後方のポジションにいる牧や有力ジョッキーが見逃すはずもない。
ならば、と鏡子が下した命令が『さらに突き放せ』だった。
後ろからのプレッシャーがかかる前に、攻めに転じることで撹乱させる。幸いなことにフブキディザイアは3歳馬のために背負っているハンデも52キロと、おあつらえ向きだ。
滑らかなカーヴを生来の器用さを利して加速していく鹿毛馬に、スタンドの観衆がどよめいた。
6馬身、7馬身とみるみるその差が開いていく。
「あンのネェちゃん、やってくれるわ……。昇二兄さん! そろそろ1番人気が行かんとこのレース、あの関東馬に持ってかれまっせ!」
ジェネティックに騎乗する榊銀河が外側を併走する牧に言った。
「あか~ん! オレの馬は一瞬しか脚が使えへんからココいったら終いやで!」
ゴーグルの下で牧はニヤッと笑う。
この古ダヌキが、と榊は笑みを返しながら密かに悪態をついた。
差し馬同士が牽制しあうことも鏡子の策である。
一度、勢いをつけた馬は何度も加速できるものではない。先頭でゴールを駆け抜けるためには先行馬の粘りを考慮してラストスパートしなくてはならない。
むろん前の馬を差したからといって後ろから来た馬に差しきられては元も子もない。
そんなことをしている間にも先頭をひた走るフブキディザイアは早くも最終コーナーを回りきって直線に踊り出ようとしていた。
二番手との差はおよそ4馬身。
スタンドから割れんばかりの喝采と歓声が上がる。
鏡子はふたたび後ろを見て、両腕で馬の首筋を押し込んだ。
フブキディザイアは精一杯の力をふりしぼって後続に追いつかれまいと疾走した。
いわゆる早仕掛けであったにも関わらず、その勢いはまだ落ちない。
鏡子の作戦は狙いどおりのドンピシャだった。
後方馬群も追走に脚をいくらか使わされており、多くの馬がペースを乱してもがいていた。
残り200mを過ぎるとさすがにフブキディザイアもバテる様子をみせたが、あと少しだ。
「もう少しだよ、がんばって!」
鋭い声とともに鞭が飛ぶ。
鞍上に応えるように馬はもう一度伸びた。
残り50……40……20……10……5……
逃げ切った!
と、確信したその時。
内と外、鋏まれるようにしてほぼ同時に後方から馬体が合わさった。
「ご苦労サン♪」
ゴールライン上、獲物をきっちりクビ差だけ交わした牧の口元が不敵に微笑む。
「………!!!」
少なからぬショックを受けながら鏡子は悠然としたその背中を見送った。
また、だ――。
目一杯の競馬をして馬の力を引き出した。
会心の騎乗だったはずなのだ。しかしそれでも届かない。
関西に遠征して、これまで鏡子は一度も重賞レースを勝ったことがなかった。どんなに強い馬に乗せてもらっても必ずその先には同じ背中があった。
悔しさのあまり奥歯を噛み締めていると、すぐそばで、
「ああああ――っ、またや! また負けてもぉた――ぁっっっ!」
と大きな声が上がった。
声の主は2番人気ジェネティックに騎乗していた榊銀河である。
馬上で頭を抱えてもだえている。
榊はデビュー2年で関西所属騎手の十傑入りした若手のホープで、実家は大阪天王寺で有名な懐石料理屋を営み、自身も日本料理の調理師免許を持つという変り種だ。
よくしゃべる大きな口と柳眉に吊りあがった眼が特徴的な青年である。
鏡子はハッとして馬場の中央にある電光掲示板を振り返った。
フブキディザイアはアタマの差で3着の表示がされ、2着は榊騎乗のジェネティック。
どうやら2頭同時に交わされていたらしい。
神薙舜が手綱をとったシャインミドラーは5着。不調を思えばまずまずといったところだろうか。
鏡子は陰鬱な気持ちになりながら地下馬道にある検量所におりていった。
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